FR EMI FALP104 レオポルド・ストコフスキー ドヴォルザーク・交響曲5番
通販レコード→仏ラージドッグ銀文字フラット盤

FR EMI FALP104 レオポルド・ストコフスキー ドヴォルザーク・交響曲5番

戦争に向かって行ってはだめだ。 ― ニグロのソウル、先住民のスピリットが争いのない世界を願って荒れ狂う。第1楽章の最後に向かって、ものすごい加速がかかる「新世界」。第二次世界大戦でアメリカのオーケストラ奏者も多くが兵士になった。レコード盤では“彼の交響楽団”と表記されたが、1940年に全米の若い音楽家を選り抜いて組織した全米青年管弦楽団は、まだ経験の浅い奏者たちを率いたためか ― 細かい歌い方は奏者に任せる傾向のあるストコフスキーの録音の中でも綿密に表情をつけさせている点で ― 彼らとの録音の特色として挙げられます。また、レコード・ジャケットとラベルの表記は交響曲第5番だけど、交響曲第9番《新世界より》の方が今では一般的なので思い違いされやすい。第二次世界大戦後に4曲の交響曲が発見され、これがドヴォルザークの真作であることが分かったために番号が順送りに4つづつズレたわけですが、長年の習慣を考慮してややこしいことになったのです。《新世界より》は、つい先ごろまでは「交響曲第5番」と呼ばれておりました。ベートーヴェンの5番《運命》、チャイコフスキーの5番に、この《新世界》を並べて『5番の夕べ』などというコンサートが開かれていたほどです。世にこれほど有名な交響曲はありません。運命、未完成、新世界、悲愴。これが知名度では東西両横綱です。ステレオレコードが一般的に普及した、昭和45年頃が変わり目だと思いますが、初めてのステレオ録音となったカラヤン指揮ベルリン・フィルのLPレコードでは『交響曲第9番(5番)』とジャケット裏に印刷され、表には番号はなく《新世界より》と有るだけです。ちょっと年配の愛好家世代には9番というと、ちょっと首を傾げられます。まだ、大昔のことではないのに、9番が当たり前のようになっているのは面白いですね。更にストコフスキーは『新世界交響曲』を6回レコード録音しており、モノーラル録音で有名な1947年録音盤が有ることも間違いやすい理由と言えそうだ。さて、戦前の日本におけるストコフスキーの代表盤と言えば、「新世界」と「ハンガリアン・ラプソディ」でしょう。1937年に製作された映画「オーケストラの少女」でも使われました。この映画の大ヒットのおかげで、それまでクラシック音楽に縁のなかった多くの大衆が、その楽しさに開眼したそうです。当時の日本のレコード店には、それまで流行歌しか聞かなかったような半纏姿の丁稚さんが、このレコードを買いに押しかけて来たそうです。
ドヴォルザークの郷愁 ― 特別に音楽を熱愛し、音楽を研究すると理由でなく、卑しくも音楽に関心と興味をもっているだけでも可憐なヴァイオリン小品曲《ユモレスク》と、郷愁と哀歌に溢れた《新世界》はよく知っているだろう。その作曲者アントニン・ドヴォルザークは楽聖や、神童、天才とは無縁で、最も人間臭い存在としてチャイコフスキーやグリークと共に身近に感じられます。ドヴォルザークの名を思い浮かべて、静かに眼を閉じると、わたしは《新世界交響曲》の第二楽章ラルゴに出てくる有名な『家路』の旋律が鮮明に聴こえる心地になるのです。アメリカ滞在中のドヴォルザークが黒人の祷りの歌から暗示を得たとも、遠く故郷ボヘミアの民謡を採りいれてホームシックを慰めたとも言われる、絶え入るばかりに哀れ深い調べながら美しく、だからといって天上から降り注ぐ旋律ではなく永劫の郷愁感に聴くものは涙せずにはすまされない。ドヴォルザークの《アメリカ四重奏曲》《スラブ舞曲》《チェロ協奏曲》は優しい郷愁に彩られている。シューベルトやモーツァルトのような天才でなく、ベートーヴェンやワーグナーのような超人でなく、肩を並べあって人間愛やノスタルジーを共有しているようではないか。音楽鑑賞者は、その郷愁に聴き入って涙できるだけで良いのです。アメリカでドヴォルザークの代名詞となる10余曲が作曲された。
