34-12854

商品番号 34-12854

通販レコード→仏ライト・ブラウン・グリーン黒文字盤

ミツバチのささやき ― スペインのある小さな村に『フランケンシュタイン』の巡回上映がやってくる。6歳の少女アナはスクリーン上の怪物を精霊と思い、姉から怪物は村外れの一軒家に隠れていると聞いたアナは、ある日、その家を訪れる。そこでひとりの謎めいた負傷兵と出会う。一人の少女が体験する、現実と空想の世界。ビクトル・エリセ監督長編第1作「ミツバチのささやき」は、スペイン・フランコ独裁政権下で撮影された。原題の〝EL ESPIRITU DE LA COLMENA/SPIRIT OF THE BEEHIVE〟を直訳すると、「蜂の巣の精霊」は、詩人であり劇作家のモーリス・メーテルリンクによる蜂の生活について書いた本の中から引用されている。それは蜂たちが従っているかのように見える、強力で不可思議かつ奇妙な力、そして人間には決して理解できない力を、この一文は表している。この映画が製作された1973年には、フランコ総裁による独裁政権の厳しさは当初ほどではなかったものの、未だ公に政権を批判することなどできない時代であった。そんな情勢の中、政府批判の検閲を逃れる方法をルイス・ブニュエル他スペインの芸術家達は心得ており、エリセ監督もまた作品に象徴化を多用し、メッセージを表面に出さないことで検閲局の審査を通していた。この 『ミツバチのささやき』から10年。長編第2作は、家族の中で孤独に苛まれて故郷〝エル・スール〟(スペイン語で〝南〟の意味)を捨て、北の地へ移り住んだ父親が自殺に至るまでの姿を、スペイン内戦や彼の忘れ得ぬ恋人への想いを絡め、その娘の目を通して回想するヒューマン・ドラマだった。この映画音楽として、ラヴェルやシューベルト、グラナドスなどクラシック作品が彩る。主題のように登場する「エン・エル・ムンド」は、スペインの舞曲。映画監督にはさまざまなタイプがあって、撮影中から音楽を構想しながら撮っている監督もいる。「エン・エル・ムンド」は、歌謡曲みたいな風情で映画の前半と後半の二度出てくる。主人公の父娘の思い出と別れを象徴する切ない場面で、映像の中で実際に演奏される。これが映画音楽だな、と再認識させられる。つまり、音楽は本来、言葉に出来ないなにがしかの重要な本質を担っているべきものなのじゃないかな。古来より、音楽は人々に喜怒哀楽などの複雑な感情を表す手段を与え、一つの芸術のジャンルとして万人の心を豊かにしてきた。その土地の民により伝承されてきたメロディーや楽器、歌詞などを通して、我々は各地の風土や歴史を垣間見ることができる。1940年初演のホアキン・ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」といった、日本でもよく知られる魅力ある作品も見られたが、1920~1930年代のドビッシーやラヴェルなどの近代音楽の影響下の自由な気風と、1950年代のクリストバル・ハルフテルやルイス・デ・パブロ等の現代音楽派の台頭に挟まれた1940年代の音楽は、「空白の時代」と認識されている。1936年にスペインで勃発した内戦やその後のフランコ独裁体制期の音楽事情はどのようなものであったのだろうか。ゴンザロ・ソリアーノはスペイン南東部アリカンテに生まれ、マドリードに没したアリシア・デ・ラローチャ以前のスペインを代表する名ピアニストである。ソリアーノは生まれ故郷のアリカンテでデビューするもスペイン内戦の勃発によりキャリアを中断。そして第二次世界大戦終了と同時に演奏活動を再開し、1947年には国外でもコンサートを開き、1954年には初のアメリカツアーを行った。ソリアーノといえばやはりお国物、アタウルフォ・アルヘンタとラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスの2種あるマヌエル・デ・ファリャの「スペインの夜の庭」が代表盤だが、エンリケ・グラナドスのピアノ曲も有名。本盤の《スペイン舞曲集》、それぞれの曲について、ソリアーノの演奏についても後半で一緒に解説しています。→コンディション、詳細を確認する
