34-15161

商品番号 34-15161

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引用の音楽〜20世紀作曲家の試み ― ベネズエラで生まれ、アメリカで活躍する若手ピアニスト、ヴァネッサ・ペレスは、2012年にTelarcからリリースした「ショパン:前奏曲集」の作品集が〝ワシントン・ポスト〟紙などで高く評価され、一躍世界的に注目を浴びました。彼女は11歳でグリーグのピアノ協奏曲を演奏してデビューしましたが、2004年にカーネギーホールにデビューした時のプログラムは、クラシック作品ではなくラテン・ジャズ。ベネズエラ民謡をフィーチャーしたこの時の演奏も、聴衆たちを熱狂させたといいます。 2016年にリリースした彼女の「スペイン」と題された1枚は、ドビュッシーとデ・ファリャの作品が巧みに組み合わされたもので、情熱的なリズムと七色の色彩が溢れる、スタイリッシュで大胆な演奏が楽しめました。この夏、日本人男性クラシック・ピアニストとしては史上初の武道館単独公演が大盛況でバブル到来している、マルチピアニストの清塚信也が「音楽は言語の垣根を超える」をもじって、〝J-POPとクラシック音楽には垣根がある〟として、J-POPはテンポが一定で、それがグルーヴ感を生んでいる。対して、クラシック音楽ではテンポは揺らがないといけない、と見本演奏をして、テンポの取り方の相違を教えてくれていました。20世紀前半におけるスペインの偉大な作曲家マヌエル・デ・ファリャは、1876年11月23日カディスに生まれた。はやくから親にピアノを習い、またその地の教師たちから和声等を学んだが、17歳の時に初めてオーケストラの演奏に接して感動し、作曲家への道を志すようになった。その後、スペイン国民主義音楽の師と呼ばれるフェリーペ・ペドレルの指導を受けて、その道をこともなく達成した。そして、1905年に歌劇〈はかない人生〉によってマドリード音楽院の歌劇賞を受け。また、同じ年にピアノ・コンクールでも1等賞に入賞して、作曲家、ピアニストの彼方に、輝かしい第一歩を踏み出したのである。1907年、あこがれのパリに赴いた彼は、そこで、ドビュッシー、デュカス、ラヴェル、アルベニスといった作曲家たちと親交を経て自己の才能と技法とに一段と洗練を加えた。そうしたパリでの修練の結晶が、帰国後発表された1915年の〈恋は魔術師〉や〈スペインの庭の夜〉であり、やがて、それらは、〈三角帽子〉(1917年)や〈ペードロ親方の人形芝居〉(1923年)、そして〈クラヴサン協奏曲〉(1926年)などの傑作に結びつくのである。このデ・ファリャは、たんにひとりの民族主義的な作曲家としても、その素材を広く求める態度をとっていたが、フランス印象派の影響や新古典的傾向などもその過程において示しており、その作品には、かなり多彩なものをみせているが、それらについて一貫していえることは、彼が、楽器処理に基づく音色や音質において極めて優れた技法と感覚との持ち主であったということを、その音楽に、常に人をひきつけずにはおかない魅力を備えていたということであり、それがまた、彼の位置を不動なものとしたばかりではなく、その後のスペインの楽壇に影響を与え、やがて世界の注目をもたらす原動力ともなったのである。デヴィッド・ジョゼフォヴィッツはイギリスの指揮者で、ロンドン・ソリスト室内管弦楽団の創立者。ベルリンのクリンドワース・シャーウェンカ音楽院でヴァイオリンも学んだ、熟練したヴァイオリニストでもあり、ホセ・ダビドの名義で演奏して録音していました。マサチューセッツ工科大学で化学を学んだプラスチックの専門家であり、ニューヨーク大学タンドンスクールの一部であるブルックリン工科大学で、1945年に化学の博士号を取得しました。1946年に、サミュエル・ジョゼフォヴィッツとともに兄弟で、ニューヨーク市に本拠を置く〝Concert Hall レーベル〟を創設して、自身で多くの管弦楽曲のレコーディングを遺したほか、同レーベルのプロデューサーとして活躍しました。世界有数の音楽学校の1つで、1822年に創立された英国王立音楽院は、長い歴史と実績に裏付けられた伝統を重視。