34-16260

商品番号 34-16260

通販レコード→仏FESTIVAL CLASSIQUE レッド黒文字盤

私はますます、音楽とは色彩と律動する時間であると確信するようになった ― 陽光あふれるフランス・カンヌで少年時代を過ごしたドビュッシー。彼は「音楽家でなかったら船乗りになっていただろう」と語るほど、生涯にわたって海への憧れを抱き続けました。そんなドビュッシーの書斎には、葛飾北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」が飾られています。19世紀末、パリでは万博が開催され、世界中の文化が紹介されていました。とりわけ数々の芸術家に衝撃を与えたのが日本の文化。ドビュッシーも日本文化から影響を受けた一人でした。北斎の浮世絵を大いに気に入り、自分の書斎に飾り続けたのです。しかもこの浮世絵は、交響詩 《海》の楽譜の表紙にもなっています。2018年はドビュッシー、没後200年ということで鶴屋百貨店でのレコード鑑賞会で取り上げたかったので、ようやく今年の9月29日に聴いて、ワクワク高揚しました。夜明けの暗い色調から、太陽が真上に燦然と輝くダイナミズム。弱音から炸裂するクライマックスまで音が飽和することのない、素晴らしい環境のオーディオ装置に、ドビュッシーの音楽を深く聴き込めたようです。アルテュール・グリュミオーが録音したモーツァルトのヴァイオリン協奏曲に続いて聴いたことで、フランス流の艶かしさは共通していながら、古典音楽の様式美とのコントラストになった。副題に、〝管弦楽のための3つの交響的素描〟とある。第1曲は〈海の夜明けから真昼まで〉。この曲からイメージされるのは、早朝、まだ暗い中でうごめく波。そして日が昇るにつれて見えてくる雄大な海の姿です。第2曲は〈波の戯れ〉。音形そのものが、寄せては返し、はかなく消えていくさざ波のようです。そして第3曲〈風と海との対話〉は、風の巻き起こす力強い波が、オーケストラに乗り移ったかのようにダイナミックに響きます。ワーグナーの歌劇「タンホイザー」の主題になっているように、ルネッサンス音楽では韻を踏むことが重要視されて、やがてバロック音楽時代を迎えます。変奏形式が原型にある西洋音楽ではメロディーに頼って作曲法は発展しますが、ドビュッシーは日本の浮世絵に刺激を受け、断片だけでも十分音楽の表現ができるとインスピレーションを得ます。海の嵐を予兆させる低弦楽器で鳴り響く「風」のような音、「波」をイメージさせる部分を楽譜で見てみると、本当の波のように音形が上下に揺らめいていることがわかります。このように、メロディーではなく、音の塊や音の運動で自由に海を音楽で表現したことが、ドビュッシーの革新性なのです。音楽の姿について、「音楽の本質は形式にあるのではなく、色とリズムを持った時間なのである」と語ったドビュッシーは、斯くも〝色とリズム〟で、海そのものを表現したのです。愛する海をテーマに作り上げたこの交響詩は、ドビュッシーが円熟期の1905年に発表した代表作です。時代は奇しくも、美術の分野で印象派絵画が起こったのと重なり、ドビュッシーの革新性が影響もしたことで印象主義音楽の一翼を担っているとされるのです。マスネやグノーの、つまり19世紀後半の極めてフランス的な二人の作曲家の音楽の官能的な雰囲気と爽やかな果実のような味わいこそがドビュッシーの全音楽の特徴なることは否定できなかろう。そして、本質的にこのことによってこそ、ドビュッシーは《フランス的音楽家》であり、《フランスのクロード》であるのだ。とはフランスの音楽評論家アントワーヌ・ゴレアの言だが。ドビュッシーは結構奔放な生活をしていたらしい。サンソン・フランソワの先生として知られるイヴォンヌ・ルフェビュールがドビュッシーの前でピアノを弾いたときのこと。巨匠の作品をドキドキしながら弾き終えたイヴォンヌがおそるおそる感想をうかがうと、夢からさめたようなおぼろげな表情のドビュッシーが、「ごめんなさい、あなたの髪があまりに美しくてピアノを聴いていませんでした」と告白したそうな。当時イヴォンヌは、身の丈ほどもある髪を頭のまわりにぐるぐる巻きつけていたのだ。