34-16968

商品番号 34-16968

通販レコード→仏レッド"Trésors Classiques"銀文字盤

名録音家ヴィルヘルム・ヘルヴェークによる名盤。 ―  この音盤は、新鮮な演奏で、録音もなかなかに素晴らしい。ヘルヴェークは内田光子、小澤征爾などフィリップスの数々の名録音を手掛けた一人で、「演奏家とともに作品を研究したのちに一度全部を解体してから、それらをひとつひとつ磨き上げ、全体を組み立て直してゆく」をモットーに常に厳格な姿勢で録音に臨んでいました。1975年に収録されたレイモンド・レッパード指揮イギリス室内管弦楽団によるグリーグ・アルバムです。レッパードは当室内管の指揮者及び通奏低音の奏者として高く評価され、当録音は代表盤の一つです。音楽学者として名高いレッパードは、このグリーグでも見通しがよく、正統的な演奏は楽曲がもつ美しさを見事にあらわしてます。イギリスには、指揮者もオーケストラも、元来より北欧の作曲家の演奏の伝統が確立されていて、レッパードもそんなひとりだ。学究肌のレッパードは、バロックや古典派の指揮者とのイメージがあったが、1970年代半ばに、グリーグの作品を集中して取上げていて、そのいずれもが、素晴らしい演奏だった。モーツァルトのスペシャリストとして知られていたサー・コリン・デイヴィスが、近年ではベートーヴェンからブルックナーに至るドイツ音楽のメイン・ストリームを振る巨匠という扱いにいつしか成っていた。デイヴィスといえばベルリオーズの権威者である。だが、本人はそういわれるのを好まない。「だいたいね、ベルリオーズをエキセントリックでグロテスクなロマン派の化け物だといった、何か特別扱いする人が多すぎて困るよ。ベルリオーズは他の作曲家となんら変わることはないのに、美しい作品が多いし ... 」デイヴィスがベルリオーズを初めて聴いたのは22歳のとき。オラトリオ「キリストの幼時」の第2部だった。このときに鮮烈な印象を受け、以来ベルリオーズに傾倒していく。初めて「幻想交響曲」を振ったのは30歳のときだ。情熱を傾けてベルリオーズを録音したのは、専属のレコード会社だったフィリップスの方針もあったのでしょうし、当時はオットー・クレンペラー、サー・ジョン・バルビローリといった大御所が存命でしたから、ベートーヴェンやブラームスで割って入るには少々若すぎたのかもしれません。同年代のレッパードも同じく悩ましいポジションだったのだろうか。ルネサンス・バロック音楽に関する学識の高さには定評があり、イギリス屈指の音楽学者である。また、チェンバロ奏者としても高く評価されている。自らレパード・アンサンブルを組織して、バロック音楽の演奏活動を開始した。かつてレコーディングも多く、大活躍だったイギリス室内管には、ホセ・ルイス・ガルシア(ヴァイオリン)、デイヴィッド・マンロウ(リコーダー)、ネイル・ブラック(オーボエ)など、当時、ロンドンで活躍した錚々たるメンバーがソリストで参加している。北欧情緒を滲ませた演奏というよりは、抒情を大切に、しっかりと旋律線を浮かびあがらせ、大オーケストラでは埋没しがちな楽器が聴こえてくる、暴力的なフォルテも威圧感のない緻密で、かつ優しいタッチのグリーグ。
第1組曲冒頭の「朝」は、それこそ爽やかさの境地であり、休日の明るい早朝のムード。第2曲「オーゼの死」のレクイエムのような静寂さと、続く第3曲「アニトラの踊り」の羽毛のような軽やかさ。極めつけは、じっくりと染み入る終曲の「ソルヴェーグの歌」が、坦々としたなかに、巧みに緩急もつけて歌いあげた名品と言える。こんなしなやかで、美しい「ペール・ギュント」を聴いてしまうと、この戯作のもつ荒唐無稽でダイナミックな物語の背景がウソのように感じられる。イギリス室内管弦楽団で聴く「ペール・ギュント」は、ともかく新鮮で、清潔感と清涼感に溢れている。すでに浪漫の手垢に塗れた演奏に耳が染まってしまっていると〝好まない〟と、意見をもつ人もいる分岐点でもあるわけですが、本盤で「ペール・ギュント」を聴く人は幸せだ。そこが即ち、このレッパードの演奏の特徴で、グリーグの音楽の本質である、抒情と純音楽性が溢れ出てくるものなのです。この曲は、ノルウェーの国民的文豪ヘンリック・イプセン(1828〜1906)が書いた戯曲『ペール・ギュント』に、グリーグが劇中音楽として作曲をしたもの。