加えて、現代の音楽家に要求 される、新しい技術や知識を身につけるためのカリキュラムも組んでいます。卒業生には、ヘンリー・ウッドやエルトン・ジョンなど、著名な音楽家をはじめ、サイモン・ラトル(指揮)、マイケル・ナイマン(作曲)、リチャード・ロドニー・ベネット(作曲)、クリストファー・モルトマン(声楽)、ルステム・ハイルディノフ(ピアノ)、シモーネ・ラムスマ(ヴァイオリン)、日本人では、三浦友理枝(ピアノ)、熊本マリ(ピアノ)など、多くの優れたソリスト、オーケストラ や室内楽での演奏家、指揮者、作曲家を輩出しています。ロンドンの中心地リージェンツ・パークに隣接する便の良い場所にキャンパスでは、収容450席のデュカス・ホール、2001年に完成したデヴィッド・ジョセフォヴィッツ・リサイタル・ホールなど、素晴らしい演奏の場が待っています。本盤、バレエ音楽「恋は魔術師」での、キャロル・スミス(1926b)はアメリカのメゾソプラノ歌手。オペラと歌曲の両方で幅広く活動、後年はチューリッヒやインディアナで教鞭を執っていました。「スペインの庭の夜」での、ピエール・バルビゼ(1922〜90)はフランスのピアニスト。クリスチャン・フェラスの伴奏者として有名です。フランス・プレスの本盤、なかなか鮮明な録音で楽しめた、レアな1枚です。→コンディション、詳細を確認する
作曲家と同じ時代の空気を吸った若い音楽家たちはスペイン内戦に翻弄された。 ― 第2次世界大戦でドイツの作曲家、音楽家が翻弄されたが同様に、同じスペイン人でありながらも戦争で翻弄された若い音楽家たちが居た。1930年代は、世界全体が不穏な方向へと大きく舵をきった時代である。1936年のスペイン。日本で言えば昭和11年、真っ白い東京の中枢部を血染めにした2・26事件が勃発したのだったが、この年の7月17日、かねてからの噂の通り、スペイン領モロッコにおいてスペイン正規軍が共和政府に対して軍事クーデターを起こした。こうした軍部の不穏な動静をいち早く察知した社会労働党系の労働総同盟、アナキスト系の国民労働組合などの組合員、さらに市制の民衆までもが武力亭をした。市井の民衆までもが武力抵抗をした。「羊のごとく従順でおとなしい」と見下されていた国民が叛乱軍の行く手に立ちはだかったのだ。彼らの、抵抗のスローガンは「ノー・パサラン(¡No pasarán!, 彼らを通すな)!」。これこそ民衆の側からの「7月革命」であった。終始劣勢を強いられつつ、共和国陣営は最後の土壇場まで抵抗した。マドリードを陥落して、フランコ将軍が勝利宣言した1939年4月1日にスペイン内戦が終息したが、その5ヶ月後の9月1日、ドイツ軍のポーランド電撃的侵攻を導いた。スペイン内戦が「第2次世界大戦の前哨戦」といわれている由縁である。長らく不安定な政情が続いていたスペインは、全土を巻き込んだ泥沼の内戦により荒廃し、国際舞台で認知されるようになっていた「スペイン音楽」も大きな打撃を受けることになる。「カスティーソなスペイン」音楽はモーツァルトの時代で進歩が止まったまま、バロック音楽の残照を引きずったままだった。そこに登場したマヌエル・デ・ファリャが、いわゆる「アンダルシア風」から脱却し、スペイン音楽の新たな可能性を示す新しい音楽」を象徴する作曲家として、ユニヴァーサルで現代的な音楽として表現することに成功したのだった。その斬新な試みは、一般の聴衆には理解されなかったが、音楽界では高く評価され、近代スペイン音楽史におけるターニングポイント的作品となった。これによって、後に続く世代の作曲家は、デ・ファリャを方向性の手本としながらも、みずからの個性を確立するため動き出す。このころ首都マドリードには、そんな運命を背負いながら充実期を迎えようとしていた、若き作曲家たちが育ちつつあった。