  • 交響曲第9番 ホ短調 作品95、B.178「新世界より」
  • 弦楽四重奏曲第12番 ヘ長調 作品96、B.179 『アメリカ』
  • 弦楽五重奏曲第3番 変ホ長調 作品97、B.180
  • アメリカ組曲 イ長調 作品98B、B.190
  • 聖書の歌( Biblické písně )作品99、B.185 ・・・グノー、チャイコフスキー、ハンス・フォン・ビューローといった優れた音楽家の訃報に触れ、さらには父親の病気を知り、1894年3月、ドヴォルザークは敬虔な歌曲集『聖書の歌』を作曲している。
  • 二重奏曲 ソナティーナ ト長調 作品100、B.183
  • ユーモレスク( Humoresky )作品101、B.187
  • テ・デウム ト長調 作品103、B.176
  • チェロ協奏曲 ロ短調 作品104、B.191
ドヴォルザークの立場 ― スメタナがビール醸造技師の息子であり、フィビフは貴族に仕える森林管理官の家庭に生まれ、日常的にはチェコ語ではなくドイツ語で生活し、チェコのフォー クロアから離れた生活をしていたことは、「進歩派」形成に少なからぬ影響を及ぼしていると推測される。これに対して、ドヴォルザークの生家は旅館を営んで おり、ツィターの名手であった父親は、旅人のために民謡や舞曲を演奏して聴かせていた。また、ドヴォルザークは肉屋の修行の過程でドイツ語を勉強している ことからも明らかなように、日々の生活ではチェコ語を話していた。こうした環境下に育った彼は、交響曲や弦楽四重奏曲といった古典的形式を用いながら、チェコ語のイントネーションに基づく主題や民族舞曲のリズムをそこに持ち込み、違和感なく構成し得たのであった。こうした中、ブラームスの目にとまった作品が「モラヴィア二重唱曲集」であったことは注目に値する。この作品は「モラヴィア」というタイトルではあるが、モラヴィア民謡の特徴はあまり強くなく、むしろボヘミア的あるいは西欧音楽的な拍節構造のはっきりした音楽にモラヴィア音楽の旋法や和声を部分的に用いた折衷的な作品である。この作品がブラームスによって西欧に紹介されたことで、彼の音楽の方向性は決定づけられた。すなわち、彼の人気作曲家としての名声を決定づけた「スラヴ舞曲」に代表されるスラヴ民謡風の主題をブラームス流の古典的な様式に織り込んだ異国趣味的な音楽を出版社や聴衆は要求し、ドヴォルザークはドゥムカなどのウクライナ民謡をも取り込み汎スラヴ主義でこれに応えた。また、後にアメリカに渡った後は、ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌に触れて自らの音楽に取り込んで見せた。こうした立場は、しかし「進歩派」には、「民謡の単なる引用と模倣」からなる「保守派」的な立場であるかに思われた。「ボヘミア楽派」と総称され、個人的にはお互いに尊敬の念を抱いてはいたものの、スメタナとドヴォルザークの音楽 上の立場は異なっていた。
