34-11795

商品番号 34-11795

通販レコード→仏フレッシュ黒文字盤

気迫と凄絶な表現で決定版。 ― 令和元年も残すところ3ヶ月となりました。8月の蓄音器で聴くSPレコード鑑賞会ではアルトゥーロ・トスカニーニ指揮でベートーヴェンの田園交響曲を聴き、次回はヴィルヘルム・フルトヴェングラーでベートーヴェンの交響曲第7番へと聴き進めます。彼ら、トスカニーニとフルトヴェングラーは、ともに後世に多大な影響を与えた二人の偉大な音楽家であり、第2次世界大戦中に活躍して、戦後にLPレコードも残したライヴァルであった。1930年の中頃、政治と音楽の関係をめぐり、はげしく衝突し、そして別れて行った。しかし、二人は最初から仲が悪かった訳ではない。トスカニーニは、当初、音楽家としてのフルトヴェングラーに敬意をもっていた。ヨーロッパでの活躍を考えて、常任指揮者を務めていたニューヨーク・フィルハーモニックをやめた時、自身の後任に推薦したほどである。しかし、その任をフルトヴェングラーが断わった際、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルスらの巧みな策謀によって、あたかもフルトヴェングラーがナチのお抱え指揮者のような印象をアメリカ中に与えてしまったという事件が起きた。これが二人の間に影を落とすこととなった。それでも、その数カ月後に、フルトヴェングラーがパリでトスカニーニと会食した際には、二人の間はそれほど険悪な雰囲気ではなかったようだ。フルトヴェングラーによると私は、トスカニーニと一時間半、一緒にすごした。彼は、アメリカの話を断わったことで、厳しく私をなじった。しかし、それ以外では、とても楽しい会話をかわした。人々がよく話していた彼の人となりについて、よく理解できる。と回想している。しかし、この後、二人の関係は極端に悪化してしまう。1937年夏(おそらく8月27日)、ザルツブルグでの激論にはじまり、その後、決定的な決裂へと向かう。トスカニーニとブルーノ・ワルターが中心になって行う予定だったザルツブルグ音楽祭において、フルトヴェングラーが急遽参加したことに端を発する。これは、フルトヴェングラーの参加に当局の意向が関わっていた上、その決定がトスカニーニの預かり知らぬところでなされたことが、トスカニーニを激怒させた。この時のトスカニーニとフルトヴェングラーとの会話は二通り伝わっている。
険悪な雰囲気の中での対話ではなかったことだ。当時、ナチの危険性、残虐性を正確に認識するのは、その中にあったドイツ人にとって、そう簡単ではなかったに違いない。8月の蓄音器を楽しむ会で紹介した写真にあった通り、アルトゥーロ・トスカニーニも当初、ベニート・ムッソリーニを支持していた時代があったことを思い出して欲しい。1920年代にトスカニーニは、イタリアですでにファシズムの洗礼をうけていた。王政後期のイタリア政界でイタリア社会党(PSI)の政治家として活躍したムッソリーニは、第一次世界大戦従軍後に同じ退役兵を集めてイタリア戦闘者ファッシ及び国家ファシスト党(PNF)を結党し、そのドゥーチェ(統領)となる。そして、イタリアの政治学者ジョヴァンニ・アメンドラの全体主義、フランスの哲学者ジョルジュ・ソレルの革命的サンディカリスムなど複数の政治思想を習合させ、新たな政治理論としてファシズム(結束主義)を構築した。国家ファシスト党によるローマ進軍によって首相に任命されて独裁体制を宣言するのが、1925年1月3日。「首席宰相及び国務大臣」(Capo del governo primo ministro segretario di Stato)を新設し、同時に複数の大臣職を恒久的に兼務することで従来の首相職より権限の強い独裁体制を確立したのは同年12月24日。その容姿から受けるものなのか、人の良さそうな印象もあるムッソリーニは、ヨーゼフ・ゲッペルスほどの頭脳と冷酷さを持っていなかった。同じくナチに協力させられたリヒャルト・シュトラウスについては、そのような言動が見当たらないどころか、トスカニーニはせっせとリヒャルト・シュトラウス作品を演奏し、作曲家の懐を印税で潤してさえいる。いずれにせよ、この激論の後、トスカニーニはフルトヴェングラーを一切拒否し、それは死ぬまで変わらなかった。