34-13865
商品番号 34-13865

通販レコード→仏カラー・スタンプ・ドッグ盤
音楽的にピアニスティックに考える ― 第2次世界大戦中、我が国のレコード会社の名称が全て日本語に改められたが、終戦直後そのようなレーベルのレコードの中にシューマンのピアノ協奏曲が、イーヴ・ナットとウージェヌ・ビゴー指揮のパリ管弦楽団によって録音されていた。イーヴ・ナットの演奏が素晴らしく端正なものであり、その瑞々しい響きに魅了されて、このレコードを繰り返し聴いた。これがイーヴ・ナットの名を知った最初であるが、シューマンの《子供の情景》や《幻想小曲集》からの各曲を聴くに及んで、その印象は鮮明となっていった。それからしばらくののち、我が国の井口基成氏がイーヴ・ナットに師事していたことなどを知ったが、レコードのイーヴ・ナットと、そのこととうまく結びつかないまま記憶の彼方でイーヴ・ナットの訃報を聞いた。イーヴ・ナットは1890年フランスのベジェに生まれ、パリ国立音楽院においてルイ・デュエメ教授の薫陶を受けた。1906年、ピアノ科1等賞を受賞した後、フランスおよびヨーロッパにおいて演奏活動を行い確固たる名声を築いていった。また、パリ国立音楽院の教授として迎えられ多くの後進を育成した。イーヴ・ナットは音楽不在の機械的な学習法を極度に忌み嫌い、そうしたことに提供されるピアノを“象牙の歯の生えた怪物”と呼び、むしろ家具調度品としてのピアノは、こうした害がない ...... と皮肉な言葉を述べている。実際イーヴ・ナットの演奏は、まず先行する音楽的想像力、そして、それに奉仕する技巧から成り立っている。従って、機械的な訓練によりもたらされるスポーツ的快感を、そこに期待した場合には多くの失望が残される。ピアノの演奏をスポーツと取り違え、真の音楽表現のための技巧を把握し得ない現代の傾向に激しい批判を向けているイーヴ・ナットは、また“ピアノについて考えてはいけない、すべてを音楽のために考えなければならない”と述べているが、そうした言葉を裏書きするように、その演奏は詩的想像力、詩的幻想に満ちたものである。この点においてシューマンの作品との同質性がみられ、シューマンの演奏においてこそ、イーヴ・ナットの良き資質が充分に発揮されているように思われる。
イーヴ・ナット(YVES NAT)の名は、今日でこそ遠いものになってしまったが戦前はマルグリート・ロン、アルフレード・コルトー、古くはインドール・フィリップらと共に世界に、その名をうたわれたフランスのピアニストであった。不幸にして働き盛りの40歳代に身体を壊し、戦中から戦後へと療養の生活を余儀なくされた。しかし、戦後まもなく元気になり再び第一線に姿を現し、演奏に録音に教育に《パリ・コンセルヴァトワール》帰り咲いたかにみえたのも束の間、再び病を得て1959年9月1日惜しまれつつ、この世を去ったのであった。時に66歳、芸術家として最も円熟した時期のことであった。彼は1890年生まれ、前述の演奏家の中では最も若くフィリップやドビュッシーとは3世代、ロンやラヴェルとは2世代、そしてコルトーとは10年の差がある。彼は葡萄酒の産地として名高い南フランスは、もうスペインに近いベジェの旧家に生まれた。長じてパリのコンセルヴァトワールにはいり、ピアノをルイ・ディエメ(1843〜1919)に学んだ。ディエメは有名な批評家のハンスリックから“極めて繊細で優雅な芸術家”と賛えられた名演奏家であり、その弟子で日本にも良く知られたラザール・レヴィによれば「彼の演奏の驚くほどの正確さ、伝説的とも言えるトリル、スタイルの精妙さは彼をして、我々のすべてが尊敬する偉大なピアニスト足らしめた」ということである。ディエメは演奏家として多くの初演を手がけ、その中にはフランクの有名な交響変奏曲なども含まれているが、教師としても優れた弟子に恵まれ、アルフレード・コルトー、マルセル・シアンピ、ラザール・レヴィ、ロベール・カサドシュ、そしてイーヴ・ナットと、のちにフランスのピアノ界の主流となった人たちをその門下から輩出させている。