25歳のとき、あの劇的なピアノ協奏曲 イ短調 op.16(1868/1906〜07)で喝采を浴び、作曲家として世に認められることになったグリーグは、31歳のとき、ドレスデンにいたイプセンから長い手紙を受け取った。『ペール・ギュント』を舞台で上演するための音楽を依頼するものだった。グリーグは『ペール・ギュント』の文学的価値はおおいに認めてはいたが、彼は自らの音楽を抒情的でさりげないものであると感じていた。彼にとって、どぎつい『ペール・ギュント』は〝手に負えない主題〟だった。いったん断りはしたものの、結局グリーグがイプセンの再三の依頼に応じたのは、やはり祖国ノルウェーを愛していたからだ。こんにちグリーグの作品でもっとも知られているのがピアノ協奏曲と《ペール・ギュント》なわけだが、それらはむしろ彼には〝らしくない〟音楽なのかもしれない。祖国愛の精神が遠くなった現在、イプセンの『ペール・ギュント』を上演するにあたって、グリーグの音楽はそぐわないと考えられている。そもそもこの戯曲が上演されることもあまり多くはないが、それだけに、この音楽の全曲を聴く機会はなおさらない。にもかかわらず、誰もが「朝」や「ソルヴェイグの歌」を耳にしたことのあるのは2つの組曲があるからだが、それがこれほどまでに世に膾炙されているのは、やはり音楽がすてきだからだ。その音楽には印象的な旋律やリズムがふんだんに、贅沢に用いられている。戯曲を離れて、自律した音楽、2つの組曲として聴かれるのは、むしろ作品にとっては幸せなことだったのかもしれない。これだけすてきな音楽を生みだすのは、容易いことではない。ただ、それだけに、《ペール・ギュント》はグリーグ自身にとってしても、超えようにも超えることのできない最大の壁となっただろう。
はるかはるかの昔だが、あの有名な北欧ヴァイキングこそノルウェー人の先祖。無人のアイスランドに植民し、ヨーロッパ人で最初にアメリカ大陸を発見した。南はシチリア島まで荒らしまわったが、その最大の成果は、ノルウェー(北欧)のキリスト教化。改宗したヴァイキングたちが戻ってきてキリスト教を国教にしたのだ。だが、土着宗教、土着文化との軋轢は現代までつづく。イプセンは国教会に批判的だったというが、『ペール・ギュント』はもっともキリスト教的な作品とされる。近代リアリズム劇の父ヘンリック・イプセンは、今も世界中で、シェクスピアについで多く上演されるといわれる。一昔前の演劇愛好者なら、即座に『人形の家』『ゆうれい』『ヘッダ・ガブラー』と、あがったものだが、イプセンが書いた劇作品は25数える中、祖国ノルウェーに於いて、10人のうち8人は、『ペール・ギュント』は典型的にノルウェー的な劇だと、思っているであろうほどだ。世界でも最前線の福祉国ノルウェーは、いまは北海油田で大いに潤っているが、『ペール・ギュント』が書かれた頃は、まだまだ発展途上の貧しい農業国。多くの農民が飢えてアメリカに移民した。余談だが、ピアニストのグレン・グールドは、プロテスタントの家系だが、母はグリーグの親類である。閑話休題。これは社会問題劇を書き出すよりずっと前、1867年に書かれた厖大な劇詩。この劇詩には近代ノルウェー語の複雑な状況もからむ。ノルウェーは、19世紀初めのナポレオン戦争でナポレオン方について敗戦国となったデンマークの属国だった。だから、戦勝国スウェーデンに割譲され、それまでの支配的なデンマーク語文化から脱却しようと、地域に根ざした伝統的な言葉から、新しいノルウェー語を作り出す試みがなされた。てんやわんやの言語紛争の結果、1905年の完全独立のあと、デンマーク語系と新ノルウェー語の両方が国語と認められた。イプセンはこの劇で、混乱した国語事情をとことん皮肉っている。『ペール・ギュント』の物語は、もとの民話と、イプセンの戯曲とではずいぶん異なっている。イプセン自身の紹介によるとペールは「近代のノルウェー民話に登場する半ば伝説的、半ば架空的人物」、民話のペールはふてぶてしく、小知恵のまわる男だ。猟師のペールはある日、山のなかで日が暮れてしまい、奇妙なものと遭遇する。ふいに足にぶつかったそれは、「冷たくて大きくてつるつるした」なんとも得体の知れないものである。