34-16524

商品番号 34-16524

通販レコード→仏レッド・シール銀文字盤

ハーレルのこのみずみずしく、一点のくもりのない素晴らしい音色は、まさに、時代を担い若手ナンバー・ワン・チェリストの名にふさわしい! ―  合衆国期待の新進チェロ奏者リン・ハーレルはドヴォルザークのチェロ・コンチェルトという話題盤で、わが国にデビューしたが経歴については詳しいことは伝えられていなかった。だが、その才能がどれほどのものであるかという点については、受賞歴などを列するまでもなく、わずか21歳の若さでクリーヴランド管弦楽団の首席奏者におさまったという事実を引き合いに出すだけで十分だろう。二流、三流のオーケストラならともかく、疑いなく世界屈指のクリーヴランド管の主席である。しかも当時の常任指揮者は、あのジョージ・セルである。四半世紀にわたる彼の指導の下で、このオーケストラが稀にみる充実ぶりを示していた頃の話だ。それは、1970年度来日で我々もよく知っている。ハーレルは1971年にこのオーケストラを退団して、ソリストとしての道を歩き始めた。或いはセルの死(1970年)が、ひとつの契機だったのかもしれない。それはともかく、このようにオーケストラの首席奏者を経て独奏家に進むのは、チェリストとしては珍しいことではない。グレゴール・ピアティゴルスキー、ダニール・シャフラン、ヤーノシュ・シュタルケルらの顛末がそうだし、ハーレル自身がジュリアード音楽院で師事したというレナード・ローズもまた同様であった。これは、チェロ奏者がピアニストやヴァイオリニストと比べて比較的地味な存在であることを物語っているが、ハーレルの場合は、特にリーダーがセルであっただけに、そのオーケストラの変化は次のマスに駒を進めるトリガーとなった。しかし、ニューヨークでリサイタルを開きますが、お客の入りはさっぱりで、しばらくは鳴かず飛ばずの状態でした。この時に手を差し延べたのが、クリーヴランド管で同僚だった指揮者ジェームズ・レヴァインです。レヴァインとハーレルとは、ハーレルがセルのもとでクリーヴランド管の首席チェロ奏者だった時代に、レヴァインが同団で副指揮者をつとめていたころからの旧知の中。協奏曲と室内楽でたびたび共演し、RCAにはLPにして5枚分の録音を残しています。本盤はピアノを担当しているレヴァインとハーレルの初録音となったシューベルトのアルペジオーネ・ソナタ&メンデルスゾーンのチェロ・ソナタ第2番。
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「アルペジオーネ」というのは、ある弦楽器の名前である、これは、いわばチェロとギターをミックスしたようなもので、ギター同様6本の弦とフレットを持ち、チェロのように弓でこすって演奏する。この珍しい楽器は1823年にウィーンで初めて作られたが、さほど人気を集めることが出来ず、10年もすると早くもすっかり忘れられてしまった。嘗てこのような楽器が存在したという事実だけでも、それが今日まで人々の記憶の隅に留められてきたのは、ひとえにシューベルトのお陰といって良い。シューベルト唯一のチェロ・ソナタが《アルペジオーネ・ソナタ》と呼ばれるのは、この曲が本来そのアルペジオーネのために書かれたものであるためにほかならない。シューベルトがこのソナタを書いたのは楽器が発明された翌年、作曲者27歳の1824年秋であったが、作曲の動機については実はよくわかっていない。発明者のヨハン・ゲオルク・シュタウファー、或いはいち早くこの楽器のための教則本を書いたヴィンチェンツ・シュースターのいずれかの依頼によるものとするのが大方の意見である。現に初演は、そのシュースターの手で行われている。アルペジョーネの演奏に通じていたシュースターは、シューベルトの知人だったことから、おそらくは ― 本作は弦楽四重奏曲「死と乙女」と同時期の作品であり、当時シューベルトは梅毒の進亢に苛まれ度々の抑鬱症の発作に見舞われてもいた精神状態の中にありながら ― アルペジオーネがあまり一般的な楽器でないことを考慮してか、シューベルトは他にヴィオラやヴィオラ・ダモーレ用、その他の版も用意したが、オリジナルのアルペジオーネ版も含めて、彼の生前には出版されなかった。この曲が日の目を見たのはおよそ半世紀後の1871年でその際にはオリジナルのほかにチェロ用の版が添えられていた。その頃アルペジオーネはすでに半ば過去の遺物と化してしまっており、以来この曲はチェロ・ソナタとして扱われることになったのである。ほかの楽器で代用しても原作の触感には敵わないので、アルペジオーネは復元されているが、奏者が乏しくほとんど実演は行われていない。そのため、チェロやギター、ヴィオラ編曲での演奏が多く行われている。編曲に際し苦慮される点は、チェロやギターがアルペジオーネに比べて音域が狭いことである。