“彼はおそらく、フランスのピアノ界の歴史の中でも最も完成したテクニシャンであったろう”と言われるほどの名手であった、この師ディエメから出てコルトーは、やがて独自の道を歩むようになり自由で奔放で、幻想的でブリリアントな彼独特の世界を作るようになる。同じ頃ロン女史も独特のスタイルで活躍しており、戦前はそういった華麗な人達の姿ばかりがレコード・ジャーナリズムを通じて日本に知られてきたため、フランスのピアニズムの持つ極めて合理的で正確なテクニックの伝統という一面は一時、私たちの前にも影が薄い存在になっていた。しかしフランスのピアニズムの真骨頂はなんといっても、その合理的なテクニックから生まれる音の美しさである。1955年に日本人として初めてショパン・コンクールに入賞した若き田中希代子が持って帰って我々に聴かせた音がこれだった。彼女の天分に加わうるに師ラザール・レヴィのメソードによる指導で、素晴らしいピアノの世界が彼女のものになっていた。ピアニッシモからフォルティッシモまで、正確な打弦から生まれる美しいトーン・プロダクション …… 。
コルトーが独自の幻想的な道を歩いて行ってしまった大家であったのに対してイーヴ・ナットのピアノの世界は、まさにこのフランス的な素晴らしいトーン・プロダクションの技術の上にしっかりと根を張ったものであり、その上に独特の世界を築いて行ったものである。ことテクニックに関する限り、彼にはコルトーうあ、その弟子のサンソン・フランソワに見られるような、流れやすい演奏ではなく堅固で鉄壁の楷書の世界がある。そして私が思うにナットのピアノの本質的な美しさは、またそこにある。彼は良くシューマンを弾いたが、その場合でもシューマンの文学的世界にまず没入する ― 19世紀ドイツ的方法 ― のではなく、音楽の構造を読み、次にその譜を如何にして美しい音楽にするかを考え、そのためにはどんなテクニックが必要かを考えるように、音楽的にピアニスティックに考える ― プロセスで出来た結果をシューマンの世界に結びつけていくようにして十分に“音楽”が出来上がれば、それ自体がシューマンの音楽と別物になるはずはないのである。溺れる前に音楽を掴む ― ナットの世界であり美である。かといって彼が無味乾燥な非情意的人間であったろうか。ナットが終世そのレパートリーとしたのはベートーヴェンを手本とした、ブラームス、フランクなどというロマンティックな音楽である。彼がそれらの音楽を弾く時、かけがえのない幻想的な“詩人の魂”が聞こえてくるのである。彼は幸いな事にLPレコードの時代まで生きていてくれたSPレコード時代の巨匠でありながら、LPレコードのための幾つかの録音を遺している。それらはいずれもディスコフィル・フランセによるLPレコード黎明期のものとは思えないほどに良く録音されていて、不満を感じさせること無く稀代の巨匠の生前の音の美しさを偲ばせてくれる。特にペダル演奏の技術のうまさは絶品で、ロマン派の音楽を弾く時には重要だ。ペダルを次の和音にかぶせながら、決して音を濁さないで余韻を生み出して行く。それは魔術に近いうまさであった。彼の衣鉢はピエール・サンカンが継いでおり、井口基成氏とその一門に継がれているわけであるが、日本では華やかで綺麗で洒落たのがフランス音楽と誤解される傾向にあるが、ピアノというものの真髄を伝える、端正で剛直である彼の演奏のレコードが少しでも市場に送り出されてピアノ愛好家の耳に達するようになることを、1ファンとして願いたいものである。
痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦しみだけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。 ― ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』
