FR  DGG  139 362 フィッシャー・ディースカウ&ヨッフム オルフ・「カルミナ・ブラーナ」
ドイツで最も売れた不動の定番。 ― カール・オルフの出世作《カルミナ・ブラーナ》は、その冒頭部分が映画やテレビCMで使用されたことで、現代作品としては異例なほどの人気作品となりました。1967年に録音されたこのオイゲン・ヨッフム盤は数多いこの作品中とりわけ評価の高いもので、プリミティヴな迫力という点ではいまだ他の追随を許さない絶対存在。オルフ自身が監修を務めたこともあり歴史的な価値のある今もって「カルミナ・ブラーナ」の最高の演奏として名高い録音。録音から50年を経た今でも、この曲の最高の名盤であることに依存を唱える人はまずいないでしょう。ヨッフムの代表的なアルバムで合唱を含めた声楽陣も素晴らしい。大編成ながら、その録音の精度も今でも指折りです。ドイツで最も売れたクラシックのアルバムは? ― カラヤンでもパヴァロッティでも、ましてボチェッリでもありません。それがこのヨッフムの《カルミナ・ブラーナ》です。半世紀以上も判断基準となっているので聞いていない人はいないので説明がし易い。「世俗」とはよく言ったもので、歌詞は極めて〝世俗〟的でユーモアに溢れていて、ヨッフムならではの骨太で実に颯爽とした素晴らしい演奏である。ヨッフムはドイツ音楽の権化ともいえる評価を得た指揮者で、若い頃から新しい音楽の紹介に熱心に取り組んでもいます。《カルミナ・ブラーナ》はそんなヨッフムの心を掴んだ作品の様です。複数録音し、オルフの紹介そのものにも大きく貢献しました。ここでの演奏は感極まったヨッフムの熱い心がこれ以上無いくらいのテンションで炸裂。完全にアンサンブルが破綻をきたしているナンバーもあります。しかし、百も承知の上で突き進んで行きます。結果、この《カルミナ・ブラーナ》の真髄が、正確さや表面的な美しさではなく、腹の底から歌い上げる心の叫びであることを明快に教えてくれます。
1967年10月、ベルリン the UFA-Tonstudio 録音。
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カール・オルフは子供の音楽教育プログラムに情熱を注ぎ、今ではこの分野での開祖的な扱われ方をしています。この《カルミナ・ブラーナ》は、南ドイツのボイレン修道院で作曲者が見つけた13世紀頃に書かれた歌集を下敷きに作曲された、大編成の合唱とオーケストラ、そして舞台装置付きの上演形式を想定して書かれた大がかりな作品です。この歌集は教会に出入りした様々な民衆が残した歌を綴った俗っぽい内容です。曲を構成している形式、和声、メロディー、リズムも実にシンプルなゲルマン魂の熱いものを感じさせてくれるものです。《おお、運命の女神よ》ダイナミックス・レンジも充分に大規模編成で迫力満点な全曲のプロローグにふさわしい壮烈なヴァイタリティに溢れ、一度耳にすれば容易に忘れられません。《運命の女神の与えた痛手を》と運命の女神フォルトゥナを讃える野太い合唱と、ピアノ2台を加えた大規模な打楽器群が織り成す壮烈音響が圧巻です。ここでのヨッフムは小細工抜きの剛直きわまる力押しで、作品の原始的活力を赤裸々に表現しています。《春の愉しい面ざしが》と、早春の芽吹きを思わせる軽やかな序奏に導かれ、コーラスが古代旋法に基づく神秘的なメロディを歌います。《太陽は万物を整え治める》と、デリケートな歌い口でディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウのバリトン独唱で生命の神秘を優しく歌います。《見よ、今や楽しい》と、コーラスとオーケストラでの生命賛歌。春の訪れを喜ぶ庶民的な活力が聴きもの。《踊り》は、オーケストラのみの間奏曲。民族舞踊に基づく活気あふれる音楽です。《森は花さき繁る》と《小間物屋さん、色紅をください》は、ともに村祭りのワンシーンといった趣の陽気な曲。《円舞曲》は緩・急・緩・急の4部構成による対比が聴きどころ。《たとえこの世界がみな》と、トランペットのファンファーレと爆発的な合唱で、前曲の急の部分を引き継いで始まる歓喜の歌で第1部を力強く締めくくります。《胸のうちは、抑えようもなく》と酔漢の酔いに任せた自暴自棄の歌では、フィッシャー=ディースカウ得意の性格表現が光ります。《昔は湖に住んでいた》ことを想い、酒の肴に供せられる我が身を儚む白鳥の歌。ドイツ最高の性格テノールと謳われたシュトルツェの強烈歌唱が圧巻。《わしは院長さまだぞ》でのフィッシャー=ディースカウも負けず劣らずで、その異様なまでの表現力には目を見晴らされます。《酒場に私が居るときにゃ》と男声合唱の粗暴なパワフルぶりに仰天。オペラの実演で鍛えたコーラスならではの力技が、猥雑な第2部に痛快な幕引き役を果たしています。《愛の神はどこもかしこも飛び回る》愛らしい少年合唱とソプラノ独唱(乙女)で第3部は始まります。