第2次世界大戦でドイツの作曲家、音楽家が翻弄されたが同様に、同じスペイン人でありながらも戦争で翻弄された若い音楽家たちが居た。長らく不安定な政情が続いていたスペインは、全土を巻き込んだ泥沼の内戦により荒廃し、バロック音楽で国際舞台で認知されるようになっていた「スペイン音楽」も大きな打撃を受けることになる。スペインの19世紀は、ナポレオン軍侵攻(スペイン独立戦争, 1808〜1814)と共に激動の一世紀の幕が開かれた。1812年には、最初の自由主義憲法と言われるカディス憲法が制定され、立憲君主制設立が目指されたものの、1914年、フェルナンド7世復位により絶対君主制への回帰が行われた。以後、国政は復古主義者と自由主義者間の確執により不安定な状況に陥った。リエゴ将軍による立憲革命の試みと挫折(1920〜1924)、イサベル2世下の自由主義体制の模索(1833〜1868)、第一共和政の誕生と失敗(1873〜1874)、イサベル2世を支持する自由主義派と、フェルナンド7世の弟カルロスを支持する伝統主義者間の三度にわたるカルリスタ戦争(1833〜1876)などがその例である。さらに中南米のスペイン植民地においても、スペイン独立戦争を契機に独立運動が盛んとなり、19世紀半ばまでにはキューバ、プエルトリコを除く全ての地域が独立を果たし、本国経済に深刻な打撃を与えた。このようにスペインは、イギリスやフランスと比べ一歩遅く近代国民国家への模索を開始したが、その道のりは険しいものであった。歴史的にスペインを象徴する3つの要素といえる、「王政」「カスティーリャ文化」「カトリック」と自由主義勢力が適切な距離を保ちつつ近代的国民国家を形成するのは困難で、他方、伝統主義勢力はこの三本柱を国家の軸に置いた。さらに1898年の米西戦争敗北によるキューバ、プエルトリコ、フィリピンの植民地の喪失は、スペインの凋落を決定的なものにした。バロック時代に始まった「シャコンヌ」や、「パッサカリア」は16世紀に中南米からスペイン、イタリアに伝えられた舞曲に基づき、ゆるやかな3拍子の舞曲の「サラバンド」は16世紀に中央アメリカからスペインに渡り、17~18世紀のイタリア、イギリス、フランス、ドイツで流行。「ハバネラ」は1800年頃キューバに起った、独特のゆっくりしたテンポの2拍子の舞曲で。スペインをはじめヨーロッパ諸国や中南米でも流行した。
「カスティーソなスペイン」音楽はモーツァルトの時代で進歩が止まったまま、バロック音楽の残照を引きずったままだった。イタリアオペラの人気に押された、19世紀のスペイン音楽は衰退期であり、カルロス5世やフェリペ2世の「帝国時代」の宮廷音楽の栄華は見る影もなかった。国内ではサルスエラ(スペイン歌劇)が一定の人気を保ったものの、海外での知名度は今一つであった。一方国外では、ビゼーの歌劇「カルメン」(1860)に代表されるようなロマン主義的見地によるスペイン趣味の楽曲が多く作られた。現在、バルセロナを州都とするカタルーニャは、交通の要所として古代から栄え、独自の歴史や文化を育んできた地域です。言語も、スペイン語よりもどちらかというとフランス語やイタリア語に近いといわれる「カタルーニャ語」が話されています。音楽家ではイサーク・アルベニス(1860〜1909)とエンリケ・グラナドス(1867〜1916)が生まれています。どちらもピアノ音楽の重要な作曲家で、素晴らしい作品を遺しています。