フルトヴェングラーに対する非難は激越で、しかも感情的である。ここで見えてくるのが、フルトヴェングラーについて、何か他に含むところがあったのではないかと、そう考えを及ばせるのが自然だろう。この会話は、二人の芸術へのアプローチの違いをそのまま示していて興味深い。ロマン派の作曲家にとって宗教的な感情、高揚と浄化を創作の源泉とするなら、彼の特徴である半音階を多く含んだ旋律、転調の効果、ハーモニーの音響的な密度の濃淡でその精神世界を表現している。ピリオド楽器演奏や、ベートーヴェン時代の音楽習慣が研究されて、それを反映した現代の演奏に慣れきると、極めて遅いテンポで、じっくりと始まって徐々に巨大に高揚していく。しかし、音楽が停滞したりもたれると感じることは全く有りません。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの演奏は急激なアッチェレランドなど部分的なデフォルメに驚かされるが、決して全体の統一感を損なわないし不思議と構造的な破綻を感じない。そんな相反することを同時に成し遂げられる演奏家はフルトヴェングラーしか居ないし、人間感情の吐露が神々しさと凌ぎ合っているところに魅力を覚えるのでしょう。CD時代になってフルトヴェングラーあたりの録音で聴き始めたクラシック好きと話をする時に、話しが噛み合わなくなることがあるが、本盤も1984年にはじめてリリースされた。
先輩格のアルトゥール・ニキッシュから習得したという指揮棒の動きによっていかにオーケストラの響きや音色が変わるかという明確な確信の元、自分の理想の響きをオーケストラから引き出すことに成功していったヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、次第にそのデモーニッシュな表現が聴衆を圧倒する。当然、彼の指揮するオペラや協奏曲もあたかも一大交響曲の様であることや、テンポが大きく変動することを疑問に思う聴衆もいたが、所詮、こうした指揮法はフルトヴェングラーの長所、特徴の裏返しみたいなもので一般的な凡庸指揮者とカテゴリーを異にするフルトヴェングラーのキャラクタとして不動のものとなっている。戦前、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団をヨーロッパの主要都市で演奏させたのは、ナチスの政策の悪いイメージをカモフラージュするためであった。1933年1月30日、ヒトラーは首相に就任しナチス政権が始まった。25歳のヘルベルト・フォン・カラヤンは、この年の4月8日、オーストリアのザルツブルクでナチスに入党した。カラヤンはそれからすぐにドイツのケルンに赴き、同年5月1日、党員番号3430914としてケルン―アーヘン大管区で改めて入党した。オットー・クレンペラー、フリッツ・ブッシュ、アドルフ・ブッシュ、アルトゥール・シュナーベル、ブロニスラフ・フーベルマン、 マックス・ラインハルトなどが、次つぎと亡命し、ついにゲヴァントハウス管弦楽団の主席指揮者であったブルーノ・ワルターがドイツを去ることになった。世界はフルトヴェングラーがどのような態度をとるか興味深く見守っていた。アルトゥーロ・トスカニーニやトーマス・マンなどは、フルトヴェングラーはドイツに留まることによってナチスに協力し、それを積極的に支持したと非難した。しかし、フルトヴェングラーは1928年に、「音楽のなかにナショナリズムを持ち込もうとする試みが今日いたるところに見られるが、そのような試みは衰微しなければならない。」と厳しく警鐘を鳴らしていた。1933年7月、フルトヴェングラーはプロイセン首相のゲーリングから枢密顧問官の称号を与えられた。この称号は、総理大臣(ヘルマン・ゲーリング)、国務大臣、総理が任命する50名の高官、学者、芸術家によって構成された。枢密顧問官は名誉職であり、たとえば鉄道が無料となるなどの特権があった。ほかに総理から必要な費用の支払を受けることができ、この費用の受け取りを拒否できないとあった。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーはこの称号をなにかで利用することはなかったし、1938年11月の「水晶の夜」が起こってからは、この称号をけっして使うことはなかった。