ドビュッシーは髪フェチで、作品にも髪を扱ったものが少なくない。ピアノの名曲「亜麻色の髪の乙女」もそのひとつで、もとになった詩には、金茶色(ブルネット)の髪とさくらんぼのような唇を持つ少女への想いが歌われている。脳みそのどこかをくすぐられるような、女性のエキスがしたたりそうな、寄せては返し、はかなく消えていくさざ波。日が昇るにつれて見えてくる雄大な海は、豊かな髪か。眩しく美しい太陽だがジリジリとしない、透明で清澄な響きはドビュッシーの特徴となっている。波のうねり、流れる雲、吹き寄せる風の感触に女性の艶やかな長い髪を感じまいか。心に刻み込まれた印象を自由に、大胆に表現したドビュッシー。ドビュッシーの様式に囚われない自由な、その音楽は20世紀音楽の扉をも開いたのです。シャルル・ミュンシュは音楽が持っているストーリー性を、物語の様な視点で語りかけてくる。それが度を越すケースが多いのだけど、熱を持って表現する。ミュンシュは当時ドイツ領だったストラスブルク出身であることからブラームスなどのドイツものまで得意としていたのは当然、彼の演奏で聞いても見たかったがバッハも熱愛していた。そのアイデンティティあってこそのベルリオーズなどのフランスものでの情熱的な指揮ぶり、爆発的な熱気あふれる音楽表現で感動的。本盤はボストン交響楽団、パリ管弦楽団とは別の、フランス国立管弦楽団との演奏。1968年録音といえばミュンシュの亡くなった年。彼はクロード・ドビュッシーの交響詩《海》の録音を幾つか残しているが、巨匠最晩年、演奏旅行中に亡くなる9ヶ月前の貴重な録音。そう、この演奏は偉大な指揮者の最後の姿を収録したものだ。彼は音楽的には衰えることなく絶頂期に逝った。〝ベルリオーズの幻想交響曲〟と本盤の1ヶ月前の録音だった、〝ブラームスの第1交響曲〟でのミュンシュがドライヴするパリ・コンセルヴァトアールの燃焼ぶりは永遠に色褪せることがない。近代フランス音楽の華麗な音響でこそミュンシュの真価は発揮されたが、そして何よりも作曲者の破天荒な発想を現実の音としている。本盤でも、彼らしく華麗でエネルギィッシュだ。とくに「祭り」が絶品。生涯のほぼ半分ずつを、それぞれドイツ人とフランス人として送った彼は、両国の音楽を共に得意とした。ドイツ音楽ではベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーンなど、フランス音楽ではベルリオーズ、フランク、サン=サーンス、ショーソン、ドビュッシー、ラヴェルなどに名盤を遺した。ミュンシュは自国の音楽に先天的共感を以って、この効果の難しい難曲を実に巧みに演奏し妙に現代風なダイナミックを強調しない点はさすがである。現代の優等生指揮者が機能的オーケストラを振ったようなパステルカラー調の《海》とは比較にならないほど強烈なサウンドカラーが表出される。ドビュッシーが思い描いていたサウンドはこのようなものだったのではないか。彼が愛した地中海は、いわば原色の海だったのだろう。→コンディション、詳細を確認する
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《3つの夜想曲》は、1892年に作曲に着手され、1899年までのおよそ7年を掛けた管弦楽の組曲です。ドビュッシーの代表的なオーケストラ曲として《海、管弦楽のための3つの交響的素描》《牧神の午後への前奏曲》の間に位置し、両曲と共に演奏される機会の多い作品です。しかし、その創作過程が最も不明瞭な作品の一つ。標題の『夜想曲』は1876年に、アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン詩「夜想曲」から着想したとされる。フランス語(Nocturnes)のまま「ノクチュルヌ」と呼ばれることもありますが、「夜想曲」という言葉のイメージから作曲された「雲」、「祭」、「シレーヌ」という3つの曲で構成されています。第1曲「雲(Nuages)」は、空の雲のゆっくり流れて消えていく様を描写したもの。「セーヌ河の上に垂れこめた雲」を表すと思われるクラリネットとバスーンが冒頭で汽船の霧笛を思わせる動機ではじまる。