DE VSM  C181-030 35/36 ヘルベルト・フォン・カラヤン ワーグナー・ワルキューレ

商品番号 34-18144

通販レコード→独カラー・スタンプ・ドッグ盤

ベルリンから届いた手紙 ― 英国空軍の空襲でウィーンでは被災した国立歌劇場は、まだ再建されてなく他の劇場を間借りしている状態だった。もともとヘルベルト・フォン・カラヤンはウィーンでは1937年にブルーノ・ワルターの招きで「トリスタンとイゾルデ」を振っただけで、オペラ指揮者としては知られていなかった。そこでウィーン交響楽団による演奏会形式で「アイーダ」を3回上演した。来るべきウィーン国立歌劇場再建へ向けてのアピールでもあった。嘗ての古巣であるベルリンの州立歌劇場は東側に属していたので、将来のウィーン国立歌劇場のポストも考えていた。ベルリンへのオペラ指揮者としての復帰は、カラヤンの念頭にはなかったが、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団だけは手に入れたかった。いつでも好きなものが振れるオーケストラとオペラハウスの2つをカラヤンは必要としていた。一方、1951年のヴィルヘルム・フルトヴェングラーは生涯で最も多忙なスケジュールをこなしていた。フルトヴェングラーのカラヤン憎しの思いは、皮肉なことにカラヤンに力を付けさせた。そして、ベルリン・フィルの中にも、フルトヴェングラーへの反感からカラヤンに近づこうという考えが生まれてきた。1951年春にフルトヴェングラーからベルリンに届いた手紙には、「来年は作曲に専念したいので指揮活動を休止したいと思う」旨が記されていた。ベルリン・フィルの理事会は、フルトヴェングラーをつなぎ留めておきたくて、「カラヤンをベルリンに度々招くという方向に進み始めれば ― 音楽監督か首席指揮者のポストを約束することになります。」と返信を出した。フルトヴェングラーがウィーンにいる時はカラヤンはイタリアに、フルトヴェングラーがイタリアに来れば、カラヤンはウィーンに、という具合に2人は同じ都市に同じ時期にはいない。まるで音楽界全体のスケジュールを管理しているものがいるかのように、カラヤンもまた多忙だった。フルトヴェングラーとカラヤンが、最後に同じ場所で指揮したのが1951年夏のバイロイトだった。
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空襲で劇場が焼けたり、歌手やオーケストラの人材が集まらないなどの理由で、なかなか上演が出来ない時期もあったが、劇場は焼けなかったのに復活できない場所があった。ヒトラーとのかかわりがあまりにも強いバイロイトは、ワーグナー家の当主交替を条件に再開される。ヘルベルト・フォン・カラヤンは戦後初めて開催されたバイロイト音楽祭で『ニーベルングの指環』チクルスを指揮するために赴く直前の6月に、ロンドンでウォルター・レッグのプロデュースのもと、ピアニストのワルター・ギーゼキングと6日間に5曲のピアノ協奏曲をレコーディングするという快挙を成し遂げた。オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団でグリーグのピアノ協奏曲、フランクのピアノと管弦楽のための交響的変奏曲、ベートーヴェンのピアノ協奏曲4番と5番、そして最後がモーツァルトのピアノ協奏曲23番を録音したのだが、これらがカラヤンがSPレコード用にも行った録音の最後となった。第2次大戦終戦後、占領軍によって日本ではチャンバラを禁じられていた。『忠臣蔵』が戦後初めて上演されるのは、1947年。敗戦から2年、これは「戦争の終わり」を日本人に実感させた。では、同じ敗戦国であるドイツの戦後はいつ終わったのだろうか。その答えの一つが、この1951年かもしれない。ナチ政権時代に翻弄されたヴィルヘルム・フルトヴェングラーとカラヤンが呼ばれた。