ロベルト・シューマン(1810〜1856)の作品と、その作曲年代を概観してみると、まず最初に気づくことは各ジャンルの作品が、ある一定の年に集中していることである。例えば彼の多くの歌曲は1840年に作曲されており、その年は「歌曲の年」とも呼ばれている。また1841年には「春」の名前で親しまれている交響曲第1番をはじめとする彼の管弦楽作品の代表的なものが集まっている。さらに彼の代表的な室内楽の作品は1842年に集中しており、その年は「室内楽の年」とも呼ばれている。もちろん例外もいくつかあるのだけれど。シューマンのこうした集中攻撃的な才能の爆発の仕方は彼の音楽全体の在り方を考えるうえで、極めて興味深いことであるといえよう。そのようなことと比較すると、彼の音楽の代表的分野であるピアノ作品は、ある一定の年に集中するということが、どちらかといえば少ない。彼の生涯を通して、ピアノ作品は殆どいつでも作曲されていたという傾向が強い。最晩年になると作品も少なくなってくるが、それは彼の病と無関係ではないのだろう。こうした事実は、シューマンのピアノという楽器に対する特別な愛着を端的に物語っているということが出来るだろう。ピアニストを目指して、指を痛めてしまうまで猛練習を繰り返した若き日から、シューマンにとってピアノという楽器は他の何にもまして身近なものとして、彼に寄り添っていたのだった。作曲家としてのシューマンの内実をピアノ以上に雄弁に語った楽器はなかったといっても、決して誇大な表現となることはないのである。すでに“蝶々”や“謝肉祭”などの小品集を書いたシューマンは、1837年に“ダヴィッド同盟舞曲集”とともに《幻想小曲集》を完成した。これらの小品はシューマン独自の詩的幻想の見事な結実を示すもので、シューマンの創作活動の内面的な成長を大きく示したものとして特筆に値する作品である。
作曲家の創作力にクララほど影響を及ぼした女性は稀だ。波頭のような流れの伴奏の上に3連符の上昇メロディが顔を出し、荒れ狂う海の描写を思わせる第5曲「夜に」は《幻想小曲集》全体の中心楽章。シューマンはクララに宛てた手紙の中で E.T.A. ホフマンの「ヘロとレアンダー」という物語に出てくる、灯台の下で待つ女のもとへ男が海を泳いでやってくるエピソードを引用し、「「夜に」を弾くときにこのイメージを忘れられない」と書いています。「夜に」はシューマンとクララの恋愛の苦難をそのまま描写している音楽だ。「幻想小曲集」というタイトルはロベルト・シューマン(Robert Schumann, 1810~1856)が傾倒したドイツ・ロマン派の小説家 E.T.A. ホフマンの「カロ風幻想作品集」に由来しています。シューマンは1835年に「スイス音楽時報」に9曲のピアノ小品を発表、そこから1曲を削除して、それぞれに詩的なタイトルを付けて「幻想小曲集作品12」としました。「カロ風幻想作品集」から創作のインスピレーションをした拾い上げたものでしょうが、互いに深い関連性があり統一感を持ってまとめあげられた作品です。8曲は順に、《夕べに》、《飛翔》、《なぜに》、《気まぐれ》、《夜に》、《寓話》、《夢のもつれ》、《歌の終わり》。どの曲もファンタジー豊かな小品ですが、各曲のコントラストと調和と均衡は見事でシューマンらしい幻想的な美しい作品となっています。1837年から1838年にかけて作曲され、1838年ライプツィヒのブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版、シューマンと親交のあったイギリスの女流ピアニストのアンナ・ロビーナ・レードロウに献呈されました。唯一外された無題の第9曲を思うとともに、どんなタイトルをつけたらいいのか想像するのも楽しいでしょう。続くシューマンの「幻想曲」には、彼らの親しいフランツ・リスト(Franz Liszt, 1811〜1886)が「ソナタ風幻想曲」だと言っている。ベートーヴェンに捧げるソナタとして構想されながら、青春の夢が膨らみに膨らんでソナタ形式を突き破ってしまったかのような作品。草稿では『フロレスタンとオイゼビウスによる大ソナタ』と題され、第1曲を《廃墟》、第2曲を《凱旋門》または《勝杯》、第3曲を《星の冠》または《棕櫚の枝》と題していた。