34-16491

商品番号 34-16491

通販レコード→仏マルーン銀文字盤

神秘的な化学的過程を経て表現されなければ、ドビュッシーを解釈することにはならない。 ― ドビュッシーのスコアには、こまかい表記が記されていて、弾くものにはとても難しい。でも、ドビュッシーの楽譜を見るととても音楽的で、和音や繊細な色彩感に魅了されます。これは、音楽に限らず、ロシア文学の奥深さ、リアリズムを極めるかと思えば、色彩への鋭い感性を見せる絵画、やがて全てを超越し西欧の伝統を破壊したロシア・アヴァンギャルドに帰結するのか。印象主義音楽は、20世紀初頭のフランスに興ったクラシック音楽の流派の一つ。ロマン派音楽に見られるような主観的表現を斥け、激しい情緒や物語性の描写よりも、気分や雰囲気の表現に比重を置いた音楽様式である。一般的にはクロード・ドビュッシー(1862〜1918)により始まったとされる。フランス作品が内包するウイット、ユーモア、エスプリ、微妙な色彩感、特有の空気感などは、非常に表現が難しいといわれる。そのフランス作品を代表するのがロシア音楽のドビュッシーだとは興味深い。ドビュッシーが18歳で書いた「ボヘミア風舞曲」は、どこか遊園地のジンタを思わせるもの悲しい作品で、跳ねるようなリズムが特徴的だ。有名な「月の光」のような、響きがゆらぐような作風とは違う。ドビュッシーが、その語法を確立するにあたって、ロシア音楽に ― 殊に、ムソルグスキーの『ボリス・ゴドノフ』の影響を受けていることは、よく知られていることです。パリ音楽院在学中の1880年から1883年までの3年間、夏のアルバイトとして、ロシアの巨匠ピョートル・チャイコフスキーのパトロンだった大富豪フォン・メック夫人の伴奏や子供たちのピアノの家庭教師として雇われて、夫人とともに巨匠の交響曲を連弾で弾いたり、楽士仲間と室内楽を演奏するのが仕事だった。ナジェジダ・フィラレートヴナ・フォン・メック夫人はロシアの鉄道王カール・フォン・メックの未亡人で、莫大な年金をチャイコフスキーに贈り、休暇のたびに家族と従者をひきつれて豪華な旅を楽しんでいた。ドビュッシーも、1880年7月、夫人の一行に合流している。ヨーロッパを旅行したり、ロシアに滞在する機会を得たことは、そのロシア音楽を、楽譜を弾くことによって知ったり、演奏に触れる機会も十分に可能性があり、また、フォン・メック家の多くの蔵書を読んで教養を高めたという観点からも、よく知られていることです。フォン・メック夫人の楽士として多くのロシア音楽に接したことは、その後のドビュッシーに多くのものをもたらした。リヒャルト・ワーグナーよりも先にモデスト・ムソルグスキーの影響を受けていたことが、実に興味深い。〝ドビュッシーの印象主義〟には、ムソルグスキーのフォーヴでマッドな下地があって、その上にワグネリズムが塗り重ねられ... やがて、そこから反発することで次の次元へと進化し、近代音楽の扉を叩いたわけだ。そして、そこに覗かせる、深くミステリアスな情景。実は、ドビュッシー音楽に「ゆらぐような響き」が加わるのは、和音が拡がったり閉じたりするロシア聖歌を知ってからなのである。フランツ・リストが、真の未来の音楽が、どこで準備されているかを見抜いていたように、様々な偶然に味方されたとは言え、ドビュッシーもまた、パリ音楽院の内側から、ロシア音楽への探求を始めていたのですね。ドビュッシーとロシアのつながりを見つめると、近代音楽の展開は、より広大で刺激的なものに思えて来る。戦前のレコード専門誌「レコード音楽」において評論家の故・村田武雄つまり、ドビュッシーの音楽は、トスカニーニの手腕によって、或神秘的な化学的過程を経て表現されなければ、それほど優れてはいないものだと言う推論に達する。如何なる指揮者も、明確に暗示していると云う点において、彼以上にドビュッシーを解釈することは出来ない。だから(アルトゥーロ・)トスカニーニの演奏を聴かないで、ドビュッシーを賞賛する様な振りをする鑑賞者は愚者と云うべきである。と評論していた。蓄音機鑑賞会を熊本博物館で行っていた最後の年に、ドビュッシーの最後のソナタをプログラムにしたが、マルセル・モイーズ、リリー・ラスキーヌ、モーリス・マレシャル、ジャック・ティボーで3曲のソナタを聴きました。ドビュッシーが生涯最後の作品集にまとめ上げるために作曲を進めていて、6曲で構想していた。SPレコード時代の演奏家は作曲家としての一面も持っていた。同時代の空気を感じていた彼らだから、レコード録音に積極的で、その〝ドビュッシーの印象主義〟には、鮮やかな色彩で、滲みがない。その色彩にセピアを帯びていくのは、戦後イーゴリ・ストラヴィンスキーの鮮やかさとリズムが刺激的だったからだろう。→コンディション、詳細を確認する
