34-16172
商品番号 34-16172
通販レコード→仏ブルーラベル銀文字盤
勇壮なホルン、オーケストラの〝いぶし銀〟の響きとあいまって聴きごたえ十分。 ― 重厚にして壮大。仄暗いが、底光りのする渋い響き。これら旧東ドイツのオーケストラの特徴がシューマン特有の厚手で灰色掛かった世界と見事な一致を見せ、まことに素晴らしいものとなっている。シューマンではオーケストレーション(管弦楽法)の問題が必ず取り沙汰されますが、堅実で節度のある演奏だからこそ見えてくるものがあるのか、私たちの知るシューマンとは違う。シューマンは、基本的にはピアノと歌曲の作曲家ですね。たとえばベートーヴェンの場合は、基本的には器楽の作曲家だと思いますし構築性ということが第一になってきますね。ブラームスになるとベートーヴェンよりは歌の要素が入ってきますが、ブラームスはシューマンよりも、よりシンフォニックで楽器法がうまかった。シューマンのオーケストラ作品によくあるメンデルスゾーンに似た弦楽器のキザミでも、効果的でないことが本当に多い。ブラームスくらいの人だったら、シューマンの交響曲の欠陥である構成の弱さは見抜いていたでしょうね。たとえば交響曲第3番「ライン」の第4楽章などは変ホ短調の中を往来するばかりで結局のところ調性としては、どこにも発展しない。そういう点は作曲としては欠陥がありますが、同時にこの楽章には音楽として非常に深いものがあって、やはり聴く者をとらえずにはおかない魅力があるのです。これは、霊感という言葉でしかいい表せないようなものです。シューマンはオーケストレーションだけでなく、楽器の使い方が全般的に下手でピアノ協奏曲やチェロ協奏曲ではまだ問題は少ないのですが、個々の楽器の持っている性質や特徴を充分には理解していなかったのでしょう、ヴァイオリン協奏曲になると楽想は素晴らしいけれども無理があり、ピアノで弾けばきれいに響くけれども、他の楽器で弾くとよさが伝わってこない。だから、どうしても「名曲」にはなり得ないような部分があるのです。べートーヴェンのようなシンフォニックな世界よりも、もっとリリックで壊れやすいデリケートな要素が強いので、そのあたりを大きなオーケストラで表現するのが難しい。しかし、彼は生まれながらにして持っていた自分の性格を犠牲にしても、ベートーヴェンなどが作り上げたいわゆる構築的なドイツ音楽の伝統を自らの意志で受け継いでいこうとしたのです。だから彼の交響曲は本能の趣くままに作曲されたのではなく、憑かれたような義務感をもって作曲されたと思います。シューマンは、自作の構成力の弱さも敏感に感じ取っていた。その意味で、彼はとても責任感の強い人でもあったのですね。取りも直さずシューマンが、ドイツ的な音楽の伝統であるシンフォニックなものを本当に愛したからこそ、こうした奇跡のような作品を生むことができたのではないでしょうか。
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異世界を生きたシューマンの音楽か。少しの奇の衒いもない正々堂々とした鳴りっぷりが、極めて健康的で堂々としたシューマン。昨日のレコードと関連して今日注目するのは、針葉樹の森も、広葉樹の森も秩序美があるのだと意識させるコンヴィチュニーのシューマンで、シューマンの構築美も認めようじゃないか。
ナチス・ドイツと東ドイツの全体主義体制の両方で活動し、いかにもドイツ的な指揮者ということであるが、政治的な危険な目に遭うことを避けることに成功した。フランツ・コンヴィチュニー(Franz Konwitschny, 1901〜1962)は1901年8月14日、オーストリア=ハンガリー帝国支配下時代のチェコ、モラヴィア北部のフルネクでドイツ系植民の音楽家の一家に生まれた。ブルノ・ドイツ音楽協会付属音楽学校、ライプツィヒ音楽院で学ぶ。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー時代のゲヴァントハウス管弦楽団でヴァイオリン、ヴィオラ奏者として活動をスタート。1925年、ウィーンへ出てフィッツナー四重奏団員。フォルクス音楽院でヴァイオリンと音楽理論を教える。フルトヴェングラーの他にもブルーノ・ワルターやオットー・クレンペラーなどがゲヴァントハウス管弦楽団の客演指揮者を行っていたためか、1927年、指揮者に転向。シュトゥットガルト歌劇場に加わり、コレペティトール(練習指揮者)を始める。そして3年後には1930年、シュトゥットガルト・ヴュルテンベルク州立劇場第一指揮者に就く。その後は1933年、フライブルク市立歌劇場音楽総監督。1938年、フランクフルト市立歌劇場および同博物館管弦楽団の音楽総監督を歴任する。冷戦開始後は東ドイツを中心に東側諸国で活動する。1945年終戦後、ハノーヴァー歌劇場音楽総監督。1949年、ゲヴァントハウス管弦楽団楽長(カペルマイスター)に就任。1962年の死までその地位にあって、長期にわたり楽団とともに活動を行った。戦争によって深い傷を負った同オーケストラの復興に、コンヴィチュニーは相当な努力を行った。10年以上にもわたって楽団と苦楽を共にしたためか、その演奏は明晰さを湛えた緻密なものであった。またこれと並行してオペラ分野では、ハンブルク国立歌劇場指揮者(1949〜62)を経て、ドレスデン国立歌劇場首席指揮者(1953〜55)も兼務。ついで、エーリヒ・クライバーの後任としてベルリン国立歌劇場(1955〜62)の首席指揮者も務め、1952年、東ドイツ国家賞を受け、名実ともに東ドイツの最高の指揮者となった。1961年4月にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が初来日し、大阪公演及び東京公演で日本初のベートーヴェン・チクルス(交響曲全曲演奏)が実現された時の指揮者でもある。1962年7月28日に演奏旅行先であるユーゴスラヴィアのベオグラードでベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』のリハーサル中に心臓発作により死去した。なお、東ドイツ政府は飛行機で帰国した偉大なマエストロの亡骸を国葬でもって弔った。
1960年8月22〜30日ライプツィヒ、ベタニア教会でのセッション・ステレオ録音。
FR FONT 698 058 CL フランツ・コンヴィチュニー シ…
FR FONT 698 058 CL フランツ・コンヴィチュニー シ…