それを念頭に聴くと、シューマン特有のイロニーとフモールの欠けた第1曲は、将来狂気の淵に沈むことを予見するようだ。第2曲は死後の凱歌だろうか、壮大だが空虚な廃墟をイメージさせる。両手が分散和音でアーチを積み重ねていくような第3曲は広大な空間に広がっていくばかりだ。1835年、フランツ・リストらを中心としてボンにベートーヴェン記念像の建立が計画された。発起人に名を連ねたシューマンは、寄附を目的として翌年から1838年にかけてこの曲を作曲した。第1曲の第1主題はハ長調だが、「初めのテンポで」と指定されて再現するときはハ短調で、末尾ではベートーヴェンの連作歌曲「遙かなる恋人に寄す」を引用して憧れに満ちたアダージョとなる。第2曲の精力的な音楽はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第28番と共通性が強い。と、いったふうにベートーヴェンを讃えるため曲中にベートーヴェンの作品が引用されている。各曲の表題は結局は外され、代わって冒頭にフリードリヒ・シュレーゲルの詩の一節がモットーとして掲げられた。
鳴り響くあらゆる音を貫いて、色様々な大地の夢の中に、ひとつのかすかな調べが聞こえる、密やかに耳を傾ける人のために。
このシュレーゲルの詩は、シューベルトの歌曲『しげみ Die Gebüsche』D.646にもなっている。ベートーヴェンを讃える一方でクララ・ヴィークのための作品でもある。シューマン自身によれば、“調べ”はクララのことだ。この時期はシューマンがクララと婚約しながら彼女の父親の猛反対で先が見えない時期に当たり、構想段階の表題、引用されたベートーヴェンの連作歌曲『遥かなる恋人に寄す』、さらには第1楽章の頻繁な転調と不安定な調性感もそれを反映しているといわれる。1839年出版。シューマンは寄付として『幻想曲』作品17をリストへ送った。1839年6月5日にリストは「あなたに献呈していただいた幻想曲は最高級の作品です。あなたからこのような壮大な曲の献呈をうける光栄に浴したことは、私は本当に誇りに感じております。私はこの曲にとりくみ、これから最大限の効果をあげられるように、それを徹底に調べようと思います。」と感謝してシューマンから受け取った。この返礼としてリストは1852年から1853年にかけて『ピアノ・ソナタ ロ短調』を作曲、1854年にブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版して、シューマンに献呈している。この作品が書かれたのはピアニストを引退したリストがヴァイマルの宮廷楽長に就任して5年近く経ち、もっとも充実していた時期だった。しかしシューマン自身は、この年の2月27日に自殺未遂を図って精神病院に入院したため、この曲を生涯聴くことはなかった。夫ロベルトの自殺未遂から間もない1854年5月25日のクララ・シューマンの日記に「ただ目的もない騒音にすぎない。健全な着想などどこにも見られないし、すべてが混乱していて明確な和声進行はひとつとして見出せない。そうはいっても、彼にその作品のお礼を言わないわけにはいかない。それはまったく大儀なことだ」と苛立ちの気持ちを書き残しているが、リストはロ短調ソナタにシューマンのピアノ曲の標題的試みを応用したことは十分考えられ、作曲した時にあった標題をシューマンに倣うかのように楽譜から外してしまったせいで、クララ・シューマンは鼻についたのだろう。リストの大規模作品では珍しく、標題にあたるような言葉をリスト本人は一切残していない。ソナタであるにも関わらず明確な楽章の切れ目は無く、単一楽章で構成されていること、主題がその構成要素を基に変容され、ある部分で粗暴さを見せたかと思えば、一方で美しい旋律に展開されていく等、主題変容の技法によって曲全体が支配されている。要はピアノ演奏の技法と作曲能力によって、楽曲全体が高い統一感を示している。出版直後の1854年、リストと交流のあったルイス・ケーラーは『新音楽時報』上でこのソナタを評して主題の「美しさと遠心力」、明確な対比を称賛し、主題変容の巧妙な用法や作品全体の芸術性を評価している。アントン・ルビンシテインはこの曲が新しい形式問題を投げかけていることを理解し、リヒャルト・ワーグナーは「このソナタは、あらゆる概念を超えて美しい。偉大で、愛嬌があり、深く、高貴で ― 君のように崇高だ」とリストに書き送っている。