中間部でハープを伴って奏でるフルートのメロディーが五音音階で出来ているのが特徴。第2曲「祭(Fêtes)」はスケルツォの性格を持った楽曲で、祭の盛り上がりと祭の後の静けさが描かれています。活発な3連符のリズムが唐突に中断すると、遠くから幻影のような行列が近づいてきます。やがて、祭りの主題と、 行列の主題が、同時進行して溶け合うようになり、主題を回想しながら消え入れる中、トランペットは次の「シレーヌ」の序奏をさりげなく予告する。第3曲「シレーヌ(Sirènes)」では16人の女声合唱(ソプラノ8、メゾソプラノ8)による歌詞のない女声合唱(ヴォカリーズ)がオーケストラに加わり、月の光を映してきらめく波と、ギリシャ神話の水の精シレーヌの神秘的な歌声を表現します。風景の変化、光の移ろい。目に映るものに確実なものはなく、すべては光の変化でしかない。と書くと印象派絵画のようだが、ドビュッシーの夜想曲はそんな気持ちにさせる、詩的で神秘的な音楽だ。
夜想曲という題は、ここではより一般的な、とりわけより装飾的な意味にとってほしい。したがって、夜想曲の慣行の形態ではなしに、特殊な印象と光とをめぐってこの言葉の包含するすべてが、問題になる。〈雲〉。これは空の不易のすがたである。やんわりと白みをおびた灰色の苦悩のなかに消えてゆく雲の、ゆっくりとわびしげな動きが見える。〈祭〉。これは、だしぬけに光がまぶしくさしこんでくる祭の気分(アトモスフェール)の踊るような動き、リズムであり、また、祭を横切りそのなかに溶けこんでゆく行列のエピソード(眩惑的でしかも夢のごとき幻影)である。しかし、行列の基調はあとに残り、いつまでも鳴りひびく。というわけで終始これは祭であり、その音楽とも全体のリズムに加担するきらきら輝く埃ともまざりあって一体になった、祭である。〈海の魔女(シレーヌ)〉。これは、海とその数えきれないリズムで、それから、月の光に映える銀色の波のあいだに、魔女たちの神秘な歌があらいさざめいてよぎるのが、きこえる。 ― ドビュッシー自身による解説文
当初は1892年に、アンリ・ド・レニエの詩に着想した『3つの黄昏の情景(Trois scènes au crépuscule)』としてまず構想された《夜想曲》だったが、次いで1894年にはヴァイオリンと管弦楽のための『夜想曲』として、ベルギーの作曲家でありヴァイオリニストであったウジェーヌ・イザイに献呈すべく再度構想された。しかしイザイがこれを辞退したことから、この版も破棄された。ドビュッシーは1897年12月から稿を改めて作曲に入り、1898年6月25日には草稿を書き上げた。しかし、〝『夜想曲』の三曲には、『ペレアス』の五つの幕よりもてこずった〟とドビュッシー自身が述べている通り、最終的に書き上げられたのは1899年12月末であった。献呈者はジョルジュ・アルトマン。初演はコロンヌ管弦楽団によって行われる予定であったが、1900年12月9日のラムルー管弦楽団定期演奏会において、「雲」と「祭」の2曲のみの形でなされた。この初演は好評をもって迎えられ、ガストン・カローは「和声や響きを、限りなく革新的な諸関係に従って、組み合わせる術を知っている」と評し、アルフレッド・ブリュノーは「和声やリズムだけで、作曲家の思考を最も独創的かつ最も驚異的なやり方で表現するには十分なのだ」とした。しかし、翌年に行われた全曲版の初演は熱狂的な喝采を受ける一方、第3曲の演奏中に野次が飛ぶ、矛盾する反応を生みだしたという。
クロード・ドビュッシー(Claude Debussy)は1862年生まれ。1918年没。フランスの作曲家。印象主義音楽の創始者。ワグネリアンで、マラルメなど象徴派詩人たちと接していた。中世の旋法、5度7度の組み合わせ、全音音階等独創的な音色とリズムを獲得し、ロマン派音楽から脱却、新しい世界を切り開いた。ドビュッシーが活躍を始めた19世紀末にかけて、ヨーロッパではリヒャルト・ワーグナーが大流行していました。1861年にパリ・オペラ座で上演された歌劇『タンホイザー』は大変なスキャンダルを巻き起こし、公演は3回で打ち切られてしまった。