幼少期 ― ドヴォルザークは、プラハの北約30kmほど、北ボヘミア、ロプコヴィツ家の本拠地のひとつであるネラホゼヴェスに生まれた。生家は肉屋と宿屋を営んでいた。父親はツィターの名手として村では評判で、簡単な舞曲を作曲して演奏することもあった。また、近所の町でやはり肉屋を経営していた伯父もトランペットの名手として知られていた。6歳で小学校に通い始めるが校長のヨゼフ・シュピッツにヴァイオリンの手ほどきを受けると見る間に上達し、父の宿屋や教会で演奏するようになった。8歳で村の教会の聖歌隊員、9歳でアマチュア楽団のヴァイオリン奏者となり、音楽的才能を見せ始める。父親は長男であったアントニンには肉屋を継がせるつもりであったため、小学校を中退させ、故郷から30kmほど離れた母方の伯父が住むズロニツェという町へ肉屋の修業に行かせた。ところが、この町の職業専門学校の校長で、当時、肉屋の技術修得書を得るためにはドイツ語が必修であった ― ドイツ語を教えていたアントニン・リーマンは、教会のオルガニストや小楽団の指揮者を務め、教会音楽の作曲も行った、典型的なカントルというべき人物で、ドヴォルザークにヴァイオリン、ヴィオラ、オルガンの演奏のみならず、和声学をはじめとする音楽理論の基礎も教えた。(仮本文、未完、未校正)
学習期 ― 1855年、ドヴォルザークの両親はネラホゼヴェスを引き払いズロニツェに移って飲食店を始めた。翌年になるとドヴォルザークはチェスカー・カメニツェという町でフランツ・ハンケという教師にドイツ語と音楽を学ぶことになった。ところが、家庭の経済状況が悪化して音楽の勉強を続けさせることが困難となり、両親は帰郷させて肉屋を手伝わせようとした。これにリーマンと伯父が反対し両親を強く説得、さらには伯父が経済的負担を負う約束で1857年にドヴォルザークはプラハのオルガン学校へ入学した。経済的には苦しい学生生活であったが、3歳年上の裕福な家庭の友人カレル・ベンドルと知り合い、楽譜を貸してもらうなどして苦学を重ね、2年後の1859年に12人中2位の成績で卒業した。この時の評価は、「おおむね実践的な才能に長けている。ただし理論に弱い」というものであった。カレル・ベンドルとの友情は卒業後も変わらず篤いものであり、ベンドルは後にドヴォルザーク作品を初演するなど援助を惜しまなかった 。(仮本文、未完、未校正)
アメリカ時代 ― 1891年春、ニューヨーク・ナショナル音楽院の創立者・理事長ジャネット・サーバーからドヴォルザークに音楽院院長職への就任依頼が届いた。ドヴォルザークに白羽の矢が立った理由は、彼がアメリカにおいても著名だったことがもちろんあろうが、それ以上にサーバー夫人がアメリカにおける国民楽派的なスタイルの音楽の確立を夢見ていたことから、チェコにおけるそれを確立した一人である ― と一般に認識されていた ― 彼を招聘することで、そのような運動の起爆剤としようとした。ドヴォルザークは、初めこれに対して辞退の意志を伝えたが、サーバー夫人の熱心な説得と高額の年俸提示に逡巡した末、同年末に契約書に署名をした。年俸15,000ドルという提示額は彼がプラハ音楽院から得ていた金額の約25倍であるし、彼はこの時13歳を頭に6人の子の扶養を行っていたのである。サーバーからは渡米後の1892年10月12日に第4回コロンブスによるアメリカ発見400年祭で演奏する新作の依頼があった。ジュゼフ・ドレイクの『アメリカの旗』という第二次米英戦争を題材にした合唱曲が当初の依頼の内容であったが、テキストの到着が遅れ代わりに作曲されたのが『テ・デウム』であった。1892年ブレーメンから船に乗り、9月27日にニュー ヨークに到着した。ドヴォルザークは街の印象をこう書いている。「ほとんどロンドンのような巨大な街だ。私が流暢な英語を話したのでみんな驚いていた」アメリカの人々はこの高名な作曲家の渡米を心から歓迎した。当時のアメリカは、音楽については新興国ではあったが、潤沢な資金でメトロポリタン・オペラやニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団、あるいはアルトゥール・ニキシュが指揮者を務めるボストン交響楽団など高い水準の演奏が行われていた。