1週間以上もあなたに手紙を書いていませんでしたね。でも私はあなたの夢を見て、これまで経験したことのないほどの愛をもってあなたのことを想っています。ピアノの前に座っては、いっぺんに作曲しつつは文章を書き、笑いながら泣く毎日です。あなたにはこれらが全部、私の Op.20 のグランド・フモレスケの中に美しく書き表されているのがわかることでしょう。曲はもう楽譜屋の手の中にあります。
結婚一年前、1839年3月11日に書かれたシューマンのクララへの手紙より私はこの世で起きるあらゆることから影響を受けて(……)その気持ちを表現したいと思っていたところ、音楽の中で表すという方法を見つけたのです。そのため私の楽曲は時に理解しがたいですが、それは音楽が色々な興味と結び付けられているからなのです。シューマンの最も内省的な面の現れとして《フモレスケ》作品20の第2部に見られる「Innere Stimme=内なる声」を挙げたいと思います。三段譜表の中段に「内なる声Innere Stimme」と書かれた旋律の存在である。上段は右手で、下段は左手で奏されるが、中段の旋律は演奏されない。中段に書かれた「内なる声」である音符は実際には演奏されず、ただ心の中で静かに歌われるべき旋律を意味しています。現実的な音響とは関係ないこうした書法や、モットーとしての詩の提示はシューマン独自の詩的世界の現れであり、シューマン以外ではほとんど考えられないことだと思います。コラール風の旋律にも強弱変化をつけると、音価を引き伸ばされた「内なる声」は、歌うように、音を伸ばしたり大きくしたり減衰したりできる「声」として聞こえてくるのである。その一方で、シューマンはこの「一つの静かな音」とはクララであると彼女への手紙の中で書いています。シューマンにとっての「一つの静かな音」が自分自身の心の声なのか、クララのことを指しているのか断定することはもちろんできません。しかしロマン派の時代とは比較にならないくらい生活のおけるあらゆる点で進歩を遂げ、ほとんどの情報や物をすぐに手にできることができる私たちにとって、世界がますます雑多な音に満ち溢れ、どこかで静かに鳴っているはずの一つの音に耳をすますことが難しくなっていることは間違いないでしょう。
シューマンのピアノ協奏曲は伝統的様式を持つ点で、一応古典的な協奏曲の原理の週末であるとみなされるのと同時に名人芸的な華やかさが抑えられ、作品全体の調和と統一力を保つことが第一義に考えられるといった独奏協奏曲の新しい理念、ひいては従来の協奏曲が色濃く持っていた「競争」の性格を全く失ってしまうこと無く、しかも独奏ピアノとオーケストラを色彩的に同化させる交響的な色合いを強く押し出すといった性格によって、演奏者にとっては極めて扱いにくい作品となっている。均整感を保った清冽な叙情はクラシックであると同様にロマンティックであり、かつそれは徒らな厚化粧や濃厚な甘さといった「誤解されたロマンティシズム」とは全く無縁のものである。その鮮やかな飛翔感、モノトナスな表面の内側に多彩な広がりを感じさせる音色、さらにシューマン独特の流動感をリヒテルは古典的とも言える潔癖な様式の上に弾いていく。第2楽章というよりはシューマン自身が記した通りの「間奏曲」は、円満な家庭と充実した創作活動の時代を反映する柔和な音の詩である。落ち着いた安らぎに満ちており、そこでは若い日のシューマンがみせた屈折した情熱も影を潜めている。終楽章のアレグロ・ヴィヴァーチェでもピアノの独奏者に対するヴィルトゥオジティは最高度に要求されるのだが、それでいてこの協奏曲はリストやチャイコフスキーを弾くような華麗さを許容しない。