パリのワーグナー・ブームはボードレールやマラルメら詩人たちによって推進されたのだが、一度聴くと耳について離れないワーグナー音楽は、当時の作曲家らの耳を支配した。巨大な管弦楽と強靭な歌声によって、観る者の感覚を根こそぎ奪い取っていくようなワーグナーのオペラに魅了される人々が数多くいたのです。ドビュッシーも、パリ音楽院在学中にワーグナーに傾倒し、楽劇『トリスタンとイゾルデ』のスコアを持ち、全3幕を暗譜で弾き語りすることができた。卒業後の1888年と1889年、2回にわたってワーグナーのオペラを観にバイロイト祝祭歌劇場を訪れています。けれども、このバイロイト行きを頂点として、ドビュッシーのワーグナー熱は次第に冷めていきました。彼は、「ワーグナーを越える」ためにはどうしたらいいのかを模索し、やがて独自の新しい音楽の世界を切りひらいていくのです。「ワーグナーをどうやって越えていくか」という問題は、そもそも、この時代の作曲家にとって共通の最大の問題でした。なぜなら、誰もが一度はワーグナーという巨大で圧倒的な存在に、魅了されるにしろ反発するにしろ、影響を受けないわけにはいかなかったからです。ドビュッシーは、ワーグナーの影響から抜けだし、新しい20世紀音楽への扉を開いたひとりといえます。代表作のひとつである交響詩《海》は、独自の和声や浮遊するリズムなどによって、まったく新しい音楽のすがたを示しています。ドビュッシーはここで、自分の内面に向かっていた眼差しを、外の世界に向けようとしました。とはいってもそれは、画家が風景を画面に忠実に写し取ろうとするように自然の風景を音によって描写する、というのとは少し違っています。ドビュッシーは、〝海〟という自然を足がかりとして、それを越えたところで自分の内側に湧き起こってくるイマジネーションを音楽にしようとしたのです。彼が描いた《海》は、実際にそこにある『海』ではなく、彼の記憶の底からすくい上げられ、想像力によって変形された見えない『海』なのです。
色彩は創り手や聴き手の外にあるものではない。心のうつろいや惑い、喜びと哀しみ。律動もまた、ひとの内側にある。心臓の鼓動、筋肉の躍動、言葉と思索のリズム。クロード・ドビュッシーは、人聞のすべての思いと感覚を解放し、それらがないまぜになったものを音響とリズムに託した。ドビュッシー音楽の本質は、ジャック・デュラン(1869年に作曲家のオーギュスト・デュランが創立したフランスを代表する名門楽譜出版社として広く知られているデュラン社の御曹司)に宛てた手紙の一節 「私はますます、音楽とは色彩と律動する時間であると確信するようになった」に要約されている。ドビュッシーの音楽は印象派の絵画と並べて語られることが多いが、実際には象徴主義の文学運動と深いかかわりをもっていた。ドビュッシーは象徴派の大詩人ステファヌ・マラルメの火曜会に出席した唯一人の音楽家だったし、『牧神の午後への前奏曲』をはじめ、シャルル=ピエール・ボードレールやポール・マリー・ヴェルレーヌ、アンリ・ド・レニエやピエール・ルイスたちのテキストによって多くの作品を書いた。かといって、彼ほど「音」と「言葉」の領域にこだわった作曲家はほかに少く。ドビュッシーのためにテキストを書き、何度も書きなおしを命じられたあげく、「音楽が乗らないから」という理由で一音も書いてもらえなかった詩人たちも多い。また、「私は仕事が遅いのです」というのがドビュッシーの口癖だった。唯一のオペラ『ペレアスとメリザンド』は上演までに9年、 管弦楽のための『映像』は7年かかっている。いっぽうで、ピアノのための不朽の名作『前奏曲集第1巻』はたった2か月で書いてしまっている。ドビュッシーを語る人が必ず口にすることに、彼の異様に突き出た額がある。レオン・ドーデに「インドシナの犬」のようだと言われたおでこ。そこには、リヒャルト・ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」全3幕が詰まっていて、ピアノで弾き語りすることができた。その腕前は、ショパンにピアノを習ったことがある非常にすぐれたピアノ教師だったモーテ・ド・フルールヴィル夫人に手ほどきされ、その記憶力で、ローマ留学中にフランツ・リストの演奏を目のあたりにしているドビュッシーは、2人のピアニズムを作曲語法に転換させ、新たな地平線を開いた。