34-12614

商品番号 34-12614

通販レコード→仏ダーク・グリーン銀文字盤

〝ヨハン・ゼバスティアン・バッハの息子たち〟 ― 作品番号で1000を超える楽曲を遺したヨハン・ゼバスティアン・バッハですが、その作品に勝るとも劣らない遺産ともいえるのが彼の息子たちといえます。ここにはその内の3人、長男のヴィルヘルム・フリーデマン、前古典派の代表的な作曲家とされ、兄弟の中でも最も活躍した次男のカール・フィリップ・エマヌエル、バロック時代の合奏協奏曲を押し進め、数多くの『協奏交響曲』を書いた末息子ヨハン・クリスティアンの作品を収録。いずれもバロックの集大成である〝大バッハ〟と、ハイドン、モーツァルトへ多大な影響を与え、古典派への橋渡しをした重要位置にあり、彼等なしでは西洋音楽史は語れないといって構わない。また、『多感様式』や『疾風怒涛』期の音楽として、劇的な展開を繰り広げる彼等の作品は今聴いても新鮮な印象を与えてくれます。作品番号で1000を超える楽曲を遺して〝大バッハ〟と呼ばれるまでなったのには、彼と同時代に〝マイニンゲンのバッハ〟と呼ばれたヨハン・ルートヴィヒ・バッハの楽譜を写譜して蔵書していたことも大いにあると想像される。ヨハン・ゼバスティアン・バッハの父ヨハン・アンブロジウス・バッハ(1645〜1695)も、祖父クリストフ・バッハ(1613〜1661)も、曾祖父ヨハネス・バッハ(生年不明〜1626)も職業音楽家だった。曾祖父の兄弟、祖父の兄弟も作曲家で、驚く無かれ、バッハと名乗る音楽家が300人いたと言われている。作曲家として名を残さなかった者でも、市の演奏家や教会楽長、オルガニストのいずれかとして公式な記録に名を残している。エアフルトでは「バッハ」といえば音楽家を意味したほどだった。〝大バッハ〟はトーマスカントルに上り詰め、27年間を過ごして数多くの作品を生み出しますが、22歳の時、従妹のマリア・バルバラと結婚。もうけた子供は7人いたが、生きながらえた子供は3人で、そのうち長男ヴィルヘルム・フリーデマンと次男カール・フィリップ・エマヌエルが音楽家となった。末子ヨハン・クリスチャンの母親は、若い後妻のアンナ・マクダレーナである。後添いとして36歳の男やもめのバッハが見初めたのが、ザクセン=ヴァイセンフェルス公の名のある宮廷楽団のトランペット奏者ヨハン・カスパル・ヴィルケの娘で、20歳になったばかりでした。バッハの人生において家族は明らかに希望の光であり、彼女は夫バッハの良き助け手であったばかりでなく子供たちの音楽教師、そしてチェンバリストでした。アンナ・マグダレーナは優れたソプラノ歌手としてもバッハに付き添い夫の指揮する演奏にたびたび参加しました。家庭では楽譜の筆写に協力 ― 彼女の筆跡は夫バッハの筆跡にきわめて似ているという事実は有名ですが、そのために後の研究者は判断を誤ることもしばしばでした。彼女とは13人の子供をもうけ、6人が成人した。49歳で未亡人となった彼女は再婚せず未成年の子供たちの世話をすることになります。ソプラノ歌手として生計も助け、夫の作品のアーカイヴ化、子供たち教育して、9人を育て上げ、6人が作曲家、演奏家になりました。アンナ・マグダレーナの三面六臂の働きで育った〝バッハの息子たち〟は〝大バッハ〟が手を染めることなかった〝交響曲〟というバロック音楽の時代にはなかった新ジャンルに傑作を残しています。本盤では、そのうちの4曲を聴きます。「ベルリンのバッハ」「ハンブルクのバッハ」といわれているカール・フィリップ・エマヌエルの《交響曲ハ長調》、「ミラノのバッハ」「ロンドンのバッハ」といわれているヨハン・クリスティアンの《交響曲変ロ長調、ニ長調》の2曲、そして、長男ヴィルヘルム・フリーデマンの時代を先取りしすぎた画期的な《交響曲ニ短調》です。あらましは次のページ。
関連記事とスポンサーリンク
