商品名DE ORFEO S074831 ベルント・ヴァイクル&サヴァリッシュ ツムシュテーク・歌曲集

ディズニーランドの『シンデレラ城』や、『眠れる森の美女』の城のモデルとなった『ノイシュヴァンシュタイン城』をはじめとして、メルヘンでとても美しいお城がたくさんあることで有名なドイツ、イスマニング城は1816年に、バイエルン王ルートヴィヒ1世の宮廷建築家であり、グリーク・リバイバル様式の代表的建築家であるフランツ・カール・レオポルト・フォン・クレンツェの設計で、ナポレオンの養子ウジェーヌ・ド・ボアルネとその配偶者のために建設されたお城。シューベルトは、この時代活躍していました。歌曲王シューベルトのイメージは町の音楽家としての認知が強いが、モーツァルトとベートーヴェンにはさまれた世代を代表する歌曲の作曲家ヨハン・ルドルフ・ツムシュテーク(Johann Rudolf Zumsteeg, 1760.1.10〜1802.1.27)の影がちらつく。しかし、あいにくツムシュティークはシューベルトへの多大な影響を指摘されるほど重要な作曲家ながら、膨大なドイツ歌曲を録音したフィッシャー=ディースカウでも録音しなかったほど録音に恵まれ無い。活動の絶頂においてツムシュテークはシュヴァーベンの宮廷と密接な関係を持っており、1791年には、クリスティアン・フリードリヒ・ダニエル・シューベルトの死去により空席となった楽長職に任命されている。在任中のツムシュテークは、宮廷を支配するイタリア音楽の影響力に遭遇し、ドイツ人作曲家を擁護した。最終的に1802年に死去する際に有した地位は、宮廷楽団のコンサートマスターであった。ツムシュテークは、シュトゥットガルトにおけるモーツァルトの歌劇の擁護者でもあり、《ドン・ジョヴァンニ》や《コシ・ファン・トゥッテ》、《魔笛》のシュトゥットガルト初公演を実現させた。シュトゥットガルトを中心に活躍、歌劇や合唱曲にまで及んでいる作品総数は300近くを数えるが、1802年に42歳で脳卒中のために夭折した。ツムシュテークのおそらく最も名高い作品は、1800年から1805年にかけてブライトコプフ・ウント・ヘルテル社により出版された7巻からなる『小歌曲集とバラード集( Kleine Lieder und Balladen )』である。この曲集はドイツで高い人気を勝ち得て、1830年代まで有名であった。前述のイスマニング城で行われたベルント・ヴァイクル(バリトン)とヴォルフガング・サヴァリッシュ(ピアノ)という豪華コンビによる当録音の2曲はいずれも演奏時間20分を越す長大なバラードだが、曲調は多彩で変化に富み、飽きさせない。
ベルント・ヴァイクル( Bernd Weikl, 1942年7月29日オーストリア、ウィーン生まれ )は、現在世界最高との誉れ高いバリトン歌手。テノールに近い声域までを持ち、ワーグナー作品を得意とし、演出家としても活躍する天才で、120種を越える役柄をオリジナル言語でレパートリーとして持ち、ドイツ人役はもちろん、イタリア人、フランス人など、それぞれを地球上すべての主要歌劇場で演じ、等しく高評価を得ている唯一の歌手である。1980年代のブランデー(サントリー XO)のCMで起用されて日本でも高い人気がある。
バラード(仏語:ballade、英語:ballade)は、古いヨーロッパの詩形の一つ。バラッド(英:ballad)に由来する歌曲。とりわけ中世(14~15世紀)フランスにゆかりのある詩形の一つ。たいていは3連ないしは5連からなり、各連最終行には脚韻が、また短めの最終連(アンヴォワ)においてはたいてい貴公子への呼びかけが含まれている。バラッドと混同してはならない。バラードの最も著名な詩人は、ジョフリー・チョーサーとフランソワ・ヴィヨンである。19世紀にダンテ・ゲイブリエル・ロセッティやアルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンらによって復活された。