後年、モーテ夫人の指導、特にバッハやショパンについての教えは終生忘れず、手紙等でくり返し感謝の念を述べている。ショパンの音楽をこよなく愛した彼は、晩年には自らショパンの『練習曲集』の校訂にも携わるほどでした。彼は革新的な語法で20世紀音楽への扉を開いたが、その音づかいは、専売特許のような全音音階をはじめ、11や13の和音など、高次自然倍音列の中にほとんどそっくりおさまるという。つまり、耳に心地よいのである。彼の革命は、あくまでも聴覚的自然の範疇にとどまった。ワーグナーの影響から抜け出そうともがき、そのことによって優れた作品を生み出したドビュッシー。1989年夏に、パイロイトの祝祭歌劇場で舞台神聖祝典劇「パルジファル」や楽劇「トリスタンとイゾルデ」の上演に接したドビュッシーは、登場人物が舞台に出てくるたびに判で押したように奏される〝音楽の名刺〟を痛烈に批判した。とはいえ、脱ワーグナーをめざして書かれたオペラ『ペレアスとメリザンド』にもまた、控えめながら登場人物を象徴する ― ワーグナーの代名詞ともいうべき「ライトモティーフ」的なものは存在する。何によらず、同じものをくり返すことを嫌うドビュッシーは、モティーフが出てくるたびに少しずつリズムやハーモニーを変え、場面ごとの心理の変化を表現しようとしてはいるのだが。1907年に自作の楽劇「サロメ」初演のためにパリを訪れたリヒャルト・シュトラウスは、ロマン・ロランのお供でオペラ『ぺレアスとメリザンド』の舞台に接し、ある場面で「なんだ、「パルジファル」そっくりじゃないか!」とつぶやいたという。たぶん、第1幕の第2場に至る間奏曲の部分。パルジファルがアムフォルタス王の城に入城する場面転換の音楽によく似ている。斯くもワーグナーに反旗をひるがえしつつも、晩年のスタイルに至るまで、実はワーグナーの亡霊から逃れられなかった。フランス近代一の大作曲家にこんな苦労をさせるのだから、ワーグナーの威力はやはり強大だ。
ミュンシュは、多少コスモポリタン的な傾きはあるが、全く現代的で、緊迫度が高く簡潔緻密だ。特に、ほど良く淡白な叙情性と人生の秋をしのばせる曲趣の調和が目立つ。尻上がりに油が乗ってくる。ワルターとは逆の手法で成功したものといえよう。盤鬼・西条卓夫
シャルル・ミュンシュ(Charles Munch, 1891〜1968)のキャリアはヴァイオリニストからスタートしていますが、若かりし頃、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターに就任、その時の楽長がヴィルヘルム・フルトヴェングラーだった。毎日その巨匠の目の前に座って多くのことを習得したことから、知らずと例の拍子を暈す内容重視の指揮法はフルトヴェングラーの指揮姿から身につけたものと推察出来ます。ミュンシュは音楽が持っているのストーリー性を、物語の様な視点で語りかけてくる。それが度を越すケースが多いのだけど、熱を持って表現する。ゲヴァントハウスではドイツ語でカール・ミュンヒ(Carl Münch)と呼ばれていた。生涯のほぼ半分ずつを、それぞれドイツ人とフランス人として送った彼は、両国の音楽を共に得意とした。ベルリオーズの「幻想交響曲」とブラームスの「第1交響曲」でのミュンシュがドライヴするパリ・コンセバトワールの燃焼ぶりは永遠に色褪せることがない。ミュンシュは当時ドイツ領だったストラスブルク出身であることから、歴としたドイツ人であるが故にブラームスなどのドイツものまで得意としていたのは当然、彼の演奏で聞いても見たかったがバッハも熱愛していた。1929年にパリで指揮者としてデビュー、1937年にパリ音楽院管弦楽団の指揮者となって、1946年まで在任した。そのフランス音楽の守護神のようなミュンシュが、アメリカのボストン交響楽団の音楽監督に迎えられた。1946年のアメリカ・デビューから3年後のことだ。1962年まで、その地位にあり、戦後のボストン交響楽団の黄金時代を築いたのは周知のとおりだ。