今回は〝ヨハン・ゼバスティアン・バッハの息子たち〟(Les Fils De J. S. Bach)と題されたアルバム。アメリカ・コンサート・ホール盤は、『 Concert Hall Limited Recordings』シリーズと銘打たれた3,000枚限定プレスでの発売だったものです。ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685年3月31日=ユリウス暦1685年3月21日〜1750年7月28日)は音楽史に燦然と輝く〝音楽の父〟です。何時の世もそうですが,あまりにも偉大な父親を持つ子供たちの気持ちはいかばかりでしょうか。の息子たちの中も4人がプロイセンでフリードリヒ大王の伴奏者となり後にハンブルクでテレマンの後任を務めて「ベルリンのバッハ」「ハンブルクのバッハ」といわれた次男カール・フィリップ・エマヌエル(Carl Philipp Emanuel Bach, 1714年3月8日〜1788年12月14日)はアドルフ・フォン・メンツェル作画の「無憂宮におけるフルート演奏」。1852年の歴史画であり、作者の想像に基づいている(実際の現場を忠実に模写したものでない)。中央で右向きに立ってフルートを吹いているのがフリードリヒ大王で、そのかたわらに(閲覧者に背を向けて)腰掛け、大王を横目に見ながらチェンバロで伴奏しているのがカール・フィリップ・エマヌエル(ウィキペディアより)  カール・フィリップの作品、作風は、ハイドンやベートーヴェンに多大な影響を与えました。生前は父親よりも有名で、バッハの息子たちやハイドン・モーツァルトが活躍していた18世紀後半では、「大バッハ」といえば次男カール・フィリップ・エマヌエルのことを指し、ヨハン・ゼバスティアンは一般には今では信じられないことですが「エマヌエルの父で、昔風の音楽を書いていたオルガン・チェンバロ即興演奏の名人」としてしか認められていませんでした。(このバッハに対する評価の落差についてはまたいずれまとめるときに) その意味で言うと兄弟の中では誰よりも成功を収めましたが、本人は父親の指導があったから自分が成功することができたと言っています。その意味においては、初期のバッハ神話を創り出した張本人であったと言えます。作品の数は膨大で、現代の演奏家にも見直され取り上げられる機会が増えています。このCD7枚組の3枚がカール・フィリップ・エマヌエルの作品というのもうなずけるところです。鍵盤作品が多いのですが、その理由として息子唯一カール・フィリップ・エマヌエルは左利きで弦楽器をあまり得意とせず鍵盤楽器を得意としたということがあるそうです。作風は、、、あっと驚くモーツアルトへ続くそんなイメージでしていろんな機会に聴いてくださるとおもしろい。
父、大バッハが死んだとき15歳の少年でした。そのせいでしょうか?全くの自力で自らの道を切り開きました。バッハはこの息子に対していつも「若い者はその愚かさによって成功するものだ」という諺を口にしていたと言います。「愚かさ」を天然「天真爛漫テンシンランマン」と置き換えて解釈するとき,バッハ家のメンバーの中で唯一ヨハン・クリスチャン・バッハ(1735~1782)のみが備えていた特質であったようです。彼は父の教育ももちろん受けましたがそれ以上にベルリンで異母兄のカール・フィリップ・エマヌエルの世話になり音楽的な教育も受けています。ただ、父の価値観などまるで意に介さず,その後はイタリアに行き、しかもプロテスタント信仰を捨てカトリックに改宗しました。 イタリアやイギリスで活躍して「ミラノのバッハ」「ロンドンのバッハ」といわれW.A.モーツァルトにも多大な影響を与えました。モーツアルトが1756年生まれですから年の差は21歳、1764年に二人はロンドンで出会っているという記述があります。そのときにヨハン・クリスチャンは幼いモーツアルトにバッハ家とイタリアの音楽を教えました。果たして二人の音楽は聴いてみると非常によく似ています。  音楽学者フィリップ・シュピッタ、19世紀の音楽史家、自著のバッハ伝(2000ページにも及ぶ1873年、1880年に出版された2巻の著作、敬意を込めて単に「シュピッタ」と呼ばれている)において、「特徴的なのは、数世紀を経てバッハにおいて絶頂を極めたあれだけの力が、バッハの息子たちにおいて衰えていったことだ」とし、バッハの最初の伝記作家、ヨハン・ニコラウス・フォルケル(1802)は、特にクリスティアンについて、「バッハの息子たちの独自な精神は(中略)、彼の作品のいずれにおいても見当たらない」と述べています。研究者や音楽界が、バッハの息子たちについて、それぞれの息子が異なる様式で作曲したのは正当なことであり、息子たちの音楽言語は、父親よりも劣っているのでもなければ、悪くなったのでもないと悟るのは、ようやく20世紀になってからであった。こうして作曲家ヨハン・クリスティアン・バッハは、新たな評価を受けるようになりました。

