34-19332
商品番号 34-19332

通販レコード→仏ホワイト・アンド・ブルー黒文字盤 フラット[オリジナル]
明晰なタッチと透徹した造形美を誇る名演として世界的に評価の高いベートーヴェン全集 ― ピアニストとしては、明晰なタッチと透徹した造形美を誇るイーヴ・ナットがその最晩年の1953年〜55年に残した名演として世界的に評価の高いベートーヴェン全集は秀逸。演奏の素晴らしさは万人が認める通り。中期~後期は勿論、ベートーヴェンの初期のソナタ群がこれほどまでの名曲だったことに改めて気づくと思います。イーヴ・ナットはフランス人でありながら、ベートーヴェンやシューマンの曲を得意としていた。ドイツ出身の演奏家がベートーヴェンを演奏すると、どことなく力み過ぎているような印象が残るがイーヴ・ナットは優美な演奏で安定感を感じることができる。イーヴ・ナットはソロだけでなく室内楽の世界にも熱中し、ティボーやエネスコ、イザイといった巨匠たちと各地で共演を繰り広げ、作曲家の意図する核心に迫り続けていました。ナットのベートーヴェンはこうした室内楽で培った経験の集大成。とても思索的、内省的なベートーヴェンですが、ドイツ系の奏者シュナーベルやバックハウスと違ってギリギリで抑制の利いた造形感覚が素晴らしいと思います。極めて洗練された優美なベートーヴェンです。音質もほとんどがモノラル後期のものだけに聴きやすい水準にあり、幸いな事は録音技師にアンドレ・シャルランを迎えた事でモノーラルでありながら、そのピアノの音は瑞々しく気品があり現在聴いても全く古臭さを感じさせないどころか優秀録音です。
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イーヴ・ナット(YVES NAT)の名は、今日でこそ遠いものになってしまったが戦前はマルグリート・ロン、アルフレード・コルトー、古くはインドール・フィリップらと共に世界に、その名をうたわれたフランスのピアニストであった。不幸にして働き盛りの40歳代に身体を壊し、戦中から戦後へと療養の生活を余儀なくされた。しかし、戦後まもなく元気になり再び第一線に姿を現し、演奏に録音に教育に《パリ・コンセルヴァトワール》帰り咲いたかにみえたのも束の間、再び病を得て1959年9月1日惜しまれつつ、この世を去ったのであった。時に66歳、芸術家として最も円熟した時期のことであった。彼は1890年生まれ、前述の演奏家の中では最も若くフィリップやドビュッシーとは3世代、ロンやラヴェルとは2世代、そしてコルトーとは10年の差がある。彼は葡萄酒の産地として名高い南フランスは、もうスペインに近いベジェの旧家に生まれた。長じてパリのコンセルヴァトワールにはいり、ピアノをルイ・ディエメ(1843〜1919)に学んだ。ディエメは有名な批評家のハンスリックから“極めて繊細で優雅な芸術家”と賛えられた名演奏家であり、その弟子で日本にも良く知られたラザール・レヴィによれば「彼の演奏の驚くほどの正確さ、伝説的とも言えるトリル、スタイルの精妙さは彼をして、我々のすべてが尊敬する偉大なピアニスト足らしめた」ということである。ディエメは演奏家として多くの初演を手がけ、その中にはフランクの有名な交響変奏曲なども含まれているが、教師としても優れた弟子に恵まれ、アルフレード・コルトー、マルセル・シアンピ、ラザール・レヴィ、ロベール・カサドシュ、そしてイーヴ・ナットと、のちにフランスのピアノ界の主流となった人たちをその門下から輩出させている。“彼はおそらく、フランスのピアノ界の歴史の中でも最も完成したテクニシャンであったろう”と言われるほどの名手であった、この師ディエメから出てコルトーは、やがて独自の道を歩むようになり自由で奔放で、幻想的でブリリアントな彼独特の世界を作るようになる。