第2次世界大戦でドイツの作曲家、音楽家が翻弄されたが同様に、同じスペイン人でありながらも戦争で翻弄された若い音楽家たちが居た。長らく不安定な政情が続いていたスペインは、全土を巻き込んだ泥沼の内戦により荒廃し、バロック音楽で国際舞台で認知されるようになっていた「スペイン音楽」も大きな打撃を受けることになる。スペインの19世紀は、ナポレオン軍侵攻(スペイン独立戦争, 1808〜1814)と共に激動の一世紀の幕が開かれた。1812年には、最初の自由主義憲法と言われるカディス憲法が制定され、立憲君主制設立が目指されたものの、1914年、フェルナンド7世復位により絶対君主制への回帰が行われた。以後、国政は復古主義者と自由主義者間の確執により不安定な状況に陥った。リエゴ将軍による立憲革命の試みと挫折(1920〜1924)、イサベル2世下の自由主義体制の模索(1833〜1868)、第一共和政の誕生と失敗(1873〜1874)、イサベル2世を支持する自由主義派と、フェルナンド7世の弟カルロスを支持する伝統主義者間の三度にわたるカルリスタ戦争(1833〜1876)などがその例である。さらに中南米のスペイン植民地においても、スペイン独立戦争を契機に独立運動が盛んとなり、19世紀半ばまでにはキューバ、プエルトリコを除く全ての地域が独立を果たし、本国経済に深刻な打撃を与えた。このようにスペインは、イギリスやフランスと比べ一歩遅く近代国民国家への模索を開始したが、その道のりは険しいものであった。歴史的にスペインを象徴する3つの要素といえる、「王政」「カスティーリャ文化」「カトリック」と自由主義勢力が適切な距離を保ちつつ近代的国民国家を形成するのは困難で、他方、伝統主義勢力はこの三本柱を国家の軸に置いた。さらに1898年の米西戦争敗北によるキューバ、プエルトリコ、フィリピンの植民地の喪失は、スペインの凋落を決定的なものにした。バロック時代に始まった「シャコンヌ」や、「パッサカリア」は16世紀に中南米からスペイン、イタリアに伝えられた舞曲に基づき、ゆるやかな3拍子の舞曲の「サラバンド」は16世紀に中央アメリカからスペインに渡り、17~18世紀のイタリア、イギリス、フランス、ドイツで流行。「ハバネラ」は1800年頃キューバに起った、独特のゆっくりしたテンポの2拍子の舞曲で。スペインをはじめヨーロッパ諸国や中南米でも流行した。
「カスティーソなスペイン」音楽はモーツァルトの時代で進歩が止まったまま、バロック音楽の残照を引きずったままだった。イタリアオペラの人気に押された、19世紀のスペイン音楽は衰退期であり、カルロス5世やフェリペ2世の「帝国時代」の宮廷音楽の栄華は見る影もなかった。国内ではサルスエラ(スペイン歌劇)が一定の人気を保ったものの、海外での知名度は今一つであった。一方国外では、ビゼーの歌劇「カルメン」(1860)に代表されるようなロマン主義的見地によるスペイン趣味の楽曲が多く作られた。現在、バルセロナを州都とするカタルーニャは、交通の要所として古代から栄え、独自の歴史や文化を育んできた地域です。言語も、スペイン語よりもどちらかというとフランス語やイタリア語に近いといわれる「カタルーニャ語」が話されています。音楽家ではイサーク・アルベニス(1860〜1909)とエンリケ・グラナドス(1867〜1916)が生まれています。どちらもピアノ音楽の重要な作曲家で、素晴らしい作品を遺しています。アルベニスのピアノ曲の多くがスペイン、フラメンコ・ギターの要素を併せ持ち、ギターで演奏される機会も多いのが特徴ですが、アルベニスの7歳年下になるグラナドスは民族音楽の要素に加えて、ロマン的な性格が強い作品を残しています。そこに登場したマドリード育ちのマヌエル・デ・ファリャ(1876〜1946)が、いわゆる「アンダルシア風」から脱却し、スペイン音楽の新たな可能性を示す新しい音楽」を象徴する作曲家として、ユニヴァーサルで現代的な音楽として表現することに成功したのだった。ファリャはとりわけ、アンダルシアのフラメンコのカンテ・ホンドに興味を寄せ、多くの作品においてその影響を示している。1907年から1914年までパリに滞在。芸術家のサークル「アパッシュ」に参加してラヴェルと知り合う、とは別にドビュッシーとも親交を結んだ。『スペインの庭の夜』作曲中に、第一次世界大戦勃発。1914年9月に帰国して作曲した『恋は魔術師』、『三角帽子』では、民族主義と印象主義の両方がバランスよく混在している。その斬新な試みは、一般の聴衆には理解されなかったが、FET主義者の音楽評論家、ギター奏者のレヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサがデ・ファリャを「スペイン各地の音楽ルートの探究者であり、スペイン民族の気質を表現したが、その手腕はセルバンテスや十字架のヨハネらに匹敵するほどであった。」