しかし、自国の音楽家育成については緒に就いたばかりで、音楽院自体がその機能を十全には果たしていない状態であった。ドヴォルザークの音楽院院長就任はこうした状況打破に対する期待を持たせるものであった。1892年10月からドヴォルザークは講義を開始した。1893年1月に着手した交響曲第9番「新世界より」は5月24日に完成するが、4月14日付けの友人宛の手紙の中でドヴォルザークは「この作品は以前のものとは大きく異なり、わずかにアメリカ風である」と書いている。この作品は、ロングフェローの『ハイアワサの歌』に多くをインスパイアされたと言われている。(仮本文、未完、未校正)
ドヴォルザークは“チェコ音楽の父”といわれたスメタナの後継者として、すでに不動の地位にあった。ニューヨークの国民音楽院の創立者ジャネット・サーバー夫人は「アメリカの国民音楽」の基礎に活かし、この音楽院の初代院長になって欲しいと。契約は2年で、1年に8ヶ月の勤務と10回の演奏会、年俸15,000ドルの好条件でニューヨークに招かれた。愛妻と6人の子供のうちの2人を連れてニューヨークの土を踏んだ。そのとき彼は、300人の大合唱と80人のオーケストラによって盛大な歓迎を受けた。ドヴォルザークがアメリカで最初に描き上げた交響曲第9番には、彼自身が《新世界より》と題名をつけました。これは新大陸から、故郷ボヘミアへという意味があり、アメリカで触れた黒人音楽や素朴なアメリカ民謡が、ボヘミアの民謡に似ていたことに感じ入ってのことでした。『もしアメリカを尋ねなかったとしたら、こうした作品は書けなかっただろう。この曲は、ボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である』とドヴォルザークは語っている。第1楽章は新大陸の夜明け、第2楽章は田園詩、ドヴォルザークの弟子フィッシャーが歌詞をつけて「家路」としてよく歌われる。第3楽章はボヘミアの農民たちが踊り狂う粗野な民族舞踊。第4楽章は蒸気機関車が動き出す重い動輪に始まって、風を切る音、ドラフトの音、シリンダーの音、吐き出す蒸気が描写され、列車がブレーキをかけて連結器をぶつける音(はじまって1分45秒あたりで全体45分の大曲中一箇所だけシンバルが、それも極めて控えめに鳴る)まで音楽にしています。(仮本文、未完、未校正)
1893年6月5日、ドヴォルザークはアイオワ州のスピルヴィルという小さな町を訪れた。この街は、ボヘミアからの入植者が住む町で、ドヴォルザークのア シスタント兼秘書を務めるヨゼフ・ヤン・コヴァジークの父親が聖歌隊長を務めていた。この街でのドヴォルザークの様子を「同国人らの中にいるという実感が祖国を思い出させるとともに、故郷にいるような感覚にさえしたようだ」とコヴァジークは回想している。そしてスピルヴィル到着の3日目には新作の弦楽四重奏曲に着手し、6月23日には速くもそれを完成させ、コヴァジーク家とドヴォルザーク家混成の弦楽四重奏団により試演された。これが「アメリカ」四重奏曲である。このような温かい雰囲気に触れたためか、ドヴォルザークはできあがったスコアを、交響曲第9番や弦楽五重奏曲変ホ長調とともに、不仲であったジム ロック社に委ねる気になった。ジムロック社はただちにこれを出版すべくブラームスに校訂を依頼し快諾を得た旨を作曲家に伝えた。ブラームスはこれに「作曲するときの楽しい様子を聞いて私がどんなにうれしく思っているか伝えてほしい」との伝言を添えて、ドヴォルザークをいたく感動させたのだった。ニューヨークに戻ったドヴォルザークには再び激務が待っていた。