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その際、合わせて、「子供の領分」をアルフレッド・コルトーで聴いたが、ラヴェルより2歳年下で、ドビュッシーやラヴェルと同時期にパリ音楽院に学んでいたコルトーは、ショパンの考え方を基調にして独自の奏法を編み出し、クープランのクラヴサン曲集などを次々とピアノ版に改訂していったのです。そういう意味でコルトーは、フランス近代ピアノ奏法の開発者と呼ぶのに相応しい存在なのです。20世紀最大の指揮者の一人、アルトゥーロ・トスカニーニは4歳のときに初めてオペラを聴き、9歳でパルマ王立音楽院に入学しチェロと作曲を学び、イタリアの巡回歌劇団のチェロ奏者となりました。帰国後はミラノ・スカラ座のチェロ奏者に就任し、同時にイタリアやスペインで指揮活動も開始。1887年のヴェルディの歌劇「オテロ」の歴史的な初演のチェロ演奏を担当していた若きトスカニーニは実家のパルマに戻っても興奮が冷めやらず、母親をたたき起こして素晴らしさを叫んだという。
1917年7月初め、クロード・ドビュッシーはスペイン国境近くで、モーリス・ラヴェルが生まれた街としても知られている避暑先のサン=ジャン=ド=リューズに赴いた。夏の住居は「シャレ・アバス」といい、イギリス人の陸軍大佐に貸与されていたもの。「魅力的な家です!」とドビュッシーはデュラン宛の手紙で「遠くのほうに、有名になりたいという野望を持たない小さな山脈が見えます」といった言い回しで書いている。秘密主義者だったドビュッシーは、特に彼の楽譜の出版者だったジャック・デュランには創作の核心や本音を吐露しています。さて、8月20日ごろ、ドビュッシーは1913年からシャンゼリゼ劇場の指揮者に就任していた、指揮者のデジレ=エミール・アンゲルブレシュトへの手紙で、サン=ジャン=ド=リューズにはたくさんのピアニストが来ていると書き、リカルド・ヴィニェス(スペインのピアニスト、ラヴェルの親友)、マルグリット・ロン(フランスのピアニスト、教師)、ホアキン・ニン(キューバの作曲家、ピアニスト)の名前を挙げている。8月末には、アルベニスの組曲《イベリア》を初演したブランシュ・セルヴァも乗りこんできたらしい。全4巻からなる組曲《イベリア》はドビュッシーの《前奏曲集第1巻》 ― とりわけ〈とだえたセレナーデ〉に大きな影響を与えた曲集で、第2巻はここサン=ジャン=ド=リューズで初演されている。イサーク・アルベニスは30歳半ばからパリに定住し、ヴァンサン・ダンディ、エルネスト・ショーソン、ガブリエル・フォーレ、ポール・デュカスなど、フランスの大家との交流を深めながら、作曲の技法を洗練させていった。そして、45歳(1905~1909年にかけて作曲)で作曲を開始したこの組曲《イベリア》において、作曲家としての到達点をむかえたといえる。洗練された技法に、アルベニスのスペイン情緒あふれる感性が加わることによって、独創性あふれる最高傑作となっており、ドビュッシーや、メシアン、グラナドス、デ・ファリャらもこれを絶賛した。ドビュッシーの「管弦楽のための映像」は1905年から1911年にかけて作曲され、ピアノのための「映像」第1集、第2集があるので管弦楽用は映像第3集ということになりますが、「映像」という作品集の一部という位置付けです。「ジーグ」、《イベリア》、「春のロンド」の3曲から成り、それぞれがイギリス(スコットランド)、スペイン、フランスの民族音楽的なイメージを持つ。組曲の体裁はとられているが各曲の作曲時期、楽器編成は異なっており、各曲は半ば独立した作品と見ることができる。第2曲《イベリア》が一番長くて、これ自体でも3曲からなる。〈街の道と田舎の道(Par les rues et par les chemins)〉〈夜の薫り(Les parfums de la nuit)〉〈祭りの日の朝(Le matin d'un jour de fete)〉から成るスペイン題材の作品で、これだけ単独で録音することもありました。
世界的指揮者だったヘルベルト・フォン・カラヤンは来日した際に、「君が代」を聴いて、「世界の国歌の中で最も荘厳な曲」と評価した。1973年にカラヤンがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を率いて来日公演を開いた初日では、まず君が代、続いて西ドイツ ― 当時 ― 国歌が演奏された。戦時中は演奏会の最初や最後に『星条旗』 ― 星条旗よ永遠なれ ― を演奏することも多かった。『星条旗』を演奏する際アルトゥーロ・トスカニーニは、リハーサルや録音であっても、チェロを含む全員を起立させて演奏したと言われている。イタリアへの母国愛を終生抱き続けたトスカニーニであったが、だからこそ米国人にとっての母国である米国への愛を尊重していたのだと思われ、トスカニーニの人となりがわかる。トスカニーニは戦前・戦中・戦後初期を代表する大指揮者で、ヨーロッパではヴィルヘルム・フルトヴェングラー、アメリカではトスカニーニと人気を二分した。