と絶賛したことも効果があって、音楽界では高く評価され、デ・ファリャの国際的名声を利用したスペイン研究所が設立されるなど、後の「新体制」建設に向けていち早く音楽のナショナリズム化を図っていたフランコ政権の政策面にも表れた。これによって、後に続く世代の作曲家は、近代スペイン音楽史におけるターニングポイントとなったデ・ファリャの作品を方向性の手本としながらも、みずからの個性を確立するため動き出す。
アドルフ・ヒットラーのナチス・ドイツやベニート・ムッソリーニのイタリアと同様、「新スペイン」の建設を目指した独裁者フランシスコ・フランコは、音楽を含む「文化」を国民精神統合の手段とし、規制と奨励を基調とする政府主導の文化政策を実施した。この時代に好まれた作曲家はゴヤのタピストリーを下敷きとした『ゴイェスカス』(1911)のエンリケ・グラナドス、スペイン各地の民謡をモチーフにした情感溢れるピアノ組曲『イベリア』(1905〜1909)のイサーク・アルベニスや、グラナダのジプシー娘の悲恋を描いたオペラ『はかなき人生』(1905)や「火祭りの踊り」で有名なバレエ音楽『恋は魔術師』(1915)のマヌエル・デ・ファリャなどの、19世紀末から20世紀初頭に活躍した、自国の民謡や国民性を強く押し出した「スペイン的」な音楽が好まれ、ヨーロッパ前衛主義は敬遠された。この「御三家」の恩師は、「民族主義楽派の父」と評されたカタルーニャ出身の作曲家、音楽研究家であったフェリペ・ぺドレル(1841〜1922)。ペドレルは次世代の音楽家に、イタリアやフランスの影響から脱し、民族音楽は勿論のこと、ルネサンスやバロック時代の偉大なスペイン人音楽家(トマス・ルイス・デ・ビクトリア、クリストバル・デ・モラレス、ホアン・デル・エンシーナやルイス・デ・ナルバレスなど)からも学ぶよう勧めた。スペイン現代史は自由主義、進歩主義の第二共和政期とファシズム、伝統主義のフランコ政権期のように、内戦を挟んで二つの異なる時代に分断されたと広く認識されがちであった。しかし、フランコ政権期における文化政策の特質は、19世紀以降のスペイン近代国民国家の成立過程の段階で活発に行われた「スペインとはなにか」というナショナルアイデンティティーの問題と密接に関係しているのが特徴であった。1939年4月1日にフランコ側の勝利で内戦は終結した。軍、政府、党、教会を掌握したフランコは、カトリックと「イスパニダー(Hispanidad, スペイン精神)」に基づいた文化政策を本格化させた。フランコは内戦終了後、直ちに「新生スペイン」の音楽政策を担わせる2つの公的音楽機関を設立した。内戦後、敗者と勝者に分断されたスペイン国民を再びフランコ「新国家」の下に統一するため、その心の拠り所としてスペイン精神を表す「イスパニダー」が注目された。ペドレルの「深遠なるスペイン性への回帰」と、「再生主義に沿った文化の近代化」という伝統と刷新の二つの理想を忠実に守った「御三家」アルベニス、グラナドス、デ・ファリャにホアキン・トゥリーナを加えた「アンダルシア民謡風音楽」の国際的な評価は高く、政府はそれらを国民の愛国心高揚の手段とみなし奨励した。
共和政権期の1930年代のマドリードとバルセロナには、前衛主義に基づいてスペイン音楽界に新たな風を吹き込もうとする動きが見られた。マドリードではロドルフォとエルネスト・ハルフテル兄弟を中核とする8人組というグループが結成された。彼らは従来の民族主義学派から新古典主義へと進み、ヨーロッパの前衛音楽の知識やテクニックを積極的に取り入れ、スペイン音楽を刷新しようと試みた。またバルセロナでも、最初の前衛主義者と言われるロベルト・ジェラルドを中心に活動は盛んであった。しかし内戦勃発とその後のフランコの勝利により、画家のパブロ・ピカソ、チェロ奏者パブロ・カザルスらがスペインの地を後にしたのは亡命先での活動などからよく知られる。ジェラルドはロンドンへ渡り、8人組も離散、ロドルフォ・ハルフテルはメキシコ、エルネストもポルトガルへ亡命した。