西洋音楽においては、元来は声楽曲に用いられた形式の1つで、古くは12世紀北フランスのトルヴェールの歌う世俗抒情歌の形式の1つとして現れた。その後14世紀、アルス・ノーヴァの時代になるとギョーム・ド・マショーらがその形式を受け継いだ多声歌曲を書いている。一般に A ― a ― B の形式を取る(Aとaは同じ旋律で歌詞が異なる)。多声バラードは一般に3声で、最高声部の歌唱をそれより低い2声部が器楽伴奏で支える(カンティレーナ様式)。18世紀後半になると、ゲーテらの詩人が、フォーク・バラッドを模して創り出した文学的バラッドに曲づけされた、物語性を持ったドイツ・リートがカール・ツェルターやヨハン・ルドルフ・ツムシュテークによって書かれた。ドイツ語ではバラードもバラッドも同じく“Ballade (バッラーデ)”であるため、日本ではこのような歌曲も「バラード」と呼ばれる。これらは19世紀、ロマン派音楽の時代に入って発展し、フランツ・シューベルトやカール・レーヴェによる《魔王》、ロベルト・シューマンによるローレライ伝説に基づいた《森の語らい》(リーダークライス op.39 の第3曲)などの名作を生んだ。また19世紀ドイツのロマンティック・オペラにおいては、アリアに相当する部分にこのバラードが用いられることもある。フレデリック・ショパンによって、器楽曲の名称(またはジャンル名)に転用された。なお、ショパンのバラードの紹介で以前書きましたが、ショパンのバラードには物語性はない。ショパンの作品は、古い歴史物語を詠んだ詩に基づいていることを暗示しており、この意味において、本来のバラードよりバラッドとの結びつきが強い。このピアノ曲のバラードの延長には、フランツ・リストの2つのピアノ曲、ヨハネス・ブラームスのいくつかのピアノ曲(作品10、作品118-3)、エドヴァルド・グリーグのピアノ曲(《ノルウェー民謡による変奏曲形式のバラード》作品24、《バラード風に》作品65-3)がある。ガブリエル・フォーレは、特定の文学作品を念頭におかずに《バラード嬰ヘ長調》作品19をピアノ独奏用に作曲した。ピアノの初心者の間でヨハン・ブルグミュラーによる《バラード ハ短調》が親しまれている。日本では、かつては譚詩曲という訳語が使われたが、現在は一般的ではない。
シューベルトが11歳の1808年に宮廷児童合唱団員として入学した帝室コンヴィクトは、音楽の専門学校というわけではないが音楽の授業もあり、ヴェンツェル・ルジチュカが通奏低音と鍵盤楽器と弦楽器を、アントニオ・サリエリが対位法とイタリア歌曲の作曲法をシューベルトに教えた。帝室コンヴィクトの学生オーケストラは、30曲以上のハイドンの交響曲を中心に、モーツァルトとベートーヴェンの交響曲や序曲の殆どをレパトリーとしていた。毎日夕方に交響曲1曲と序曲を数曲演奏したというコンヴィクトの学生オーケストラの技量はかなりの高水準であったことが推察される。シューベ ルトはそこで当初第2ヴァイオリンを、その後、第1ヴァイオリンを受け持ち、本来の指揮者であるルジチュカの代わりにオーケストラを指揮することもあった。このようにして理論と実践の面から獲得された十分な知識と技術は、シューベルトにただちに具体的な成果となって『交響曲第1番』や弦楽四重奏曲に現れるのである。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、三人のウィーン古典派による音楽の本領は、 コンヴィクト・オーケストラの持ち曲やシューベルトが彼らに倣って習作的に作曲した交響曲が示すとおり、ソナタ形式を軸にした管弦楽法にある。シューベルトは彼らの音楽を最高の偉業として敬意を表した。モーツァルトとベートーヴェンの交響曲は、とりわけシューベルトが愛好する作品であった。