アルベニスのピアノ曲の多くがスペイン、フラメンコ・ギターの要素を併せ持ち、ギターで演奏される機会も多いのが特徴ですが、アルベニスの7歳年下になるグラナドスは民族音楽の要素に加えて、ロマン的な性格が強い作品を残しています。そこに登場したマドリード育ちのマヌエル・デ・ファリャ(1876〜1946)が、いわゆる「アンダルシア風」から脱却し、スペイン音楽の新たな可能性を示す新しい音楽」を象徴する作曲家として、ユニヴァーサルで現代的な音楽として表現することに成功したのだった。ファリャはとりわけ、アンダルシアのフラメンコのカンテ・ホンドに興味を寄せ、多くの作品においてその影響を示している。1907年から1914年までパリに滞在。芸術家のサークル「アパッシュ」に参加してラヴェルと知り合う、とは別にドビュッシーとも親交を結んだ。『スペインの庭の夜』作曲中に、第一次世界大戦勃発。1914年9月に帰国して作曲した『恋は魔術師』、『三角帽子』では、民族主義と印象主義の両方がバランスよく混在している。その斬新な試みは、一般の聴衆には理解されなかったが、FET主義者の音楽評論家、ギター奏者のレヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサがデ・ファリャを「スペイン各地の音楽ルートの探究者であり、スペイン民族の気質を表現したが、その手腕はセルバンテスや十字架のヨハネらに匹敵するほどであった。」と絶賛したことも効果があって、音楽界では高く評価され、デ・ファリャの国際的名声を利用したスペイン研究所が設立されるなど、後の「新体制」建設に向けていち早く音楽のナショナリズム化を図っていたフランコ政権の政策面にも表れた。これによって、後に続く世代の作曲家は、近代スペイン音楽史におけるターニングポイントとなったデ・ファリャの作品を方向性の手本としながらも、みずからの個性を確立するため動き出す。この頃、20世紀スペインの名ピアニストとして知られたゴンサロ・ソリアーノ(Gonzalo Soriano, 1913〜1972)がスペイン南東部アリカンテに生まれている。
ナチスドイツやムッソリーニのイタリアと同様、「新スペイン」の建設を目指した独裁者フランシスコ・フランコは、音楽を含む「文化」を国民精神統合の手段とし、規制と奨励を基調とする政府主導の文化政策を実施した。この時代に好まれた作曲家はゴヤのタピストリーを下敷きとした『ゴイェスカス』(1911)のエンリケ・グラナドス、スペイン各地の民謡をモチーフにした情感溢れるピアノ組曲『イベリア』(1905〜1909)のイサーク・アルベニスや、グラナダのジプシー娘の悲恋を描いたオペラ『はかなき人生』(1905)や「火祭りの踊り」で有名なバレエ音楽『恋は魔術師』(1915)のマヌエル・デ・ファリャなどの、19世紀末から20世紀初頭に活躍した、自国の民謡や国民性を強く押し出した「スペイン的」な音楽が好まれ、ヨーロッパ前衛主義は敬遠された。この「御三家」の恩師は、「民族主義楽派の父」と評されたカタルーニャ出身の作曲家、音楽研究家であったフェリペ・ぺドレル(1841〜1922)。ペドレルは次世代の音楽家に、イタリアやフランスの影響から脱し、民族音楽は勿論のこと、ルネサンスやバロック時代の偉大なスペイン人音楽家(ビクトリア、モラレス、エンシーナやナルバレスなど)からも学ぶよう勧めた。スペイン現代史は自由主義、進歩主義の第二共和政期とファシズム、伝統主義のフランコ政権期のように、内戦を挟んで二つの異なる時代に分断されたと広く認識されがちであった。しかし、フランコ政権期における文化政策の特質は、19世紀以降のスペイン近代国民国家の成立過程の段階で活発に行われた「スペインとはなにか」というナショナルアイデンティティーの問題と密接に関係しているのが特徴であった。1939年4月1日にフランコ側の勝利で内戦は終結した。