これによりフランスの印象主義を代表とする前衛主義とスペイン民族楽派の融合の試みは中断、スペイン音楽界は文字通り「荒野」の時代を迎えたかのように見えた。1945年第二次世界大戦が連合国側の勝利で終わると、文化を巡る状況も少しずつ変化を見せた。戦時体制の終焉とともに、コンサートや教育の現場においても軍事色が一掃され、ファシズムを連想させる独伊の文化事業は敬遠され、代わりにイギリス、フランスやアメリカのものに徐々に注目が集まった。フランコ陣営はマヌエル・デ・ファリャの愛弟子のエルネスト・ハルフテルの帰国を促し、1951年にはオスカル・エスプラがベルギーより帰国し、第二共和政期に活躍した音楽家とそのレパートリーが復活されていった。これらを背景として、1950年代前半に首都マドリードやバルセロナには、若き作曲家たちが育ちつつあった。クリストバル・ハルフテルやルイス・デ・パブロなど新しい世代の前衛音楽家が活動を開始し、彼らは「51年の世代」と呼ばれ、後のスペイン前衛音楽の牽引力と運命を背負いながら充実期を迎えようとしていた。フェデリーコ・ソペーニャがマドリード音楽院長に就任し、今後国際的に活躍できるようなスペイン音楽家養成を目指し教育内容の向上を図った。大学教育への音楽専門課程の導入がその一例で、この音楽教育の底上げは、十二音技法や電子音楽のような従来スペインにおいて聴き慣れないヨーロッパの近代音楽を受容しうる土台を形成した。加えて海外留学制度の認可は、内戦後しばらく海外とのアクセスが限られていた音楽家にとって、新しい潮流を知る機会となった。
スペインへのジャズの流入は他のヨーロッパの国と比較して遅かったが、1920年代後半からフランス、イギリス経由で入り、以後、フォックストロットなどのダンス音楽としてバルセロナやマドリードなどの大都会で流行した。バルセロナに多くのホットクラブ(ジャズ酒場)が誕生し、公共の場で男女がペアになり抱き合って踊るのを宗教的観点から非難され、当時の音楽界も、ジャズを「黒人らの」「野蛮で」「みだら」な音楽として公序良俗に反するものと決め付けた。1940年代初頭にスイングが流行すると、ジャズやダンス音楽を演奏するホールを強制的に閉鎖するのではなく、キャバレー、ダンスホール等は50%、映画館は30%、スポーツ観戦に15%が入場料に課税され、その他のサルスエラ、オペラ、演劇、サーカス等の入場料には0%が課税。税制面で他と差をつけることにより規制を図り、1942年には、黒人音楽、ダンス音楽、スイング、枢軸国を除く外国語の音楽、公共モラルに反する音楽のラジオ放送が禁止された。それでも、1943年にはバルセロナに「サロン・アマヤ」というダンスホールが誕生、スイング愛好家の社交場となった。またフレッド・アステア主演のハリウッド映画『You’ ll Never Get Rich』(1941)等の影響もあり、1940年中盤から後半にはブギウギが大ヒットし、1946年の秋にはマドリードの美術センターにて「ブギウギパーティ」が催されるようになった。電車に乗っている時レールのジョイントの音と吊革の網棚の淵に当たる音からメロディを思いつき、急ぎ駅を降り飛び込んだ喫茶店のナプキンに書いた、服部良一の「東京ブギウギ」が大ヒット。ブギウギが日本中を席巻するのも、1947年のこと。タイトルに「ブギウギ」「ブギ」「ブギー」と入れた作品は15曲ある。編曲もすべて服部による。服部は上海のジャズ・シーンや作曲家たちとの交流の中から、ジャズやブギウギを土台にして自らの音楽を作り上げていた。
イサーク・アルベニスとエンリケ・グラナドスのあとに登場したのが、マヌエル・デ・ファリャ(Manuel de Falla y Matheu, 1876〜1946)です。デ・ファリャはアンダルシア地方のカディスの出身で、カディスはフェニキア人の植民都市で知られています。彼はサルスエラの作曲を手がけ、オペラ「はかない人生」で認められました。デ・ファリャは、バレエ音楽「三角帽子」や、オペラ「ペドレル親方の人形芝居」の作曲家として知られていますが、同時にスペインの音楽学者としての功績も残しています。彼は1939年、スペイン内戦の終結、すなわちフランコ政権の樹立を嫌ってアルゼンチンに移住しました。