「こいつ、誰だ」と、思わず尋ねるペールに、それは「おれは、まがりさ」と名乗る。それはじつにへんてこな物体で、ペールがそれをよけるために歩き過ぎようとしても、どこまでいってもそれにぶちあたってしまう。どうにかペールが目的の小屋のなかにたどり着くと、そこにも冷たい大きなつるつるとしたものが浸入していた。「まがり」にすっかり包囲されていることに気付いたペールは、機転をきかせて退治することに成功する。さらにペールは、人間に災いをもたらそうと意地悪くうかがうトロルたちをつぎつぎと巧みにかわし、掃討すべくトロルの王国に乗り込んでいく。トロルは、ノルウェーのお伽噺でよくみる妖怪、妖精、魔物をいっしょくたにしたような、みにくい間抜け。これはノルウェー人の独善性の象徴だ。
それをイプセンは、大言壮語だが日和見的、無鉄砲だが自分本位の、憎めないペール像に仕立てた。ペールはいつも自分がなにか「でっかいこと」をしでかして、周囲の鼻を明かしてやることを夢想している。ノルウェーの田舎村に生れ育ったペールは、はるばるモロッコの海岸に、次いで砂漠に、さらにエジプトのスフィンクスの傍らに姿を現す。ペール自身によれば、彼はそれまでに貿易商として世界中を駆け回ったこともあるというのだ。そして年老いたペールは帰るべき場所も失ってノルウェーに戻り、さすらい続ける。ペール・ギュントの生涯とは、生れ故郷を立ち去って以来、ずっと根を下ろすことのない流浪の連続であった。ところで意外なことに、このような流浪はもとの民話には存在しない要素である。民話を素材としつつも、物語に大きく手を加えて膨らませていった。その結果、もとの民話とはほとんど別物といってよいほど、『ペール・ギュント』は完全にイプセンの創作と化した。ある若者が、その一身にはまったく分不相応に思われる欲望や野望への衝動を抱いていて、それゆえに時に人の顰蹙を買い、時にその未知数の将来を期待させるといった話には、ある普遍性がある。だが、イプセンはペールに19世紀という同時代を生きさせることを選択した。もしペールが故郷の村から出奔せずに終ったなら、彼の野望はせいぜい村人の物笑いの種にしかならなかっただろう。帝国主義の雰囲気を背景として、19世紀的現実に相応するかたちで、ひたすら富を求める実業家ペール、恋する予言者ペール、そして歴史学者ペールの欲望は、次から次へと節操なく、「ギュント的おのれ、それはそもそも希望、願望、欲望の山、ギュント的おのれ、それはそもそも機知、欲求、追求の海。」と、ペール自身が得意気に述べているくらいに追求させる。イプセンは、近代人における〝自分自身であること〟の病いにきわめて意識的な作家だった。すなわち〝自分自身であること〟というテーマが、〈欲望〉と〈満足〉という相対する二極から引っ張られているような構図だ。だからペールは、いつでも日和る。「大胆不敵さのコツとはそもそも何か?行動する勇気を持つためのコツとは何か?それは落し穴に落ちた人生の荒野に絶えず可能性を残して立っていること。 ― いつでも引き退ることができるように常にうしろに橋を作っておくこと」。「傍観者として、安全な距離から」というのが彼のモットーだ。そして流行を追うこと、順応すること、なんにでも慣れてしまうこと。自分自身であろうとする欲望を追いかける道程には、最初から満足が織り込まれている。それゆえ〝自分自身であること〟は、その本人の主観的意識に反して、いつだって中途半端な試みにならざるを得ないのである。物語の時間は40年ちかくにわたり、ノルウェーの大渓谷の村から山の魔王の宮殿、暗闇、モロッコの海辺にサハラ砂漠、カイロの精神病院、嵐の海、墓地、荒野など、おそよ舞台に表現づらい情景が連続する。破天荒な冒険譚、壮大なファンタジー。物語はどんどん肥大化してゆくが、40年の長い放浪を経ながらあまりに成長も成熟もしない主人公を通じて、『利己主義、狭量、うぬぼれに対する風刺』をする。