軍、政府、党、教会を掌握したフランコは、カトリックと「イスパニダー(Hispanidad, スペイン精神)」に基づいた文化政策を本格化させた。フランコは内戦終了後、直ちに「新生スペイン」の音楽政策を担わせる2つの公的音楽機関を設立した。内戦後、敗者と勝者に分断されたスペイン国民を再びフランコ「新国家」の下に統一するため、その心の拠り所としてスペイン精神を表す「イスパニダー」が注目された。ペドレルの「深遠なるスペイン性への回帰」と、「再生主義に沿った文化の近代化」という伝統と刷新の二つの理想を忠実に守った「御三家」にホアキン・トゥリーナを加えた「アンダルシア民謡風音楽」の国際的な評価は高く、政府はそれらを国民の愛国心高揚の手段とみなし奨励した。
共和政権期の1930年代のマドリードとバルセロナには、前衛主義に基づいてスペイン音楽界に新たな風を吹き込もうとする動きが見られた。マドリードではロドルフォとエルネスト・ハルフテル兄弟を中核とする8人組というグループが結成された。彼らは従来の民族主義学派から新古典主義へと進み、ヨーロッパの前衛音楽の知識やテクニックを積極的に取り入れ、スペイン音楽を刷新しようと試みた。またバルセロナでも、最初の前衛主義者と言われるロベルト・ジェラルドを中心に活動は盛んであった。しかし内戦勃発とその後のフランコの勝利により、画家のパブロ・ピカソ、チェロ奏者パブロ・カザルスらがスペインの地を後にしたのは亡命先での活動などからよく知られる。ジェラルドはロンドンへ渡り、8人組も離散、ロドルフォ・ハルフテルはメキシコ、エルネストもポルトガルへ亡命した。これによりフランスの印象主義を代表とする前衛主義とスペイン民族楽派の融合の試みは中断、スペイン音楽界は文字通り「荒野」の時代を迎えたかのように見えた。1945年第二次世界大戦が連合国側の勝利で終わると、文化を巡る状況も少しずつ変化を見せた。戦時体制の終焉とともに、コンサートや教育の現場においても軍事色が一掃され、ファシズムを連想させる独伊の文化事業は敬遠され、代わりにイギリス、フランスやアメリカのものに徐々に注目が集まった。フランコ陣営はマヌエル・デ・ファリャの愛弟子のエルネスト・ハルフテルの帰国を促し、1951年にはオスカル・エスプラがベルギーより帰国し、第二共和政期に活躍した音楽家とそのレパートリーが復活されていった。これらを背景として、1950年代前半に首都マドリードやバルセロナには、若き作曲家たちが育ちつつあった。クリストバル・ハルフテルやルイス・デ・パブロなど新しい世代の前衛音楽家が活動を開始し、彼らは「51年の世代」と呼ばれ、後のスペイン前衛音楽の牽引力と運命を背負いながら充実期を迎えようとしていた。フェデリーコ・ソペーニャがマドリード音楽院長に就任し、今後国際的に活躍できるようなスペイン音楽家養成を目指し教育内容の向上を図った。大学教育への音楽専門課程の導入がその一例で、この音楽教育の底上げは、十二音技法や電子音楽のような従来スペインにおいて聴き慣れないヨーロッパの近代音楽を受容しうる土台を形成した。加えて海外留学制度の認可は、内戦後しばらく海外とのアクセスが限られていた音楽家にとって、新しい潮流を知る機会となった。
スペインへのジャズの流入は他のヨーロッパの国と比較して遅かったが、1920年代後半からフランス、イギリス経由で入り、以後、フォックストロットなどのダンス音楽としてバルセロナやマドリードなどの大都会で流行した。バルセロナに多くのホットクラブ(ジャズ酒場)が誕生し、公共の場で男女がペアになり抱き合って踊るのを宗教的観点から非難され、当時の音楽界も、ジャズを「黒人らの」「野蛮で」「みだら」な音楽として公序良俗に反するものと決め付けた。1940年代初頭にスイングが流行すると、ジャズやダンス音楽を演奏するホールを強制的に閉鎖するのではなく、キャバレー、ダンスホール等は50%、映画館は30%、スポーツ観戦に15%が入場料に課税され、その他のサルスエラ、オペラ、演劇、サーカス等の入場料には0%が課税。