同じ頃ロン女史も独特のスタイルで活躍しており、戦前はそういった華麗な人達の姿ばかりがレコード・ジャーナリズムを通じて日本に知られてきたため、フランスのピアニズムの持つ極めて合理的で正確なテクニックの伝統という一面は一時、私たちの前にも影が薄い存在になっていた。しかしフランスのピアニズムの真骨頂はなんといっても、その合理的なテクニックから生まれる音の美しさである。1955年に日本人として初めてショパン・コンクールに入賞した若き田中希代子が持って帰って我々に聴かせた音がこれだった。彼女の天分に加わうるに師ラザール・レヴィのメソードによる指導で、素晴らしいピアノの世界が彼女のものになっていた。ピアニッシモからフォルティッシモまで、正確な打弦から生まれる美しいトーン・プロダクション …… 。
コルトーが独自の幻想的な道を歩いて行ってしまった大家であったのに対してイーヴ・ナットのピアノの世界は、まさにこのフランス的な素晴らしいトーン・プロダクションの技術の上にしっかりと根を張ったものであり、その上に独特の世界を築いて行ったものである。ことテクニックに関する限り、彼にはコルトーや、その弟子のサンソン・フランソワに見られるような、流れやすい演奏ではなく堅固で鉄壁の楷書の世界がある。そして私が思うにナットのピアノの本質的な美しさは、またそこにある。彼は良くシューマンを弾いたが、その場合でもシューマンの文学的世界にまず没入する ― 19世紀ドイツ的方法 ― のではなく、音楽の構造を読み、次にその譜を如何にして美しい音楽にするかを考え、そのためにはどんなテクニックが必要かを考えるように、音楽的にピアニスティックに考える ― プロセスで出来た結果をシューマンの世界に結びつけていくようにして十分に“音楽”が出来上がれば、それ自体がシューマンの音楽と別物になるはずはないのである。溺れる前に音楽を掴む ― ナットの世界であり美である。かといって彼が無味乾燥な非情意的人間であったろうか。ナットが終世そのレパートリーとしたのはベートーヴェンを手本とした、ブラームス、フランクなどというロマンティックな音楽である。彼がそれらの音楽を弾く時、かけがえのない幻想的な“詩人の魂”が聞こえてくるのである。イーヴ・ナットは1890年12月29日、南フランスのベジエに生まれ、1956年8月31日にパリで没したピアニスト。幼い頃から楽才をあらわしたナットは10歳のときに、自作の『オーケストラのためのファンタジー』を指揮、それを聴いたサン=サーンスとフォーレからパリ音楽院で勉強することを薦められ、同音楽院に学んで1907年にはピアノ・クラスで首席を獲得して卒業するという早熟の天才ですが、その後、コルトーやカサドシュ、シャンピ、レヴィといった名ピアニストの師としても知られるルイ・ディエメールに師事してさらにピアノの研鑽を積みます。1909年にはドビュッシーに連れられてのイギリス楽旅を皮切りに、以降ヨーロッパや南北アメリカを含む国際的な演奏旅行を行い活躍を開始しました。特にベートーヴェンやシューマンの演奏で高く評価され、最初はソロだけでなく室内楽の世界にも熱中しヴァイオリニストのジャック・ティボーやジョルジュ・エネスコ、ウジェーヌ・イザイといった巨匠たちと各地で頻繁に共演を繰り広げます。1934年からはパリ音楽院教授に就任し、教育と自らの作曲活動に注力するため、演奏家としての活動をほとんどおこなわなくなりますが、1950年代、ピアノの演奏活動を再開、晩年における不朽の名録音 ― 本盤を含む、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲録音 ― を残しました。ベートーヴェンの創作活動において、ピアノ・ソナタは最も重要なジャンルの一つ。19世紀前半におけるピアノという楽器の発展の中で、彼はピアノ音楽の新しい表現方法を追求しました。“ピアノの新約聖書”と称される32曲のピアノ・ソナタは、ピアニストのみならず、ピアノに関わる全ての人間にとって避けて通ることができない、今なお燦然と輝く存在です。
