34-11951
商品番号 34-11951

通販レコード→仏ロイヤル・ブルー銀文字盤
拓かれた豊穣で広大な新しい音楽の大地 ― バルトークの音楽というと極めて高度な知性と鋭利な感覚に貫かれた峻厳さをイメージしがちであろう。事実、彼の多くの作品が、そのような性格を持っているし、たとえそれがヴァイオリン音楽であっても、かつてのヨーゼフ・シゲティのような人が弾くことこそ相応しいとも思える。余分な情緒性や甘美さを一切削り去って、あくまでも鋭く、禁欲的に …… 。もし、バルトークの演奏について、そのような姿のみを理想とする人にとっては、これがバルトークの作品であると見当をつけるのに暫く時間を要するかもしれない。習作時代を終えてようやく本格的な作品が誕生した、20歳代の作品である「組曲第2番」、「2つの肖像」、「2つの映像」の3曲は、小管弦楽のための音楽。シャルル・ブリュックはヨーロッパでナチス・ドイツが台頭する直前に、ピエール・モントゥーがサンフランシスコに移った時には助手として付き従った。フランス現代音楽の旗手として、その全創造力を昇華させた優れたレコードの数々が、体系的に再発見されることを待望している。
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英"BBC Music"誌に'The 20 Greatest Conductors of All Time'という、現役のオーケストラ指揮者100人がアンケートに答えて3人ずつ推奨した古今の名指揮者を集計した特集がある。ファンや評論家ではなく同業者たちが選ぶのが興味の的だが、読者向けというサービス精神なのか、トスカニーニ、フルトヴェングラー、カラヤン、バーンスタインなど、萬人が知る大指揮者の名前が多く挙げられている。ごく当たり前に20人分ずらりと並んだ名前に、同業である指揮者としてアイコンとして示しやすい目標とする羨望があるのだろう。ただし各指揮者の挙げた3人を個別にみると、クラシック音楽を良く聴いているほど、それなりに興趣が湧いてくる。シャルル・デュトワがあげた「エルネスト・アンセルメ、ヘルベルト・フォン・カラヤン、シャルル・ミュンシュ」。ワレリー・ゲルギエフがあげた「ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ディミトリ・ミトロプロス、レナード・バーンスタイン」。ウラジーミル・ユロフスキーがあげた「レナード・バーンスタイン、カルロス・クライバー、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー」。ネヴィル・マリナーがあげた「ピエール・モントゥー、ヨーゼフ・クリップス、ジョージ・セル」。マイケル・ティルソン・トマスがあげた「アンタル・ドラーティ、ピエール・モントゥー、ピエール・ブーレーズ」には例えばデュトワの選んだアンセルメとカラヤンとミュンシュ。3人の芸風を程良くブレンドするとデュトワの指揮スタイルだ出自を告白しているように、それぞれが指揮者としての自分の役割とすべき位置を見出している様子がみえる。マリナーが恩師モントゥーの名を筆頭に掲げるのは当然だが、マイケル・ティルソン・トマスも同調しているのが面白い。古楽器系の指揮者たちの人選は個性的だ。誰ひとりバロック演奏の先人たち ― ミュンヒンガー、ファザーノ、パイヤール、マリナー、リリング、コルボらの名を挙げないのは当然だ。ニコラウス・アルノンクールは「エーリヒ・クライバー、フェレンツ・フリッチャイ、ジョージ・セル」を挙げ、若き日にチェロ奏者として謦咳に接した巨匠たちを畏怖する。ティンパニ奏者からスタートしてベルリン・フィルのシェフになったサイモン・ラトルを、ウィリアム・クリスティ、ルネ・ヤーコプス、マレク・ミンコフスキの3人が挙げている。彼らはレナード・バーンスタイン、クラウディオ・アッバード、エーリヒ・ラインスドルフ、ヘルマン・シェルヘンの名前を挙げているところも似たところがある。ミンコフスキは生まれ育ったパリで当初はバロックの花形であるバスーン奏者として活躍し、ピエール・モントゥーが米国で開いたピエール・モントゥー・スクールで研鑽を積んだ。モントゥーの門人にはデイヴィッド・ジンマン、アンドレ・プレヴィン、ネヴィル・マリナーなどの名前もあるが、それぞれ一芸に秀でるタイプの個性派で、自分の拠点をどっしり構える点でも共通する。ミンコフスキは同様に優秀な門人で、助手として師を助けたシャルル・ブリュックに指揮法を師事。1982年、バロック・オーケストラ「レ・ミュジシャン・ドゥ・ルーヴル・グルノーブル(ルーヴル宮音楽隊)」を結成。フランス・バロックやオペラを中心とした多彩なレパートリーの上演で短期間に名声を高め、近年はモーツァルトにも力を注いでいる。