税制面で他と差をつけることにより規制を図り、1942年には、黒人音楽、ダンス音楽、スイング、枢軸国を除く外国語の音楽、公共モラルに反する音楽のラジオ放送が禁止された。それでも、1943年にはバルセロナに「サロン・アマヤ」というダンスホールが誕生、スイング愛好家の社交場となった。またフレッド・アステア主演のハリウッド映画『You’ ll Never Get Rich』(1941)等の影響もあり、1940年中盤から後半にはブギウギが大ヒットし、1946年の秋にはマドリードの美術センターにて「ブギウギパーティ」が催されるようになった。電車に乗っている時レールのジョイントの音と吊革の網棚の淵に当たる音からメロディを思いつき、急ぎ駅を降り飛び込んだ喫茶店のナプキンに書いた、服部良一の「東京ブギウギ」が大ヒット。ブギウギが日本中を席巻するのも、1947年のこと。タイトルに「ブギウギ」「ブギ」「ブギー」と入れた作品は15曲ある。編曲もすべて服部による。服部は上海のジャズ・シーンや作曲家たちとの交流の中から、ジャズやブギウギを土台にして自らの音楽を作り上げていた。スペイン内戦の勃発によりキャリアを中断していた、ゴンザロ・ソリアーノは第二次世界大戦終了と同時に演奏活動を再開し、1947年には国外でもコンサートを開き、1954年には初のアメリカツアーを行った。スペインのピアニストというと思い浮かぶのは、アリシア・デ・ラローチャだが、ソリアーノは一世代上ということになるだろうか。一部には幻のピアニストといった言われ方もされたようであるが、デ・ファリャやグラナドス、モンポウらスペイン音楽のレコードで人気を博した。デ・ラローチャも内面を大切にするピアニストだったが、ソリアーノのピアノはデ・ラローチャほど鮮烈なものではないが、細やかなニュアンスを生かした表情の豊かさでは全く引けを取らないものである。そればかりか、デ・ラローチャからは得られない〝胸にジーン〟とくる瞬間を感じるところがある。ソリアーノが奏でるピアノのしんみりした情緒を、濱田滋郎評では『まろやかな哀愁』という表現を使ってあったが、それも一つの至言かも知れない。デ・ラローチャの鮮烈な音とは、胸に響く手応えがちょっと違うのだ。デ・ラローチャのソノリティは、地方色に偏らないようにバランスよく洗練味を加えて、より国際的なマーケット向きに仕上げたという感じか。ソリアーノの演奏は、デ・ラローチャよりもスペイン色濃厚だ。ソリアーノの演奏の方が表現の陰影が濃く、また中南米風リズムによる舞曲部分にも重い土俗の響きがある。その独特のリズム感に、いかにもスペインの血を感じさせる。ピアニストとして脂が乗っていた1972年4月14日、首都マドリードにおいて急逝、享年59歳。

Gonzalo Soriano ‎– Granados - Les 12 Danses Espagnoles Pour Piano

Side-A
  1. N° 1 : Minueto (ガランテ)メヌエット
  2. N° 2 : Oriental オリエンタル
  3. N° 3 : Zarabanda サラバンダ
  4. N° 4 : Villanesca ヴィリャネスカ
  5. N° 5 : Andaluza - Playera アンダルーサ〜祈り
  6. N° 6 : Rondella Aragonesa (ホタ)ロンデーリャ・アラゴネーサ
Side-B
  1. N° 7 : Valenciana ヴァレンシアーナ(カレセーラ)
  2. N° 8 : Asturiana (サルダーニャ)アストゥリアーナ
  3. N° 9 : Mazurka (ロマンティカ)マズルカ