グリーグの音楽にノルウェーの心がはっきり宿っていると高らかに宣言したのは巨匠フランツ・リスト(1811〜1886)だ。かつて「ピアノの魔術師」とよばれて華々しく活躍したが、いまやもう晩年の域、ローマで僧籍の身にあった。彼はあるとき楽譜店でグリーグの楽譜に眼を留める。そこにこの若い作曲家の才能を認め、翌日、賞讃と招待の手紙を書き送った。グリーグはローマのリストのもとを訪れる。リストはあのピアノ協奏曲を初見で、しかし圧倒的にドラマティックに奏きながら、「これがほんとうの北欧だ!」と叫んだ。『ペール・ギュント』を舞台化することは、イプセンにしたところで、それがそうとう困難なことであることは判っていた。『ペール・ギュント』を、上演を想定しない戯曲として書いた彼は、こんな規格外な戯曲を舞台化するには、音楽は「口あたりのよいもの」でなくてはならないと考えていた。その点、グリーグは最善の選択だった。グリーグにしても、この《ペール・ギュント》op.23(1874〜1875)の音楽を「観客が呑みやすいように丸薬にかけた糖衣」に譬えている。グリーグはひじょうに個人的な、プライヴェートな作曲家だといえるだろう。愛する国ノルウェーが独立しようとする気運が昂まるなか、彼はフィヨルドの寒村で、《抒情小品集》をこつこつと、まるで日記のようにつづっていた。やがてグリーグは国民的な作曲家となったが、音楽によって革命をおこそう、というのではない。彼は彼の在りかたで、あくまで抒情的でさりげない音楽によってノルウェーの音楽を築きあげた。この物語はペールの母オーゼに始まり、ソルヴェイグに終わる ― 二人の女に支えられた物語世界という構造をとっている。この二人の女において、まぎれもなく〈愛〉が形象化されている。彼女たちは、ろくでなしペールをただひたすら深く愛さずにはいられない。オーゼは、息子にさんざん迷惑をかけられつつも「あの子を失くすわけにはいかないんだ!」と叫ぶ。これはほかならぬ彼自身を、そのあるがままの存在において承認し求める者だけが発することのできる、究極的な愛の言葉である。ソルヴェイグはそれを分かち合い、受け継ぐ関係にある。この際、ソルヴェイグに「あんな男をなぜ」と尋ねることに意味はない。なぜなら愛は出来事であり、究極的にいかなる理由付けも動機も拒むからである。それはただ、近代的欲望や満足から完全に離れたところで屹立している、まったく手段的ならざる何かなのである。〈愛〉の手前でそれを迂回して以来、〝自分自身であること〟を求めて愛なき世界をさまよいつづけてきたペールのまわり道は、再びソルヴェイグのもとへたどり着くことによって閉じられる円環でなければならない。年老いて盲目になったソルヴェイグは、若き日に待っていてくれと言い置いて去ったきり帰って来なかった男のすべてを抱擁する。
この物語は、〈愛〉の居場所は世界の背景に保持されつづけていた。グリーグがイプセンの詩劇を充全に理解していたとしても、それを本質的に音楽に表現するのは、彼の音楽性、というか、彼の生きかたには、どうもしっくりとはこなかったのだろう。しかし、民族的な主題に情熱を注ぎ、グリーグにとってもっとも劇的で、聴くものの心に物語の情景をありありと描かせる音楽となったのである。イプセンの書いた戯曲によれば、この戯曲が書かれた1867年はペール・ギュントが年老いて死んだ年でもあるらしいので、彼はこの時、一つの生命を終えるとともに、新たな生命を獲得したということになるのだろう。《ペール・ギュント》の初演は音楽を含め、好意的に迎えられた。ぜんぶで26曲のなかから、4曲の第1組曲 op.46(1888)、また別の4曲の第2組曲 op.55(1891)が編まれた。ソルヴェイグの再会して、「言ってくれ、おれの全身、おれの真実、おのれ自らとして、おれはどこにいたか?」と問う、と「わたしの信仰の中、希望の中、愛の中。」と答えが帰ってくる。ペールのさまよった世界は広大だが、オーゼとソルヴェイグの手のひらの中であった。最後の「ソルヴェイグの歌」は歌詞をつけて歌われている録音もあるが、組曲は劇音楽の流れには従っていない。モロッコでのサハラ砂漠の日の出の情景をあらわすとともに、 アフリカに渡り心機一転したペールの清々しい気分も表現している『朝』、溺愛する息子を最後に見ることができ、 幸せのうちに死んでいく母オーゼの広く暖かい心が染み入る『オーゼの死』。酋長の娘アニトラが踊る舞曲『アニトラの踊り』。怪しく魅惑的な彼女に見事ペールは騙される。魔王の娘を追って宮殿に入ったペールに、 子分の小鬼たちが粗野にはやし立てる『山の魔王の宮殿にて』。