アルペジオーネなら楽にこなせる高音域が余り得意ではなく、6弦のアルペジョーネに対してチェロやヴィオラは4弦であり、そのためアーティキュレーションを手直ししなければならない。またフレットもないチェロでこの曲を演奏するのは決して容易では無いが、シューベルト特有の美しい旋律に溢れ、親しみやすい曲想を特徴とするため、今日でもチェリストの貴重なレパートリーのひとつになっている。5弦のピッコロチェロは音域は同一になるが、フレットはない。ギターやマンドロンチェロで演奏を行うことは可能だが、やはり原曲は「弓奏」であり、シューベルトの意図とは異なる。現在ヴィオラを5弦にし、その5弦目をEに調弦することで、原作に近づける試みが行われている。
メンデルスゾーンはチェロ・ソナタを2曲残しているが、今日それらが取り上げられる機会は比較的稀である。だが、少なくともこのニ長調のソナタに関する限り、曲に与えられている評価ないしは人気は不当に低いものと言わざるをえないだろう。この曲が書かれたのはメンデルスゾーン34歳の1843年だが、ちなみにその前の年には《スコットランド交響曲》が、また次の年には有名な《ヴァイオリン協奏曲》がそれぞれ完成している。すなわちこの時代はまさに彼の絶頂期にあたるわけで、このソナタにも当時の充実しきった筆致は遺憾なく発揮されているといって良い。弟でチェロ奏者のパウルや、親友アルフレード・カルロ・ピアッティに助言を受けて作曲されたという。その成果といえるものが、この第2番のチェロ・ソナタであり、シューマンが称賛したチェロ・ソナタ第1番変ロ長調以上に、豊かな楽想の広がりを持っている意欲作である。均斉のとれた古典的なスタイルの中にも、ロマン的な抒情やデリケートなニュアンスがたっぷりと込められているし、第2楽章スケルツァンドの軽妙な味わい、第3楽章の美しい歌などには、まさしくメンデルスゾーンの面目躍如たるものがある。一方、両端楽章における感情の高揚は、この作曲家にしては異例なほど激しく、そこには時代の情勢に極めて敏感だった彼の一面が顔をのぞかせている。初演は1844年、彼の8度目の訪英の折に行われ、チェロは友人であったイタリアのチェリスト、ピアッティが、またピアノはメンデルスゾーン自身が担当した。のちにロシア伯爵のミハイル・ヴィーホルスキに献呈された。
本盤は若い彼らの友情の産物でもあり、このアンサンブルの中に若さが漲っている。そして、独奏家として立ってからは、賞や奨励金を受けたほかに、シンシナティ大学のマスター・クラスでチェロを教えている。その上、アメリカばかりでなく、ヨーロッパの幾つかのオーケストラとも共演している。いわばアメリカのチェロ界の大きなホープであった。このジェームズ・レヴァインは、シンシナティの出身で、幼少からピアノを学び、10歳の時に早くもシンシナティ交響楽団とピアニストとして共演している。その後にジュリアード音楽院でピアノと指揮法の勉強をつづけ、それからクリーヴランド管弦楽団でジョージ・セルの下に6年間指揮の実地の研修を行った。 アメリカ音楽界の「ドン・ジミー」、レヴァインの初録音は1972年のEMIへのヴェルディ・歌劇『ジョヴァンナ・ダルコ』全曲盤(ロンドン交響楽団)ですが、レコード界でその手腕が高く評価されたのは、翌1973年8月録音のニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのヴェルディ・歌劇『シチリア島の夕べの祈り』全曲盤で、これがRCAへの初録音でした。それ以後、各地の交響楽団を指揮し、やがてシンシナティ5月祭とシカゴ交響楽団の夏期の行事のラヴィニア音楽祭の音楽監督、メトロポリタン・オペラの指揮者に就任したのがちょうど1973年のことで、その後、1975年のイギリス・ロイヤル・オペラおよびザルツブルク音楽祭デビュー、1976年のメトロポリタン・オペラの音楽監督就任、1982年のバイロイト音楽祭デビューなど、RCAにおける10年間はちょうどレヴァインが新進の若手音楽家から、ズービン・メータ、クラウディオ・アバド、リッカルド・ムーティらと並んで、欧米で最も活躍する人気指揮者へと成長した時期に当たります。もちろん指揮者としてのほかに、ピアニストとして、特に室内楽のピアニストとしても、積極的な姿勢を見せている。1976年のラヴィニア音楽祭で演奏して高く評価され、同じ年の12月にニューヨークで一気に録音されたベートーヴェンのチェロ・ソナタ全曲で知られるように、ハーレルとレヴァインによる二重奏は、極めて息のよく合ったものである。
1974年10月16,18日ニューヨーク録音、1976年リリース。
FR RCA RL11568 ハレル&レヴァイン シューベル…
FR RCA RL11568 ハレル&レヴァイン シューベル…
FR RCA RL11568 ハレル&レヴァイン シューベル…