  4. N° 10 : Danza Triste «Tonadilla» メランコリカ(悲しい踊り)
  5. N° 11 : Zambra (ボレロ)サンブラ
  6. N° 12 : Arabesca アラベスカ
民族色とロマンティシズムの色彩が相半ばしている ― 初期の出世作《スペイン舞曲集》では、作曲者が持って生まれたスペイン的な感性と独創性とが鮮やかに両立している。ピアノ音楽では、賑やかな音に力強いリズム、哀愁が濃厚に立ちこめるような旋律を持ち合わせた曲想にこそ〝スペイン風〟だと感じるところがある。ではこの曲集はどういうときに聴くのかというと、まったく陽気な雰囲気や賑やかさを求めていないときである。民族音楽らしさはもちろんあるのだが、聴くと実に心安らぐ、非常にシンプルで耳に優しいピアノのための小品ばかりだからだ。この舞曲で心躍らせようなどと思ってはならない。お上品に整えられて差し出されてくる、特徴的なリズムや異国情緒の漂う旋律を。こちらも少々清楚で優雅な雰囲気で、陽の光が差し込む窓辺で椅子に座って寛ぎながら、耳を傾ける感じが良いだろう。アルベニスと並ぶスペインの代表的な作曲家、エンリケ・グラナドス(1867〜1916)は、この作品集の一部(第1集、第1~3番のみ)を1890年4月20日にバルセロナのテアトレ・リリックにて行った自身初の公開演奏会で披露し、ピアニストとしてだけでなく、作曲家としての名声も高めた。特に同時代のフランスの作曲家ジュール・マスネは、この作品の楽譜のコピーをグラナドスから受け取った際、作曲家グラナドスを〝スペインのグリーグ〟と呼び、称賛した。グラナドスの作品の中ではこんにちよく知られており、ギター用に編曲された第5曲の〈アンダルーサ(祈り)〉が特に有名ですが、この《12のスペイン舞曲集》はピアノ音楽としても最も親しまれているスペイン音楽に数えられます。この作品は最初にグラナドスの名声を高めた出世作で、全12曲はパリに留学していた、1887~1890年にかけて作曲され、3曲ずつ4巻に分けて出版されました。12曲の各々の作品は既成のスペインの民謡のモチーフを使わずに、グラナドス独自の創作で作曲されたが、スペイン国内の音楽におけるあらゆる要素を意識していることは明らかです。第3曲〈サラバンダ〉は、バロック期の洗練されたサラバンドとは印象が異なり、フラメンコで用いられる典型的なファンダンゴのリズムを基調とし、エネルギーが漲る。そして、フラメンコのサパテアード(足打ち)や拍手のコントラティエンポ(裏打ち) が聞こえてくるような空気がこの名づけをもたらしたのだろう。作曲者自身がつけたタイトルではないが、第5曲〈アンダルーサ(祈り)〉には、スペインにおける音楽を語る上で不可欠な楽器であるギターの奏法が模倣されている。それぞれが愛らしく、喜びや悲しみを湛えたピアノによるグラナドスのモノローグ集でもある音楽です。スペインの大衆化した側面も示しており、第2曲〈オリエンタル〉は、印象深いアルペジオに乗り、哀愁を帯びたメロディーが歌われ、この曲集でも最も親しまれている作品です。〝スペイン〟は感傷的にオリエンタルと同化されています。ここで聴かれるゴンサロ・ソリアーノの崇高なまでに透明で、哀愁を持ったソノリティは見事です。第4曲〈ヴァリャネスカ〉は「村人たちの歌」のことであり、長閑な旋律に鈴の音が印象的で、牧歌的な雰囲気を持っている。オレンジの産地として有名なスペイン東海岸の町の名である第7曲〈ヴァレンシアーナ〉は躍動的で、ユーモアさと変化に富みつつも、かわいらしい。スペイン北部にあるアストゥリア地方の舞曲である第8曲〈アストゥアリーナ〉は南欧風ドビュッシーの趣きだ。第9曲〈マズルカ〉はスペインの舞曲ではありません。それでも、ポーランド的なマズルカとはやや異なり、スペインらしい、躍動感溢れる舞曲となっています。