作品としては交響的印象「スペインの庭の夜」が有名です。彼もまたパリでドビュッシーらの音楽家と交友を結び、ドビュッシーの死を悼んで〈クロード・ドビュッシーの墓碑銘に捧げる讃歌〉というギター作品を作曲しています。それまで専らギタリスト兼作曲家によって書かれていたクラシックギター・ソロのための作品は、20世紀に入ると、アンドレス・セゴビアやジュリアン・ブリームなど世界的に活躍したギタリストたちの働きかけによって、非ギタリストの著名作曲家による作品が次々と生み出されました。〈ドビュッシーの墓碑銘に捧げる讃歌〉はイギリスの巨匠ブリームの得意レパートリーでもありましたが、現在演奏されているギター作品のうち、20世紀以降の非ギタリストに作曲されたものはとても大きな割合を占めています。フランシスコ・タレガの弟子でセゴビアより少し上の世代にあたるミゲル・リョベートのために書かれたデ・ファリャの〈ドビュッシーの墓碑銘に捧げる讃歌〉(1920)は、非ギタリストの著名作曲家による最初のギターソロ作品として記念碑的な意味合いを持っています。しかし、それだけでなく、わずか4分ほどの中に込められた充実した内容は多くの聴き手を魅了してきました。デ・ファリャは、一度もスペインに訪れたことのないドビュッシーが作曲した《版画》の第2曲〈グラナダの夕べ〉を聴いて、「スペインを見事に描き切っている」と褒め讃えました。巧みにハバネラのリズムを用いたこの曲と同じように、〈ドビュッシーの墓碑銘に捧げる讃歌〉も全体にわたりハバネラのリズムが鳴り響きます。また、沈鬱な空気に覆われながらも、〈ドビュッシーの墓碑銘に捧げる讃歌〉はところどころ印象派風な和音が散りばめられています。さらにこの作品を大きく特徴づけているのは、終結部に唐突に現われる16分音符のメロディー、〈グラナダの夕べ〉からの引用です。引用元では序盤にほんの一瞬だけ現われるこのモチーフは、〈ドビュッシーの墓碑銘に捧げる讃歌〉において亡き作曲家を強く思い起こさせる重要な役割を果たします。直接的な形でデ・ファリャの影響がうかがえる作品として、ホアキン・ロドリーゴの〈祈りと踊り〉(1961)が挙げられます。「ファリャ讃歌」の副題を持つこの曲は、〈ドビュッシーの墓碑銘に捧げる讃歌〉はもちろん、代表作であるバレエ『恋は魔術師』からも〈狐火の歌〉や〈魔法の輪(漁夫の物語)〉などふんだんに引用がなされ、ロドリーゴによるファリャ作品のコラージュのようです。ただしかし、デ・ファリャを素材として用いながら、全体的な流れははっきりとロドリーゴの音楽が感じられるようになっています。
マヌエル・デ・ファリャがパリ滞在中において受けた最も大きな影響の一つは、印象主義によるものであった。ドビュッシーと親交を得たことはその最も大きな要因であったが、彼は、そのパリ滞在中の1909年から、すでにピアノと管弦楽のためのそうした傾向を示す作品を構想し、自ら交響的印象と名づけた。そして、故国に戻ってから完成されたのが、この《スペインの庭の夜》である。それは、たしかに印象主義的手法を思わせるものであるが、同じスペインの他の作曲家たちのように民族的傾向も、その中に生かしており、その素材としては、南スペインの民族音楽も用いて、きわめて洗練された感覚を手法の中にまとめあげている。それは、いわばピアノと管弦楽のための協奏的作品であるとともに、きわめて交響的な管弦楽作品としての魅力も備えており、初演は、完成後まもなく、1918年4月9日にマドリード王立劇場において、エンリケ・フェルナンデス・アルボスの指揮マドリード交響楽団と、ホセ・クビレスのピアノ独奏によってなされた。また、1921年5月20日には、トーマス・エドワード・クラークの指揮により、彼自身の演奏でロンドンでも初演演奏され、決定的な成功をおさめた。曲は、3つの楽章からなっており、それぞれには標題が与えられているが、それは、決して描写的性格を持つものではなく、スペインの美しい庭から得た印象の感覚的表現であり、詩的でありまた魅惑的な雰囲気をみせている。尚、この作品は、彼のパリ滞在中にその地ですでに名声を得ていたスペインのピアニスト、リカルド・ヴィニェスに捧げられた。ピアノ・パートは洗練されて華麗で雄弁だが、滅多に他パートを圧倒することはない。管弦楽は官能的な筆致で綴られている。気だるさと躍動感を併せ持つ曲想は、ドビュッシーの『夜想曲』やラヴェルの『スペイン狂詩曲』の影響を伺わせ、第1楽章のクライマックスではワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』前奏曲冒頭、第2楽章の途中ではドビュッシーによって多用された全音音階の和音がそれぞれ引用されるなど、同時代の先輩作曲家たちの影響が所々に垣間見られる。