Orchestre De Chambre Neerlandais Direction : Maurits van den Berg ‎– Les Fils De J. S. Bach - Sinfonias

Side-A
  1. Sinfonia In C Major Composed By – Carl Philipp Emanuel Bach
  2. Sinfonia In B-Flat Major Composed By – Johann Christian Bach
Side-B
  1. Sinfonia In D Major, Op. 18, No. 3 Composed By – Johann Christian Bach
  2. Sinfonia In D Minor Composed By – Wilhelm Friedemann Bach
音楽の父、ヨハン・セバスチャン・バッハはふたりの妻を娶り、先妻のマリア・バルバラと、後妻のアンナ・マグダレーナ。それぞれ、音楽家として優れた息子を生みました。ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(Wilhelm Friedemann Bach, 1710年11月22日〜1784年7月1日)はマリア・バルバラを母に生まれた長男で、バッハの息子たちの中でも特に才能に恵まれていたといわれています。バッハが一番評価し、〝自分の心にかなった息子〟と周囲にも自慢するように、溺愛していました。幼少から父親について音楽の手ほどきを受けたが、父バッハがヴィルヘルム・フリーデマンのために「小プレリュード」「インヴェンション」「シンフォニア」「平均律」などを書いたことはよく知られている。ヴィルヘルム・フリーデマンはケーテンのルーテル教会系のギムナシウム(大学進学学校)とライプチヒの聖トーマス学校を経て、1727年にライプチヒ大学に入学した。大学では法律を学んだが、その頃はすでに音楽に専心しており、1733年にドレスデンの聖ソフィア教会のオルガン奏者に就任、1746年にはハレの聖マリア教会のオルガン奏者の地位についた。ハレに就職するにあたっては、予め父親がトーマスカントルとしての睨みを利かせていて、通常の演奏試験なしで採用されている。「ハレのバッハ」とまで呼ばれたが、しかし、過保護に育てられた反動か、1750年の父バッハの死後、ヴィルヘルム・フリーデマンの生活から父親の威光が失われると、別の任地を求めて頻繁に各地を旅するようになる。1762年にダルムシュタットの宮廷楽長に任ぜられるが、怠惰、粗暴な性格が表面化し、その地位に就任しなかった。2年後の1764年にハレのオルガン奏者をいきなり退職した。人望を失い、その後は定職もなく最期の日を迎えるまで放浪の日々を続け、1774年にベルリンに移住し作曲、演奏などで生計をたてていたが、貧窮の末に1784年に享年74歳で没した。才能に恵まれていたにもかかわらず、虚栄心からそれを活かせず仕舞いであった。しかも悪いことに猜疑心が強く、一時期は成功を掴みかけたこともあったものの、人望のなさが祟って、晩年に人脈を失っている。好機を逃し続けた一生であった。ヴィルヘルム・フリーデマンの作品にはシンフォニア(器楽用)、協奏曲、室内楽曲、鍵盤楽器曲などがあるが、鍵盤楽器曲がその主要部分で、明るい音色を好んで選んでいるが、作品には古典期の〝ソナタ形式〟と〝感情過多主義〟のはしりが見られ、鍵盤楽器曲「メヌエットとトリオ」では〝もの静かなメヌエット〟に対し〝嵐のようなトリオ・セクション〟を組み合わせるなど激しい感情の起伏を見せている。
今日はスロヴェニア共和国リュブリャナ出身のヴァイオリニスト、イゴール・オジム(Igor Ozim)によるヴィヴァルディの協奏曲集。通販で販路を広げていたコンサート・ホール・ソサエティの、有名な「四季」を含むヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲集「和声と創意の試み」作品8の全14曲の3枚組で、第9番、12番は異稿である《オーボエ協奏曲》バージョンも、ピエール・ロッソ(Pierre Rosso)の独奏で聴き併せることができる。美しくもひとつひとつの音にしっかりとした確信があるオジムのソロ。オジムのヴァイオリンでは同じコンサート・ホール・ソサエティにブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」の録音(SMS2551)があり、渋い響きとしっとりとした抒情味あふれる非常に良い演奏だった。指揮者としてシャルル・ミュンシュ、ピエール・モントゥー、ピアニストとしてリリー・クラウス、ヴラド・ペルルミュテール、ヴァイオリニストとしてダヴィッド・オイストラフ等、著名な演奏家の音源も多かったが、日本では知られていない演奏家や、明らかに幽霊オーケストラと思われるものもあった。また指揮者のワルター・ゲールのようにこのレーベルによって名を知られたアーティストもいる。1962年に通販会社日本メール・オーダーと提携し、通信販売を開始。当時の東京オリンピック前のステレオ再生装置の普及で起こった、クラシック・ブームと活発な営業活動があいまって多くの会員を集めた。また、東西冷戦中で評判はニュースとして届いていてもその演奏を聴くことができなかった日本では、会員に通信販売されるシステムを活かした、ライセンス契約されて充実されていったコンサート・ホール・ソサエティのカタログ内容は宝の山だ。当時国内だけで50万人以上の会員がいたそうで、会員になると、毎月「音楽委員」が推薦する名盤である「今月のレコード」が普通価格より35%も安く買うことができた。世界中の会員を対象に、大量にプレスするのと、直接頒布する直売システムのため、市価の2〜3割安。レコード盤自体はイギリスでプレスされて、レーベルを張り替えている。カール・シューリヒト指揮ハーグ・レジデンティ管弦楽団のブルックナー「交響曲第7番」(SMS2394)やピエール・ブーレーズ指揮フランス国立放送管弦楽団のストラヴィンスキー「春の祭典」(M2324)等、名盤も多数ある。ただ音質としては、残響が少なく腰が弱いというのを理由に、コンサート・ホール・ソサエティの盤は、音が悪いとの評価が一般的に定着している。迷惑を被っているが、イコライザーカーヴをあれこれ工夫してみよう。今までとは全く別の音が鳴りだして、シューリヒトやモントゥー晩年の一連の録音も聴き直してみたくなる。
  • Record Karte
  • 1953年録音、1955年リリース。
  • FR  CHS  MMS3003 マウリッツ・ファン・デン=ベルフ …
  • FR  CHS  MMS3003 マウリッツ・ファン・デン=ベルフ …

これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。