グラナドスの音楽はスペインのイメージを呼び覚ます点において、アルベニスに勝るとも劣らない繊細な色彩家である。作品は雰囲気と旋律の技術的な点で本質的にスペイン的である一方で、生来非常なロマンティストであったグラナドスは、シューマン、ショパン、グリーグらロマン主義の音楽に強い影響を受けている。グラナドスの洗練された書法は、アルベニスが情熱的なグラナダに代表される回教的スペインだとすれば、より北方のマドリードの粋で風刺精神旺盛なスペインということができる。また、印象派的な傾向ではドビュッシーからの影響も見られる。
エンリケ・グラナドスは彼の夫人と共に、愚かな戦争の犠牲者になってしまいます。ゴヤの絵に題材をとった「ゴイェスカス」は、おそらく欧米の人々がスペイン情緒を感覚的に理解するのに、もっとも貢献した作品といえるでしょう。この作品は最初はピアノのための組曲にまとめられ、その後、1911年に2幕もののオペラに改作されました。これをパリで初演しようとしたが、第一次世界大戦の勃発によって断念する。そこへ、アメリカのメトロポリタン歌劇場からニューヨークでを初演したいとの申し出があり、夫妻での列席を求められた。グラナドスは穏やかな性格だったが、船に乗ることが大嫌いだった。演奏会のためにマジョルカ島に船で渡った際、彼は船室に閉じ籠もって時計を睨んで過ごし、バルセロナに戻ったときにはもう二度と船には乗らないと友人たちに宣言したほど。 ― 船旅が嫌いなグラナドスは躊躇った末にこれを受け、1916年1月、ニューヨークでの初演は大成功となった。ウィルソン大統領の招きによりホワイトハウスで演奏会を開くことになったグラナドスは、予定していたスペインへの直行便をキャンセルしてアメリカ滞在を延長したが、これが結果的に運命を分けた。3月に入ってグラナドス夫妻は帰路につきますが、二人の乗った客船はイギリスのリバプール経由のサセックスで、3月24日、英仏海峡でドイツ軍の潜水艦による無差別魚雷攻撃を受け沈没。一時は救命ボートに救い上げられようとしたが、波間に妻アンパロの姿を見つけたと海中に身を投じ、暗い波間に消えたという。アルベニスとグラナドスのあとに登場したのが、マヌエル・デ・ファリャ(1876〜1946)です。デ・ファリャはアンダルシア地方のカディスの出身で、カディスはフェニキア人の植民都市で知られています。彼はサルスエラの作曲を手がけ、オペラ「はかない人生」で認められました。デ・ファリャは、バレエ音楽「三角帽子」や、オペラ「ペドレル親方」の作曲家として知られていますが、同時にスペインの音楽学者としての功績も残しています。彼は1939年、スペイン内戦の終結、すなわちフランコ政権の樹立を嫌ってアルゼンチンに移住しました。作品としては交響的印象「スペインの庭の夜」が有名です。彼もまたパリでドビュッシーらの音楽家と交友を結び、ドビュッシーの死を悼んで「クロード・ドビュッシーの墓碑銘のための賛歌」というギター作品を作曲しています。
DUCRETET THOMSONはジャズ、クラシック音楽のフランスのレーベルで、「デュクレテ・トムソン」と日本語表記される。「La Voix Du Monde(The Voice Of The World)」を宣伝のコピーとしていた、ラジオチューナー製作会社「デュクレテ」(1901年設立)が1950年代にレーベルを設立した。中古レコード市場ではレア扱いされているために価格が高価なレコードが多い。
  • Record Karte
  • 1956年発売。仏製棒付インナースリーブ。
  • FR  DUC  DUC 10 ソリアーノ  スペインダンス選集
  • FR  DUC  DUC 10 ソリアーノ  スペインダンス選集
20世紀のスペイン歌曲集
アンヘレス(ヴィクトリア・デ・ロス)
EMIミュージック・ジャパン
2006-11-22