「火祭りの踊り」で知られるマヌエル・デ・ファリャの代表作《恋は魔術師》。1915年、デ・ファリャは、パリから帰ってまもなく、当時のスペインの優れた舞踊家パストーラ・インペリオ(Pastora Imperio, 1887-1979)の依頼を受けて独唱〈メゾ・ソプラノまたはアルト〉を伴う、1幕2場からなるバレエ音楽を書き上げた。それが、この《恋は魔術師》であるが、インペリオは、南スペイン、アンダルシア地方に伝わる伝説を素材として劇作家グレゴリオ・マルティネス・シエーラ(Gregorio Martínez Sierra)夫妻に台本の製作を依頼し、デ・ファリャは、それに基づいて13曲からなる郷土色豊かなフラメンコ舞踊のための作品を、まとめあげた。このバレエの内容は、放蕩なジプシーである恋人を死によって失った若い情熱的な女カンデラスが、更に美しい若者カルメロに熱烈な恋をするが、ジプシー男の幽霊がそれを邪魔し、愛の接吻もかわせぬままに過ごす。そして、ふたりは思い悩むが、かつてジプシーの仲間に入っていたカルメロは、浮気なジプシー男であったその幽霊を、友達である美しいジプシー娘ルチアに誘惑させることを思い立ち、その隙にお互いの愛を確かめ合い、愛の接吻をかわしてしまうというもので、その初演は、フラメンコ音楽劇《ヒタネリア》(Gitanería)として、1915年4月15日にマドリードのテアトロ・デ・ララにおいて行われた。初演時の評価はあまり芳しくありませんでした。情熱的な音楽ですが、この際には、極めて小編成(八重奏)のオーケストラが用いられたが、その後、デ・ファリャは曲順を変更し、オーケストラの編成を大きくするなどの大規模な改訂を行い、まずは演奏会用組曲を作り、1916年3月に初演され、こちらは大成功を収めました。その後シエーラとともにバレエ用に脚本を考え全体を改訂、9年後の1925年にパリのトリアノン・リリック劇場において、舞踏家ラ・アルヘンティーナとビセンテ・エスクデーロによって上演されています。本作品はジプシーたちのアンダルシア訛りの歌が、違和感無く曲調にあてはまるほど実にアンダルシア的である。一般的にバレエ音楽はオーケストラのみで構成されるが、バレエ音楽《恋は魔術師》はフラメンコ音楽劇《ヒタネリア》の歌の要素を引き継ぎ、作品の様々なシーンでメゾ・ソプラノまたはアルト歌手が登場し歌が用いられる珍しい構成となっている。デ・ファリャはバレエ音楽にフラメンコの要素を取り入れ、さらに「歌」を用いる構成にすることで、より一層聴衆にスペイン的な特徴としてアンダルシアの音楽語法の印象を植え付けることに成功している。また、「火祭りの踊り」と「恐怖の踊り」に代表されるよう、特筆すべき美しさと独創性が顕れる瞬間を感じさせる音楽作品でもある。
  • Record Karte
  • マヌエル・デ・ファリャ:恋は魔術師 キャロル・スミス(メゾソプラノ)、スペインの庭の夜 ピエール・バルビゼ(ピアノ)。デヴィッド・ジョセフォヴィッツ指揮、モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団。
  • FR CHS SMS2722 デヴィッド・ジョセフォヴィッツ ファリ…
  • FR CHS SMS2722 デヴィッド・ジョセフォヴィッツ ファリ…
Manuel De Falla: Elamor Brujo, Noches En Los Jardines De Espana [LP]
Orchestre National De L'Opera De Monte-Carlo David Josefowitz
Concert Hall
2019-01-14