《第25番》は『テレーゼ』と同時期に作曲された小さなソナタ。ピアノ学習者は比較的初期の段階で必ず通る楽曲で、第1楽章にカッコーの鳴き声が聞こえることから『カッコー・ソナタ』とも呼ばれています。3楽章を通しても10分以内。洗練された美しさをたたえた佳曲です。1809年春にナポレオン軍はウィーンを包囲。ベートーヴェンの弟子でもある強力な庇護者ルドルフ大公はウィーンを離れることになりました。同年冬にフランス軍が撤退し、翌年1月に大公はウィーンに帰郷。この曲は大公のこのような経緯のもとで作曲され、第1楽章「告別」、第2楽章「不在」、第3楽章「再会」と題され、ルドルフ大公に献呈されました。冒頭アダージョの3つの音符に「告別 Lobewohl 」の言葉が付けられ、この動機は第1楽章のいたるところに現れます。時は流れ、ナポレオン率いるフランス軍敗北の結果、ウィーン会議が開催された1814年。ヨーロッパが大きな転換を迎える中、ベートーヴェンの名声は高まりますが、作曲はスランプを迎えます。前作のソナタ『告別』から4年。そんな中で生み出された《第27番》のソナタは、速いテンポの2つの楽章から構成され、発想表記には通常のイタリア語ではなくドイツ語を使いました。第2楽章の長いスラー ― なめらかに ― が付された歌謡的旋律は、後のシューベルトにも影響を与えたと言われています。なおこの曲は、ウィーン会議の英国代表に『ウェリントンの勝利』の報酬支払いを働きかけてもらった返礼として、モーリッツ・リヒノフスキー伯爵に献呈されました。《第28番》は、1816年に作曲。まさに孤高の境地に達するベートーヴェン後期のスタイルを持った最初のピアノ・ソナタです。3楽章構成で、第1楽章のきわめて自由な形式の中で漂う夢のような美しい音楽が必見。第2楽章は三部形式の行進曲風幻想曲、第3楽章は弱音ペダルによる寂寥感をたたえた序奏を経て堂々としたソナタ形式で展開します。
イーヴ・ナットは幸いな事にLPレコードの時代まで生きていてくれたSPレコード時代の巨匠でありながら、LPレコードのための幾つかの録音を遺している。それらはいずれもディスコフィル・フランセによるLPレコード黎明期のものとは思えないほどに良く録音されていて、不満を感じさせること無く稀代の巨匠の生前の音の美しさを偲ばせてくれる。1952年頃にはコンサート・ピアニストとして本格的に復帰し、演奏会や録音活動に精力を注ぎ、亡くなるまでの数年間に数々の傑作を残します。作曲家としてのナットは、ピアノ協奏曲やピアノ曲、室内楽、オラトリオ、歌曲などを書いており、中でも1954年に書かれたピアノ協奏曲は高い評価を得ていたようです。ピアニストとしては、明晰なタッチと透徹した造形美を誇る名演として世界的に評価の高いベートーヴェン全集や、シューマン作品集が有名ですが、ブラームスやショパンでもそうした持ち味は良く生かされています。特にペダル演奏の技術のうまさは絶品で、ロマン派の音楽を弾く時には重要だ。ペダルを次の和音にかぶせながら、決して音を濁さないで余韻を生み出して行く。それは魔術に近いうまさであった。彼の衣鉢はピエール・サンカンが継いでおり、井口基成氏とその一門に継がれているわけであるが、日本では華やかで綺麗で洒落たのがフランス音楽と誤解される傾向にあるが、ピアノというものの真髄を伝える、端正で剛直である彼の演奏のレコードが少しでも市場に送り出されてピアノ愛好家の耳に達するようになることを、1ファンとして願いたいものである。
第25番(1954年5月5日)、第26番《告別》(1954年5月3日)、第27番(1954年6月)、第28番(1954年6月14日)パリ、Salle Adyar 録音。
FR DF DF125 イヴ・ナット ベートーヴェン・ピアノソナタ …
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