フルトヴェングラーのロマンティックの極みに対してトスカニーニは、イタリアのエミリア・ロマーニャ州の県都パルマ出身ということから当地で高名なワイン、弱発砲性赤ワイン・ランブルスコのようにすっきり系ですが、すっきりまとめているからといって、そこには軽さは感じられず力強さが感じ取れます。トスカニーニは1898年31歳の時にはイタリア・オペラの総本山とも言うべきミラノ・スカラ座の指揮者に迎えられます。そのデビュー公演でワーグナーを取り上げ楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」を1ヶ月以上に亘る猛烈な訓練の後に演奏、この公演はスカラ座の歴史に残る程の大成功を収めワーグナー指揮にみせるトスカニーニの才能のほどを内外に確認させる事となった。ドイツ系指揮者以外はまだ誰も足を踏み入れていないバイロイト音楽祭から1930年63歳の時に出演要請を受け歌劇「タンホイザー」と楽劇「トリスタンとイゾルデ」を指揮してバイロイト音楽祭始まって以来の外国人指揮者登場の第一歩を標す。そこにはアドルフ・ヒットラーを嫌い「バイロイトを人種の別なく音楽の聖域としたい」と考えていたリヒャルト・ワーグナーの忘れ形見ジークフリートの思想が働いていた。彼は外国人のトスカニーニに積極的に出演を要請して、このバイロイトを開かれたものとしたのですが生憎トスカニーニが初めてのデビューを飾った、この1930年の夏にジークフリートは突然亡くなってしまいます。ヒトラーへの敬愛を公言していたヴィニフレート夫人のもとバイロイトはナチスの牙城としての色彩を強めていく。トスカニーニは翌1931年には歌劇「タンホイザー」と舞台神聖祝典劇「パルジファル」を指揮し、更に翌々年の1933年にはバイロイトの名誉市民の称号も得て、いよいよ念願の楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を指揮する予定になっていた。演奏会で指揮している分は良かったのですが、「是非今年の公演の折りには直接会ってナチス第三帝国の首相として御礼を申し上げたい」という大変遜った文面の手紙がナチスからトスカニーニに届く。
ヒットラーのユダヤ人政策に徹底して反対していたアルトゥーロ・トスカニーニは「現在のような状況のもとではバイロイトに足を運ぶわけにはいかない」と断っており、「この間バイロイトで指揮できたこと、それ自体が私にとっての報酬である。」として、この時のバイロイト音楽祭の出演料は一切受け取らなかった。この当時、利用するだけ利用されたブルーノ・ワルターは演奏活動が出来ないところまでナチスに追いつめられ、娘は娘婿だったナチス将校に銃殺される。危機を感じて帰宅しないで演奏会場に駆け込んだワルターの急場を救うべく指揮を代行したのがトスカニーニだった。程なくフランス経由でイギリスへの逃避行を手引した。1936年引退を決意してニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を辞任し、イタリアへ戻ったトスカニーニに翌1937年にはラジオ放送を通じて一度に何百万もの人々に演奏を聴いて貰おうと言うアメリカの放送局からの提案を受け入れ再びニューヨークに復帰すると、1937年トスカニーニのためにアメリカRCA社が創設したNBC交響楽団の指揮者となります。ワルターの晩年にアメリカ・コロンビア社が結成したコロンビア交響楽団の先駆けみたいですが、当時のアメリカの財力は有名指揮者にオーケストラをプレゼントするとは凄まじい。商魂逞しい米国のメディアが投資するトスカニーニには、剛毅で、集中力が高く、熱気にあふれ、人を引き付ける何かがあった証左であろう。後輩のヘルベルト・フォン・カラヤンでさえ持つことが出来なかった強大な影響力を生み社会現象になった初めてのマエストロではなかろうか。1954年4月4日、カーネギー・ホールでのコンサートを以て引退。1957年1月16日、ニューヨークの自宅にて脳血栓のため亡くなった。89歳でした。この「20世紀最大の指揮者」の音楽は、TV放送用の映像全てが残されていて、死後60年以上経過した今なお、多くのクラシック愛好家の心を震わせている。
  • Record Karte
  • ジャン・ピアース、ロバート・ショウ合唱団、ウェストミンスター合唱団、1954年3月14日(聖歌四篇~テ・デウム, Recorded At – Carnegie Hall)、1943年1月31日(歌劇「ナブッコ」~「行け、我が思いよ、黄金の翼にのって」, Recorded At – Studio 8H)、1943年12月12月8&12日(カンタータ「諸国民の讃歌」, Recorded At – Studio 8H)、モノラル録音。
  • FR RCA A630 266 アルトゥーロ・トスカニーニ ドビュッ…
  • FR RCA A630 266 アルトゥーロ・トスカニーニ ドビュッ…
海&カルメン組曲~フランス管弦楽曲集
NBC交響楽団
BMGインターナショナル
2000-09-20