しかしフルトヴェングラーをナチスの一員として非難する人たちは、この称号を受けたことを立派な証拠とみなしていた。フルトヴェングラーはドイツにおいて高額所得者であったが、仮にイギリス、アメリカに移住しても金銭的に不自由することはなかったであろう。それどころか反対に、より豊かになったことは間違いない。フルトヴェングラーがなぜ、ナチスと妥協したりせずに外国に移住しなかったのだろうか。フルトヴェングラーのきわめて、おそらくは過渡に発達した、使命感だった。つまり、彼がひきつづきドイツに留まり音楽を創造していくことが、彼と同じ気持ちを懐いているすべての『真正なる』ドイツ人に慰めを与えるのだという確信だった。フルトヴェングラーはたしかに国外にいるよりは国内にいることによって、迫害された人たちをより多く助けることができたのだった。…アルトゥーロ・トスカニーニはベニート・ムッソリーニにどれほどの打撃を与えたか。トーマス・マンはアドルフ・ヒトラーにどれほどの打撃を与えたか。やはりドイツの伝統を維持していたウィルヘルム・ケンプと対比してユーディ・メニューインは推察した。「もしも現代においてケンプが、どこにいようとも、ドイツの伝統を守ることができるのであれば、フルトヴェングラーはかくも深く過去に根ざしていたので、彼は国外移住が独自性を危険に晒すこと、山や平原と同様に国にも属している種族や国民の魂が存在すること、彼の音楽的ヴィジョンがドイツにおいてドイツの公衆を前にしたドイツのオーケストラにより、最良の状態で存在が可能となることを信じていたのかもしれない」フルトヴェングラーがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、つまりドイツのオーケストラ演奏を維持し続けることに大義があった。1947年5月1日、ついに非ナチ化委員会はフルトヴェングラーに対して全面無罪を宣告した。フルトヴェングラーが戦後、2年ぶりにベルリンに復帰した演奏会は1947年5月25日、フルトヴェングラーは満員の聴衆の興奮と熱狂の坩堝と化したティタニア・パラスト館で、ベルリン・フィルとオール・ベートーヴェン・プログラムを演奏した。この復帰コンサートのチケットはまたたく間に完売となった。ベルリンの市民は、空襲の恐怖の中でも彼の指揮するベルリン・フィルの演奏会が唯一の心の慰めであり支えであったことを忘れていなかったのである。戦後の混乱した経済の中で貨幣なみに流通していたコーヒーやタバコ、靴、陶器などを窓口に差し出してチケットをもとめようとするものも多かった、という。コンサートは同じプログラム ― エグモント序曲、「田園」、「運命」交響曲の3曲 ― で5月25、26、27、29日の4日間行なわれた。62歳のフルトヴェングラーはけっして老いていなかった。しかし重ねた年輪はベートーヴェンの悲劇的な力をこれまで以上に刻印を深くし、聴衆との再会はフルトヴェングラーが心から願った共同体の理念を再び呼び覚ました。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーはベルリンに復帰したが、1949年まではベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮する回数は非常に少なかった。むしろウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やベルリン以外の客演先のオーケストラを数多く指揮した。まず1948年、ウィーンに戻るとヨーゼフ・クリップスと共にウィーン・フィルを率いてロンドンに行き、5日間にわたるベートーヴェンの交響曲のサイクル・コンサートを行った。このベートーヴェンのサイクル公演で、10月3日、ユーディ・メニューインとコンチェルトを共演した。11月はベルリン・フィルとイギリス公演、ロンドン、リヴァプール、バーミンガム、オックスフォードの各都市を訪れた。イギリス公演を終えると直ぐ様ストックホルム、パリで客演し、翌月はウィーンでフィルハーモニーを指揮した。このように信じられない超過密スケジュールを、62歳のフルトヴェングラーは実際に消化していたのである。1949年から、英EMIのためにウィーン・フィルと録音を再開。