1894年4月には、ニューヨーク・フィルハーモニーの名誉会員に推されるという栄誉を受けた。一方、グノー、チャイコフスキー、ハンス・フォン・ビューローといった優れた音楽家の訃報に触れ、さらには父親の病気を知り、1894年3月、ドヴォルザークは敬虔な歌曲集『聖書の歌』を作曲している。この年の夏は、秋には戻り契約を2年間延長する約束で、5ヶ月間の休暇を取り、ボヘミアに帰った。チェコに着くと彼はヴィソカーの別荘に直行し、住民たちの心温まる歓迎を受け、心からくつろいだ休暇を送ることができた。同年、10月ニューヨークに 戻った彼は、強烈なホームシックに襲われ体調を崩してしまった。その一方で、このころサーバー夫人の夫(ナショナル音楽院最大のパトロンだった)が1893年恐慌のあおりを受け破産寸前に追い込まれていたことから、ドヴォルザークへの報酬も支払遅延が恒常化しつつあった。11月8日からチェロ協奏曲に着手し、翌1895年2月9日にこれを完成させるが、これが限界だった。ドヴォルザークはサーバー夫人に辞意を伝え、周囲の説得にもかかわらず、4月16日にアメリカを去ったのである。(仮本文、未完、未校正)
機関車が自分のものになるなら、今まで作曲した全作品と交換してもよい ― フランスの作曲家、オネゲルの《パシフィック231》は蒸気機関車の始動から全速力へ、加速、減速、停止までの動きを音楽で動的に描写した音楽ですが、《新世界交響曲》でも最終4楽章で、蒸気機関車が疾走します。音楽家は旅の多い職業なので交通機関を利用する機会も多く、蒸気船や蒸気機関車や黎明期の自動車に興味を持っています。その中でも、ドヴォルザークの鉄道好きは飛び抜けており、話題の種に事欠かない。ドヴォルザークが1841年(天保12年、徳川慶喜の治世。翌13年7月に日本三名園の一つ、水戸偕楽園が造園される)に生まれたプラハの北、約30キロにあるネラホゼヴェズは当時はオーストリア帝国の一部で、ドイツ連邦に属していました。大量の兵員や武器の輸送のためにドイツ連邦内で鉄道は急速に発展、ドヴォルザークが生まれて数年で生家のすぐ裏に鉄道が走ることになります。毎朝駅に散歩に行くのが日課となり、列車の車体番号を覚えるだけでなく、自宅や職場の近くの駅の時刻表や運転士の名前まで暗記して、運行と違う列車があれば車掌や運転士に質問したといいます。そればかりでなく鉄道が遅延した時は駅員の代わりにお客さんに謝って廻ったこともあり、乗車している列車の音がいつもと違うことに気づいて車掌に連絡し、故障による大事故を未然に防いだ英雄談を残します。ニューヨークに居を構えてからも、毎日、自宅からすれば音楽院とは正反対にあるセントラル駅に出掛けて、列車が通常運行されているのを確かめてから音楽院に出勤していました。自分が行けない時には、弟子のスークを駅に派遣して、蒸気機関車の車両番号を見てくるようにと言いつけます。スークはドヴォルザークの娘の婚約者で、鉄道に興味がなく炭水車の番号を覚えてきてしまい、報告を聞いて「それは違う!」と激怒したドヴォルザークは「こんな間抜けな男と結婚して大丈夫か!」と、結婚に反対するほどでした。アメリカからチェコに帰国した際には「アメリカとここでは列車の走るリズムが全く違う。これはアメリカの方がレールが長いためだろう」と語り、「本物の機関車が手に入るなら、今まで私が作ったすべての曲と交換してもかまわない」と問題発言をしています。現在ではチェコとなったプラハと、オーストリアのウィーンをつなぐ特急列車「アントニン・ドヴォルザーク」号が走っています。(仮本文、未完、未校正)
FR EMI FALP104 レオポルド・ストコフスキー ドヴォルザ…
FR EMI FALP104 レオポルド・ストコフスキー ドヴォルザ…