ピアニストにとって、これはまさしく苛酷な要求であり、ともすれば表面的に体裁を繕っている凡庸な演奏学の化けの皮をはがしてしまう恐ろしさを持っている。ここにシューマンが、この作品に込めた一つの理想がある。この「理想」は、けれども、作品の完成当時、人々に理解されなかったものである。シューマンの愛妻クララでさえ、これを初演した時以来常に批評家から向けられる攻撃にたじろいで、この終楽章を当時の流行だった名人芸発揮の形に改めたいとヨアヒムに相談の手紙を出したほどだった。それは夫ローベルトが精神病院のベッドのうえで痛ましい最期を遂げた翌年、1857年のことである。しかし、その「冒涜」は敢行されなかった。シューマンは青年時代、ピアニストとしての自分にあまりにも無理で苛酷な練習を強いた挙句、指を痛めてコンサートピアニストとしての夢を断ち切らざるを得なかった。そうした彼にとってピアノ協奏曲の作曲は、その華やかな栄光に対する再び別の角度からの挑戦を意味したのだろう。彼はクララと結婚した翌1841年の夏、ピアノとオーケストラのための幻想曲として現在の第1楽章にあたる部分の原型を完成し、その4年後、それを三楽章形式のピアノ協奏曲に拡大した。そのとき第1楽章には比較的短くヴィルトゥオーゾの性格が極力控え目にされたカデンツァが置かれ、コーダも書き添えられて作品は一段と深い重厚さとロマンティックな詩情をたたえた独特な輝かしさをもって飾られることになったのである。
ロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann)は、 1810年6月8日にドイツのツヴィッカウに生まれました。5人兄弟の末っ子で出版業者で著作もあったという父親のもとで早くから音楽や文学に親しみ、作曲や詩作に豊かな才能を示したといいます。ロベルト16才の年にその父親が亡くなり安定した生活を願う母親の希望で法学を選択、1828年にライプツィヒ大学に入学しますが音楽家への夢を捨て切れず、1830年に高名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークに弟子入りします。作品番号1の『アベック変奏曲』が出版されたのは、同年のことです。翌31年からはハインリヒ・ドルンのもとで正式に作曲を学び始め、手を痛めて(指関節に生じた腫瘍が原因とされています)ピアニストへの夢を断念せざるを得なかったこともあり、作曲家、そして音楽評論家への道を選びます。シューマンは、まずピアノ曲の作曲家として世に知られました。作品番号1番から23番まではすべてピアノ曲で占められます。1834年の夏、エルネスティーネ・フォン・フリッケンとの恋愛から、『謝肉祭』と『交響的練習曲』が生まれました。その後、ピアノの師ヴィークの娘で名ピアニストだったクララ・ヴィークと恋に落ち、婚約しますが、ヴィークはこれに激しく怒り、若い2人はつらい日々を送ったとされています。『幻想小曲集』、『幻想曲』、『クライスレリアーナ』、『子供の情景』などの傑作は、そのような困難の中で作曲されました。1839年、シューマンとクララはついに裁判に訴え、翌40年に結婚が認められました。この結婚をきっかけに、それまでピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンは歌曲の作曲に熱中、1840年からのわずか1年ほどの間に、『詩人の恋』、『リーダークライス』、『女の愛と生涯』など、幼少期からの文学的素養とピアノの天分とが結びついた傑作が次々と作曲され、この1年は特に「歌の年」と呼ばれています。1841年からは一転してシンフォニーの創作に集中、「交響曲の年」と呼ばれるこの年には、実際にはシューマン初めてのシンフォニーである第4交響曲の初稿、交響曲第1番『春』を作曲。このうち『春』は、3月31日に親友フェリックス・メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって初演され、大成功をおさめたとされています。1842年には『ピアノ五重奏曲』など室内楽曲が集中、翌43年にはオラトリオ『楽園とペリ』が書かれています。1844年、ドレスデンに移住、傑作『ピアノ協奏曲』が作曲されますが、この頃から徐々に、青年期に罹患した梅毒に遠因があるとされる、精神的なバランスの不安定が顕れはじめ、その危機を逃れる目的もあってJ.S.バッハの研究に没頭、オルガン作品にその成果を残しています。