『花嫁の略奪とイングリッドの嘆き』では、昔はペールのことが好きだったとイングリッドの悲嘆が延々と歌われる。『アラビアの踊り』は、ベドウィン族の乙女たちが踊る場面の音楽。雰囲気はかなりエキゾチック。帰路の途上での嵐に翻弄される『ペール・ギュントの帰郷』で、旅の途中で獲得したとペールがみやげ話にいう宝物を失い、『ソルヴェイグの歌 』。「冬も春も、そして次の夏も過ぎ、一年がまた流れ去る。 でもわたしにはわかっている、あなたはいつか戻ると。だからわたしは待っていよう、あなたに約束したとおり。」グリーグの《ペール・ギュント》が愛されているのは、劇音楽としてではなく、これらの組曲によってであり、また、イプセンの戯曲『ペール・ギュント』はこの音楽によって世に知られているのかもしれない。
レイモンド・レッパード(Raymond Leppard)は、1927年8月11日にイギリスのロンドン生まれ。サー・コリン・デイヴィスと同世代。ケンブリッジのトリニティ・カレッジでチェンバロを学んだ。そして、1952年にロンドンで指揮者としてデビューし、イギリス室内管弦楽団との共演によってバロック音楽の指揮者として、またチェンバロ奏者としても名声を博し、1956〜1968年にはロイヤル・シェイクスピア劇場の音楽監督をつとめ、グラインドボーン音楽祭でも活躍した。1973〜1980年、BBCノーザン室内管弦楽団の首席指揮者となったが、1977年にアメリカに移って市民権を得ており、1983年からはセントルイス交響楽団の首席客演指揮者を務めた。日本との関係は1970年、大阪万博にイギリス室内管と来日している。レッパードは、ヴェネツィア楽派の研究でも知られており、モンテヴェルディのマドリガーレ集(1971年)や2度目の録音となったパーセルのディドとエネアス(1985年)はその代表盤である。しかし、そのレパートリーをバロック音楽に限定せず、古典派やロマン派、さらに近代の作品でも、その時代と様式を的確に捉えて溌剌と端正な演奏を聴かせてくれる。イギリス室内管とのグリーグの「ペール・ギュント」組曲(1975年)の澄んだ詩情を豊かに湛えた演奏も味わい美しく、レッパードの才能が爽やかに示された佳演だった。
ヨーロッパ屈指の家電&オーディオメーカーであり、名門王立コンセルトヘボウ管弦楽団の名演をはじめ、多くの優秀録音で知られる、フィリップス・レーベルにはクララ・ハスキルやアルテュール・グリュミオー、パブロ・カザルスそして、いまだクラシック音楽ファン以外でもファンの多い、「四季」であまりにも有名なイタリアのイ・ムジチ合奏団らの日本人にとってクラシック音楽のレコードで聴く名演奏家がひしめき合っている。レコード産業としては、英グラモフォンや英DECCAより創設は1950年と後発だが、オランダの巨大企業フィリップスが後ろ盾にある音楽部門です。ミュージック・カセットやCDを開発普及させた業績は偉大、1950年代はアメリカのコロムビア・レコードのイギリス支社が供給した。そこで1950年から1960年にかけてのレコードには、米COLUMBIAの録音も多い。1957年5月27~28日に初のステレオ録音をアムステルダムにて行い、それが発売されると評価を決定づけた。英DECCAの華やかな印象に対して蘭フィリップスは上品なイメージがあった。フィリップスは1982年10月21日コンパクト・ディスク・ソフトの発売を開始する。ヘルベルト・フォン・カラヤンとのCD発表の華々しいCD第1号はイ・ムジチ合奏団によるヴィヴァルディ作曲の協奏曲集「四季」 ― CD番号:410 001-2。1982年7月のデジタル録音。現在は、フィリップス・サウンドを継承してきたポリヒムニア・インターナショナルが、これら名録音をDSDリマスタリングし、SACDハイブリッド化しています。
1975年11月イギリス、ウォルサムストウ・タウン・ホールでのステレオ・セッション録音。プロデューサー:ヴィルヘルム・ヘルヴェーク。
FR PHIL 9500 106 レイモンド・レッパード グリーグ・…
FR PHIL 9500 106 レイモンド・レッパード グリーグ・…
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