モーツァルトの交響曲第40番には「ぞくぞくする」と言い、ベートーヴェンの交響曲については「ベートーヴェンの後でさらに何ができるのか」と語ったという。シューベルトの人生はちょうどベートーヴェンの後半生に相当するのであるが、ウィーン古典派の様式、つまりハイドンに始まりモーツァルトによって確立された「ソナタ形式」は、ベートーヴェンで完成されてしまっていた。しかも、彼らの音楽はすでにその役割を終えつつあり、最後の余光を放つに過ぎなかった。そこでシューベルトが古典派のスタイルを踏襲するにはもはや遅すぎ、そうかといって「形式を切り崩す」ことに存在意義を見出そうとする次世代のロマン派の到来には早すぎた。シューベルトはロマン派の萌芽を誘ったが、結局、シューベルトの交響曲が生前に演奏された記録はなく、出版もされることはなかった。いわば過渡期であったわけだが、リートはウィーン古典派にとって中心的領域ではない。それにもかかわらず、シューベルトがリートに夢中になっていく。時代は市民の時代に移行しつつあり、市民がサロンで楽しむためのリートなどの需要が興ってきていた。
時代の要請の変化はリートが求められるようになっていくが、コンヴィクトで シューベルトは歌曲の作曲指導をサリエリから受けている。しかし、イタリア出身のサリエリはイタリア歌曲の作曲をシューベルトに勧め、ドイツ語による歌曲は指導しなかった。シューベルトの心を掴んだのが、ツムシュテークのリートだった。『彼はツムシュテークのリートを何冊も広げて、これらのリートが心を完全に捕らえていると言った。我々がシューベルトの辿った道に感謝しなければならないのは彼の少年時代における、この愛着なのである。彼がどれほど模倣から遠かったことか、彼の進んだ道がどれほど独自のものであったことか。彼は、たいそう気に入ったツムシュテークのリートを別のやり方で作曲しようとしたのである。』このようにコンヴィクトの友人シュパウン( Josef von Spaun, 1788〜1865 )が証言している。斯く云うリートに「規範」を与えていたのは、北ドイツのライヒャルト( Johann Friedrich Reichardt, 1752〜1814 ) やツェルター( Carl Friedrich Zelter, 1758〜1832 )に代表される「ベルリン・リート楽派( Berliner Liederschule )」であった。北ドイツから空間的にも遠いウィーンにいたためにベルリン・リート楽派の運動から疎遠でいられたのかもしれない。しかし何よりシュー ベルトがツムシュテークに範をとったのは、日々ウィーン古典派の芸術性の高い音楽に親しみ、彼らを敬愛していたことが大きい。そのことが旋律の多様な変化から程遠いリートよりも、ツムシュテークのリートに自己の創作の模範を見いだしたのは音楽環境的に自然な成り行きだった。たとえば同じゲーテの詩『野ばら Heidenroslein 』に基づいてシューベルトが作曲したリートとライヒャルトの作品を対比させたとき、シューベルトの『野ばら』を面白いと判断するだろう。ライヒャルトが「リートは普通に歌が歌える声の持ち主ならば誰でも歌えるものでなければならない」と説いているように、彼らはリートの単純化の維持につとめリートの高度な芸術化に前向きでなかったのである。シュヴァーベンの作曲家であるツムシュテーク( Johann Rudolf Zumsteg, 1760〜1802 )は南ドイツのリート作曲家として知られていた。彼のリートはバラーデ( Ballade )としての特徴を強くあらわしている。すなわち劇的効果を旨とし、旋律がドラマティックに変化していくスタイルをとっているのである。こうした作曲法に基づくリートはかなり斬新な試みであった。
1982年11月2〜5日ドイツ、イスマニング城でのセッション、ステレオ・デジタル録音。1983年初発。
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