この時、フルトヴェングラーはいつもの様に「カラヤンが出るなら自分は出ない」とは言えなかった。7月29日、1944年を最後に中断していたバイロイト音楽祭がベートーヴェンの《第9》で始まった。ステージに立ったのは、フルトヴェングラーである。カラヤンの指揮するオペラは《ニーベルングの指環》と《ニュルンベルクのマイスタージンガー》。英EMIのプロデューサー、ウォルター・レッグはカラヤンの指揮するオペラをレコードにしようと、録音スタッフと共にバイロイトに乗り込んでいた。フルトヴェングラーの《第9》は、発売する予定はなかった。フルトヴェングラーのリハーサルを見学しようとしたカラヤンは追い出しをくらっていた。追い出されたカラヤンに代わって、《第9》公演後、フルトヴェングラーの楽屋を訪れたレッグは「良い演奏でしたが、期待ほどではありませんでした」と言った。それが後にレコードとして発売されると、『フルトヴェングラー最高の演奏』『史上最高の第九』、そして『20世紀最高のレコード』として絶大なる評価を得るようになる。
カラヤンの初日は8月5日、まずは《ニュルンベルクのマイスタージンガー》だった。そして、11日から15日までが《ニーベルングの指環》だった。一方、フルトヴェングラーは8月1日と6日にザルツブルクでモーツァルトの《魔笛》を指揮している。不可能ではないが、そうまでして客席に戻ってきたであろうか。1951年はヴェルディ没後50年だったので、その記念としてフルトヴェングラーは《オテロ》を指揮した。これは当時のザルツブルク音楽祭としては、異色のプログラムだった。モーツァルト作品が中心となる、この音楽祭でヴェルディが上演されるのはアルトゥーロ・トスカニーニが《ファルスタッフ》を振って以来のことだ。フルトヴェングラーは《魔笛》と《オテロ》を5回ずつ指揮し、さらにコンサートを2回指揮した。途中で2度、ルツェルンに出向きながらも8月31日までザルツブルクに滞在し、最後は《第9》だった。この年にレッグが録音したカラヤンの演奏で、正式に発売されたのは《ニュルンベルクのマイスタージンガー》と本盤、《ワルキューレ》第3幕だけだった。1幕と2幕も録音は残っているだろうが、オーケストラの音がとんでもなく生々しく捉えられていて、オーケストラが大音響で鳴るところでは歌手の歌声がマスクされるほど。バイロイトの爆発力も凄まじいものだと驚かされる。カラヤンの指揮は、後年のようなレガート奏法を駆使した色艶のある耽美的な部分はまだ前面に出てきてなくて、若々しくダイナミックで切れ味抜群の演奏です。歌手では、若々しい、ハリのあるアストリッド・ヴァルナイのブリュンヒルデがいい。第3幕半ば、ヴォータンに罰を言い渡されて他のワルキューレたちが去った後、「私はそれほど酷い事をしたのでしょうか」と懇願する、情感たっぷりで聴き惚れてしまいます。最後のヴォータンの告別の歌に突入する直前では、嘆願も狂おしさ極まれりの凄まじさです。カラヤンはバイロイト音楽祭には1951年と1952年に出演しましたが、ヴィーラント・ワーグナーの抽象的な演出と音楽祭の運営方法には懐疑的だった。結局その2年でバイロイトを去っています。1952年の「トリスタンとイゾルデ」は、この時代のカラヤンのマイルストーン。バイロイト音楽祭を終えるとカラヤンは、イタリア、ウィーンでのコンサートをこなした後、1951年の後半からLPレコードのための録音がロンドンで始まり、11月後半の交響曲第7番を皮切りにベートーヴェンの交響曲全集の録音が開始された。これが、フィルハーモニア管弦楽団との録音時代の本格的な始まりだった。
レオニー・リザネク、シーグルド・ビョルリンク、アストリッド・ヴァルナイ、ブルンヒルド・フリードランド、リーゼロッテ・トマミューラー、エルフリーデ・ヴィルト、ルート・ジーヴェルト、エレノア・ラウシュ、ヘルタ・テッパー、イラ・マラニウク、ハンナ・ルートヴィヒ、1951年バイロイト祝祭劇場での録音。2枚組。