シャルル・ブリュック(Charles Bruck, 1911年5月2日〜1995年7月16日)は、ハンガリー出身の指揮者、音楽教師。オーストリア=ハンガリー帝国領ティミショアラの生まれ。地元で音楽を学んだあと、1928年にウィーン音楽院でピアノと作曲を学んだのちにパリに遊学し、エコールノルマル音楽院でアルフレッド・コルトー、ナディア・ブーランジェ、ヴラド・ペルルミュテールの各氏に師事した。1934年からはピエール・モントゥーに指揮法を習い、モントゥーがサンフランシスコに移った時には助手として付き従った。1939年にはフランス国籍を取得し、第二次世界大戦に際してはレジスタンス活動に従事した。 1950年からオランダ歌劇場の指揮者を務め、1955年にはストラスブール・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に転出。さらに1965年にはフランス放送フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に移籍し、1970年まで務めている。 1969年には師のモントゥーがアメリカ合衆国メイン州ハンコックに開設していた指揮者学校の教師になり、没年まで務めた。キャスリーン・フェリアーとの「オルフェオとエウリディーチェ」やクリスチャン・フェラスとのセルジュ・ニグ:ヴァイオリン協奏曲(1960年)は、カラヤンと共演する前のフェラスの演奏を聴ける。その後のベートーヴェン:ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲でのポール・トルトゥリエ(チェロ)、エリック・ハイドシェック(ピアノ)というオール・フランス・キャストが顔を揃えた演奏(1970年)と聴き比べるのは楽しい。中でもレオニード・コーガンとのラロやパガニーニ、ブラームス・ヴァイオリン協奏曲は、堂々たるソロ・ヴァイオリンとブリュックの力強い指揮ともども核心に迫る迫力は圧巻のライヴのごとき熱いモノラル録音だった。
バルトークその人こそ、他に例のないほどの警戒心と感受性とをもって世界の一切の動きを見張り、絶えず変化し、形づくられていく宇宙の声と、苦闘し続ける人類の声とに、自らのうちにあって形を与えていく人である ― ベンツェ・サボルチ
ハンガリーの生んだ20世紀最大の作曲家のひとりといえば何びともベーラ・バルトーク(1881〜1945)を挙げる。否、20世紀最大の作曲家としても、まずバルトークから指を屈する人も少なくあるまい。バルトークは8歳年長のシェーンベルクのような芸術様式上の革命家でもなかったし、1年後に生まれたストラヴィンスキーのように若くして天才的な脚光を浴びた体験も持ってはいない。しかし、第2次大戦が終わり ― バルトークはこの年に亡くなってしまうが ― 新しい芸術活動の息吹が起こった時、バルトークに対する認識が急速に深まる。それは見失われていた芸術における精神活動の尊厳の回復を示すものであった。例えば、その頃の現代音楽を扱った書物の記述に数多くの例が窺われる。フランスの急進的な批評家だったアントアーヌ・ゴレアが1954年に刊行の「現代音楽の美学」(野村良雄他訳)の中で、「彼は死後僅か何年かで20世紀の作曲家の中で、おそらくアルチュール・オネゲルを除いては最も良く演奏される人となり、又現代音楽及び、その偉大と闘争と苦闘の象徴となった。 …… 現代の音楽的ヒューマニズムの代表者の中で最も悲愴な、又最も活き活きとした方法でこれを具象化している」。また1955年出版のドイツの音楽学者ハンス・メルスマンの「西洋音楽史」(後藤暢子訳)で「ストラヴィンスキーがヨーロッパ文化の汎ゆる思潮に向かって心を開いていたのに対し、バルトークは偉大な孤独の境地で生き、且つ創造したのである」、そして日本では柴田南雄が1958年刊の「現代の作曲家」の中で「バルトークを〈巨匠〉と呼ぶ時、今や我々はベートーヴェンに対する時と対して違わぬ感情を抱くに至っている。殆ど倫理的といえるほどの芸術と人生への厳しい態度が、この二人の人間像を相似たものにしているためであろう」、これらの引用はほんの一例にすぎないもので1950年代はバルトーク評価が非常に高まったことを示すものである。1960年代以降バルトーク熱は下降したかのように見えるが、そのことが彼の音楽史上の位置づけをより明確にさせることになった。20世紀前半を生きた作曲家の中でシェーンベルク、ストラヴィンスキーとバルトークが3大巨峰であることは定説となった。例えば、あの厖大な「新オックスフォード音楽史」は第10巻(1974)を現代音楽(1890〜1960)に充てているが、最も多くの影響を与えた作曲家としてドビュッシーとシェーンベルクを重視している、しかし個人としての記述に一番多くのページが割かれているのはバルトークの25ページであり、ついでストラヴィンスキー、ベルク、ウェーベルンとなっている。バルトークは多作家ではなかったが、寡作家とも言えない。彼の作品は、ほとんどあらゆるジャンルの音楽に及んでいた。広く言われるように彼は中欧・東欧の民族音楽の研究の成果を彼の芸術音楽に採り入れているが、その有り様は高度に芸術的に昇華されたものであった。バルトークはシェーンベルクの無調音楽の影響を受けているし、ストラヴィンスキーとも無縁の人ではなかった。しかし、それらが作品に具現された時、バルトーク以外の何びとも書き得なかったものとなる。このことは彼の妥協のない創作態度の厳しさを物語っている。作品の数に比較してオーケストラのための作品が異例と言ってよいほどに少ないことからも、それが窺われる。彼が名を成すに至った1910年代の中頃以降、バルトークの書いたオーケストラのための作品は「舞踏組曲(1923)」、「弦・打楽器・チェレスタのための音楽(1936)」、「弦楽のためのディヴェルティメント(1939)」、「管弦楽のための協奏曲(1943)」の4曲しか無い。またピアノ協奏曲は未完に終わった第3番までの3曲とヴァイオリン協奏曲が1曲、これも終結部を残して絶筆となったヴィオラ協奏曲の4曲あるのみである。
1956年7月13日パリ、メゾン・ド・ラ・ミチュアリティで録音。
FR  COL  FCX552 ブリュック バルトーク・管弦楽組曲第…
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