1952年1月26、27、28日、ウィーン・フィルハーモニーとのオール・ブラームス・プログラム公演。《ハイドン・ヴァリエーション》、ウィリー・ボスコフスキーとエマヌエル・ブラベッツの独奏で《二重協奏曲》、《交響曲第1番》を演奏 ― 本盤は、その録音。この日の他の曲目《ハイドン・ヴァリエーション》、《二重協奏曲》も全てCD化されている。27日はダブル公演となりパウル・バドゥラ・スコダの独奏で、モーツァルトの《ピアノ協奏曲第22番》、《セレナーデ第10番》を演奏した。2月10日はティタニア・パラストでベルリン・フィルハーモニーとブラームスの《交響曲第1番》を演奏する ― ベルリン・フィル創立70周年にて演奏された、こちらも後年にレコード化された。演奏はウィーン・フィルとの本盤から一週間の違いとは思えない厄落とし出来てリラックスした自由が感じられる。斯くもフルトヴェングラーにとってベートーヴェンと並び、重要なレパートリーであったブラームス、そのなかでも特に取り上げる機会の多かった第1番の決定的な名演です。1947年のスタジオ録音も有名ですが、この1952年のライヴは熱気と完成度の点で一歩も引けを取りません。その気迫と凄絶な表現は未だに新鮮そのもの。録音も当時としては鮮明で、フルトヴェングラーのライヴ録音の魅力が十全に表れています。ウィーン・フィルの艶めかしい弦楽器が巨匠の演出により濃厚な色彩を帯びる第2楽章など、聴き所満載です。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは自身の著書「音と言葉」のなかで、ベートーヴェンの音楽についてこのように語っています。『ベートーヴェンは古典形式の作曲家ですが、恐るべき内容の緊迫が形式的な構造の厳しさを要求しています。その生命にあふれた内心の経過が、もし演奏家によって、その演奏の度ごとに新しく体験され、情感によって感動されなかったならば、そこに杓子定規的な「演奏ずれ」のした印象が出てきて「弾き疲れ」のしたものみたいになります。形式そのものが最も重要であるかのような印象を与え、ベートーヴェンはただの「古典の作曲家」になってしまいます。』その思いを伝えようとしている。伝え方がフルトヴェングラーは演奏会場の聴衆であり、ラジオ放送の向こうにある聴き手や、レコードを通して聴かせることを念頭に置いたヘルベルト・フォン・カラヤンとの違いでしょう。その音楽を探求するためには、ナチスドイツから自身の音楽を実体化させるに必要な楽団を守ることに全力を取られた。そういう遠回りの中でベートーヴェンだけが残った。やはりフルトヴェングラーに最も適しているのはベートーヴェンの音楽だと思います。カラヤンとは異世界感のシロモノで、抗わずに全身全霊を込めて暖かい弦楽器が歌心一杯に歌い上げた演奏で感動的である。フルトヴェングラーの音楽を讃えて、「音楽の二元論についての非常に明確な観念が彼にはあった。感情的な関与を抑制しなくても、構造をあきらかにしてみせることができた。彼の演奏は、明晰とはなにか硬直したことであるはずだと思っている人がきくと、はじめは明晰に造形されていないように感じる。推移の達人であるフルトヴェングラーは逆に、弦の主題をそれとわからぬぐらい遅らせて強調するとか、すべてが展開を経験したのだから、再現部は提示部とまったく変えて形造るというような、だれもしないことをする。彼の演奏には全体の関連から断ち切られた部分はなく、すべてが有機的に感じられる。」とダニエル・バレンボイムの言葉を確信しました。これが没後半世紀を経て今尚、エンスーなファンが存在する所以でしょう。
  • Record Karte
  • 1952年1月27日ウィーン、ムジークフェラインザールでのモノラル、ライヴ録音、1984年初発盤。
  • FR  VSM  2701241/PM322 フルトヴェングラー ブ…
  • FR  VSM  2701241/PM322 フルトヴェングラー ブ…
フルトヴェングラー ブラームス・交響曲第1番 Furtwangler Brahms: Symphony No.1 / VPO 1952
フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル [Toshiba/EMI]
Toshiba/EMI