ピエール・モントゥーは1919~1924年にボストン響の常任指揮者を務めたが、後任となったセルゲイ・クーセヴィツキーは在任中、モントゥーを客演に招こうとしなかった。モントゥーの伝記によれば、オーケストラ側から、退任後も翌シーズンから客演に呼びたいと言われていたが、全く実行されなかったとぼやいている。その約束が果たされたのは27年後の1951年、クーセヴィツキーの後を継いだミュンシュ時代になってからであった。ミュンシュはモントゥーと懇意で、ミュンシュが1962年に常任を離れるまで、モントゥーは頻繁に同響の指揮台に立った。戦後アメリカの旗印は〈自由の国〉だったが、ミュンシュが生涯にわたって、願って止まなかったのも、この〈自由〉。ミュンシュが指揮するラヴェルの「ボレロ」は、作曲者のイン・テンポの指示を守らずに、どんどんアチェレランドして行くことで有名だ。が、ミュンシュがやりたいようにやっている自然さが別の魅力を生んで、忘れ難い名演となっている。ミュンシュが自身の音楽を大きく花開かせたのは、この頃からだ。ミュンシュは戦前には、必ずしも強烈な個性や豊かな音楽を持った指揮者ではなかったと思うが、ミュンシュとボストン響との相性の良さは、戦後アメリカで重要なポストに就いた指揮者のなかでも、最良の成果を双方にもたらした。ミュンシュの代表盤の大半が、このオーケストラとのものとなっている。ミュンシュは常任指揮者に就くとともに、このオーケストラと専属契約関係にあったアメリカRCA社に録音を開始、主要作品を網羅したベルリオーズに始まり、ラヴェル、ドビュッシーなどのフランス音楽のほか、ドイツ音楽など多彩な内容のアルバムを数多く制作。それらの多くは、優れた音響を持つボストン・シンフォニー・ホ-ルで行われ、ほぼ全てを〝RCAリビング・ステレオ〟の礎を築いたリチャード・モーア、ルイス・レイトンのコンビが手がけた。
遥か昔から、アルザス地方はドイツとフランスが領有権を奪い合ってきました。ライン川中流の西岸で、その北のロレーヌ地方とともに、葡萄、小麦などの豊かな農作物、鉄・石炭の産地であり、フランスとドイツの1000年にわたる争奪戦が繰り広げられた。人種的にはドイツ系住民が多いが、文化的にはフランス文化の影響の強い地域といわれる。アルザス=ロレーヌはフランス革命・ナポレオン時代を通してフランス領として続き、ウィーン会議でもかろうじてフランスは領有を維持したが、普仏戦争に敗れ、1871年、両地方の大部分をドイツ帝国に割譲した。19世紀後半のフランスの作家アルフォンス=ドーデの「最後の授業」は、この普仏戦争でアルザス地方がドイツ領に編入されたときのことを題材にしている。明日からはドイツ語で授業をしなければならないという最後の日、フランス語の先生は子供たちにフランス語は世界で一番美し言葉だと教え、忘れないようにと説く。そして最後に黒板に大きく「フランス万歳!」と書く、という話で、かつては日本の教科書にもよく見られたが、実は、アルザス地方で話されていた言葉はフランス語ではなく、もともとドイツ語の方言であるアルザス語です。〝シャルル・ミュンシュ〟が生まれた1891年にはドイツ領で、〈ドイツ人〉として生まれ、ドイツ人として音楽教育を受けている。第二次世界大戦中アルザスの若者達はドイツ軍に強制編入されました。ドイツとしてはアルザス人はフランス語を話すので、激戦区だった東部戦線の最先端に送られ、戦後何年もシベリアに抑留されました。まるで捨て駒のような扱いでしたが、17、18歳の若者が参加したのは、ドイツ軍に加わらなかった場合は、非国民として家族も収容所へ送られたからです。第二次世界大戦終結し、アルザスはドイツから解放され再びフランスに戻ります。しかし、フランスの他の地域に比べて倍以上の犠牲を出したにも関わらず、占領されていた歴史の結果として約4万5千人のアルザス人が対独協力容疑で収容されました。建築物や食生活などに見るアルザスの独特な生活文化は、この地方の文化の二重性がもたらした貴重な財産であると同時に、歴史的困難をもたらした要因でもあったわけです。ミュンシュが熱心に取り上げるフランスの作曲家にオネゲルがいるが、戦争や人種対立などを憂い、危機意識をもって苦悩するオネゲルへの深い共感が底流にあるのもそのためだ。