1845年から翌年にかけて、交響曲第2番を作曲。1848年、唯一のオペラ『ゲノフェーファ』を作曲。1850年、デュッセルドルフの音楽監督に招かれて移住、デュッセルドルフの明るい風光がシューマンの精神に好影響をあたえたといわれ、それを実証するように、交響曲第3番『ライン』や『チェロ協奏曲』、多数の室内楽曲を作曲、交響曲第4番の改訂がおこなわれ、大規模な声楽曲『ミサ曲ハ短調』や『レクイエム』が次々と生み出されます。しかし、1853年11月には楽員との不和から音楽監督を辞任、あまりにも内向的なシューマンの性格に原因があったとされています。『ヴァイオリン協奏曲』はこの頃の作品ですが、クララやヨーゼフ・ヨアヒムなど、周囲から演奏不可能であるとされて公開演奏も出版もおこなわれず、ゲオルク・クーレンカンプによって1937年に初演されるまで埋もれたままになっていました。若きヨハネス・ブラームスがシューマン夫妻を訪問したのは、1853年の9月30日のことでブラームスは自作のソナタ等を弾いて夫妻をいたく感動させます。シューマンは評論「新しい道」でこの青年の才能を強く賞賛します。このブラームスの出現は晩年のシューマンにとって音楽の未来を託すべき希望であったとされていますが、一方では妻クララとの不倫疑惑に悩まされるという相反する感情を生じてしまい、この希望と絶望が、シューマンの精神に決定的なダメージを与えたとされています。1854年に入ると病は著しく悪化、2月27日、ついにライン川に投身自殺を図ります。一命をとりとめたものの、その後はボン・エンデ二ッヒの精神病院に収容され回復しないまま、1856年7月29日にこの世を去りました。精神病院で常に口にし、また最後となった言葉は「私は知っている。(Ich weis)」であったと言われています。作曲家兼指揮者として活躍したシューマンですが、評論家としての功績も忘れるべきではないでしょう。1834年に創刊された『新音楽雑誌』の編集を担当、1836年には主筆となり、1844年に至るまで務めます。これに先立つ1831年、同い年のフレデリック・ショパンの才能をいち早く見出した「作品2」と題された評論の中の「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」という言葉はあまりにも有名。その他にも、メンデルスゾーンを擁護し、バッハ全集の出版を呼びかけ、若き日のブラームスを発掘したのも、エクトール・ベルリオーズをドイツに紹介したのもシューマンでした。特に、フランツ・シューベルトの埋もれていた「天国的に長い」ハ長調交響曲『グレート』を発見したことは、音楽史上の大成果と言えるでしょう。
ピアノ協奏曲イ短調 Op.54 ビゴ指揮(1933年録音)、クライスレリアーナ Op.16(1951年録音)、幻想小曲集(全8曲) Op.12(1955年録音)、フモレスケ変ロ長調 Op.20(1955年録音)、子供の情景 Op.15(全13曲)(1952年録音)、トッカータ Op.7(1951年録音)、アラベスク ハ長調 Op.18 (1952年録音)、蝶々 Op.2(1954年録音)、3つのロマンス Op.28(1951年録音)、交響的練習曲 Op.13(1953年録音)、幻想曲ハ長調 Op.17(1953年録音)、ノヴェレッテ Op.21(1950年録音)。
FR VSM 2C-153 10960-4 イヴ・ナット シューマン…
FR VSM 2C-153 10960-4 イヴ・ナット シューマン…
FR VSM 2C-153 10960-4 イヴ・ナット シューマン…
FR VSM 2C-153 10960-4 イヴ・ナット シューマン…