《昼間も夜も何もかもが》乙女への思いで巡っているとバリトン(若者)が愛への憧れを、《少女が立っていた》では乙女が愛のときめきを歌い上げます。《私の胸をめぐっては》バリトンが高まる胸の内を吐露、合唱はそんな若者をそそのかすように、《もし若者が乙女と一緒に》《おいで、おいで》と囃し立て、一方、乙女は《天秤棒に心をかけて》に揺れる思いを託します。この曲はシャルロット・チャーチが取り上げたことでも知られていますが、ヤノヴィッツの美声はまた格別。《今こそ愉悦の季節》では、いよいよ若者が乙女に求愛。問答を繰り返す二人を、合唱と少年合唱までもが力強くもり立て、乙女はついに若者の愛を受け入れます。《とてもいとしいお方》は乙女の喜びを表すソプラノの超高音が聴きどころ。《アヴェ》と合唱は愛の成就を高らかに祝福します。《おお、運命の女神》で冒頭のナンバーが再び現れ、壮大な愛と命の一大スペクタクルは大団円の内に幕を閉じます。
オイゲン・ヨッフム(Eugen Jochum、1902年11月1日〜1987年3月26日)は、バーベンハウゼン生まれ。アウグスブルク音楽院でピアノとオルガンを学び、1922年よりミュンヘン・アカデミーでハウゼッガーに指揮を学ぶ。1949年にバイエルン放送交響楽団の設立に関わり、音楽監督を1960年まで務め同楽団を世界的レベルにまで育てた。演奏スタイルに派手さはなく地味ではあるが、堅固な構成力と真摯な態度、良い意味でのドイツ正統派の指揮をする。やはり本領はバッハ及びロマン派音楽と思われる。彼は音楽を自己の内心の表白と考える伝統的ドイツ人で、したがってバッハ、ブルックナー、ブラームスに於いては敬虔な詩情を迸っている感動的な名盤を生むが、モーツァルトの本質を探ろうとするほどに湧き溢れて来るがごとき心理的多彩さや、ベートーヴェンの英雄的激情、それにリヒャルト・シュトラウスの豊麗なオーケストラの饒舌を表現するには乏しい結果となっている。ヨッフムがはたして、すでに成長すべき極言まで達してしまった人なのか、それともさらに可能性が期待できるのか、いつまでも巨匠の風貌に至らないのが、好感とともに焦燥を禁じえないが、おそらく同世代のカール・ベーム、エドゥアルト・ファン・ベイヌム、ヘルベルト・フォン・カラヤンたちに比べれば個性と想像力において弱く、名指揮者にとどまるのではないかと思われた。ところが、後年のヨッフムの録音活動の活発さは目を引いた。戦前のSPでは、わずかにテレフンケンのベートーヴェンの「第7」「第9」ほどだったのと比べて、彼が晩年型の指揮者と称されることを簡易に理解できる面だろう。ベルリン放送交響楽団(1932~34年)、ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団(1934~49年)、バイエルン放送交響楽団(1949~60年)、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(1961~64年)、バンベルク交響楽団(1971~73年)とオーケストラ首席指揮者を務めた変遷を見ると、バイエルン放送響以外は短いのに気づくが、同時に2つのオーケストラを兼務することをしていないことも見て取れる。そうした、一つ一つの歴任を経て来たことは彼の律儀な性格のあらわれかも知れない。でも彼の真価が本当に発揮されるのは1970年代に入ってからで、幾つかの楽団を渡り歩いたのちの70歳代になってからである。シュターツカペレ・ドレスデンとのブルックナー交響曲全集やロンドン・フィルハーモニー管弦楽団とのブラームス交響曲全集、そしてロンドン交響楽団とのベートーヴェン交響曲全集をのこしたのもすべてこの時代である。ヨッフムは若い頃からブルックナー作品に熱心に取り組み、やがてブルックナー協会総裁も務めるなど権威としてその名を知られるようになります。交響曲全集も2度制作しているほか個別の録音も数多く存在しますが、晩年に東ドイツまで出向きシュターツカペレ・ドレスデンを指揮してルカ教会でセッション録音したこの全集は、独墺でのさまざまなヴァージョンによる演奏など、数々の経験を膨大に蓄積したヨッフム晩年の方法論が反映された演奏として注目される内容を持っています。その演奏は重厚で堂々たるスケールを持っていますが、決してスタティック一辺倒なものでは無く、十分に動的な要素にも配慮され起伏の大きな仕上がりを示しているのが特徴でもある。ベートーヴェンの交響曲も重要なレパートリーとしており、交響曲全集についてもドイツ・グラモフォン(1952〜61)、PHILIPS(1967〜69)、EMI(1976〜79)と3度にわたって制作しています。長大なキャリアの最初から最後まで、常にレパートリーのメインに据えられた重要な存在だったベートーヴェンだけにロンドン響を指揮した晩年の録音でも、味わい深い演奏を聴かせてくれています。早熟な天才指揮者ではなかったが、長く生き、途切れること無くオーケストラを相手したことで職人指揮者で終わることもなかった。