ミュンシュはラヴェルの「ボレロ」を4回スタジオ録音している。第1回目は1948年のパリ音楽院管弦楽団との録音。この演奏は、イン・テンポを守っている。むしろしばしば言い聞かせるように確認しながらの音楽の運びが興味深い。そしてどこかしら退屈そうだ。この演奏を聴いていると、その後のボストン交響楽団との演奏が、どれほど自由で開放的かに思いが至る。オネゲルの「交響曲第5番」は、1951年3月9日に、ミュンシュ指揮、ボストン響により初演され、そのまま録音が行われた。ミュンシュの繊細でいながら力強い前向きの演奏が、オネゲルの思いの深さと呼応した名演だ。『生涯の終わりごろ、ブラームスが目も眩むほどの速さでヴァイオリン協奏曲を振りはじめた。そこでクライスラーが中途でやめて抗議すると、ブラームスは「仕方がないじゃないか、きみ、今日は私の脈拍が、昔より速く打っているのだ!」と言った。』そんな興味深いエピソードを、ミュンシュはその著書「指揮者という仕事」(福田達夫訳)の中で紹介していますが、今ここで音楽を創造しながら、「ああ生きていて良かった!」という切実な思い、光彩陸離たる生命の輝き、そして己の殻をぶち破って、どこかここではない彼方へ飛びだそうとする〝命懸けの豪胆さ〟が私たちの心をひしひしと打つのです。
ミュンシュが、その最晩年に持てるエネルギーの全てを注いだのがパリ管弦楽団(Orchestre de Paris)の創設と育成でした。1967年6月、フランス文化相アンドレ・マルローと文化省で音楽部門を担っていたマルセル・ランドスキのイニシアチブにより、139年の歴史を誇りながらも存亡の危機を迎えていた名門パリ音楽院管弦楽団(Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire)の発展的解消が行われ、新たに国家の威信をかけて創設されたのがパリ管弦楽団で、その初代音楽監督に任命されたのが〝フランスの名指揮者〟としてのシャルル・ミュンシュでした。第2次世界大戦前にパリ音楽院管弦楽団の常任指揮者を務めていたミュンシュ以上にこの新たなオーケストラを率いるのにふさわしい指揮者はおらず、同年10月2日からの綿密なリハーサルを重ねてむかえた11月14日の第1回演奏会は、国内外に新しいフランスのオーケストラの誕生をアピールする大成功を収めたのでした。翌1968年11月、パリ管弦楽団の北米ツアーに同行中にリッチモンドで心臓発作のため急逝するまで、ミュンシュは30回ほどの共演を重ねながら、EMIにLP4枚分の録音を残しました。その中の1枚がこの〝ベルリオーズの幻想交響曲〟で、11月14日の第1回演奏会でも取り上げる作品となり、EMIはそれに先だって4日間のセッションを組み、巨匠の叱咤激励のもと覇気に燃える新生オーケストラの息吹を捉えたのです。仲間と音楽を作りたい。そう思ったのかどうか、若い時にオーケストラは組織し、自己流で指揮法を編み出した男の情熱の行き着いた終結点。パリの巨大キャバレーのようなサル・ワグラム・ホール。だだっ広いスペースを音楽で充満させられたのはミュンシュの熱意か。指揮者ミュンシュは、この交響曲でありながら標題音楽でもある〝幻想〟のもつストーリー性を小説家の様な視点で語りかけてくる。ロマンティックな曲想は、ベルリオーズの実体験にもとづいたストーリーあってのものだということを熱を持って表現する。ミュンシュがドライヴするパリ管の燃焼ぶりは、30年以上経った今でも色褪せることがない。
FESTIVAL CLASSIQUEは、フランスのレーベル Disques Festival はラジオ・ルクセンブルグの後援を受けて1953年設立、ベルギーの Festival Victory と提携してロックやジャズのレコードも発売している。
  • Record Karte
  • 1968年2月パリ、Concert Hall録音。
  • FR FC FC408 シャルル・ミュンシュ ドビュッシー・海
  • FR FC FC408 シャルル・ミュンシュ ドビュッシー・海
ドビュッシー:交響詩「海」
フランス国立放送局管弦楽団
日本コロムビア
1990-09-21