34-10236

商品番号 34-10236

通販レコード→独ブラック銀文字盤

ドレスデンの管弦楽のための協奏曲 ― アントニオ・ヴィヴァルディはローマで活躍したことは有名ですが、これはドレスデンのオーケストラのために作曲された協奏曲です。そして、このオーケストラに献呈された協奏曲や、合奏曲、ソナタの数々があります。ヴィヴァルディの有名な「四季」は、弦楽合奏と通奏低音の協奏曲ですが、これにリコーダー、オーボエ、ファゴット、ホルンといった管楽器が含まれているドレスデン版が存在します。この〝ドレスデンのオーケストラ〟、つまりドレスデン宮廷の管弦楽団の大きな特徴は、管楽器群のレベルが高いことでした。ドイツ東部の古都ドレスデンは、ザクセン王国の首都であった伝統ある街で、見渡す限りの美しい景観が広がります。緑あふれる丘や、エルベ川河畔に建ち並ぶバロック様式の古い町並みなど、古き良きドイツの情景を感じられるでしょう。この州都ドレスデンにある州立(国立)歌劇場を、人々は親しみを込めて「ゼンパー・オーパー」と呼びます。このゼンパーとはドイツの建築家ゴットフリート・ゼンパー(1803〜1879)のことで、ドレスデンの宮廷劇場やウィーンのブルク劇場を建てた人です。しかしここの専属オーケストラであるシュターツカペレ・ドレスデンは更に歴史が古く、1548年にザクセン選帝侯の宮廷楽団として設立、現存するオーケストラとしては1448年に設立されたデンマーク王立管弦楽団に次ぐ長い歴史を有する楽団です。17世紀にはすでに楽長ハインリッヒ・シュッツを擁し中部ドイツにおける重要な音楽都市になっていました。その歴史の証明として、ザクセン州立図書館にはドレスデンの宮廷と縁のあった作曲家の自筆譜を含め、多くの手稿譜が現存する。これらはザクセン選帝侯宮廷がかつて所有していたものです。1710年頃からドレスデン宮廷楽団のコントラバス奏者として仕えるヨハン・ディスマス・ゼレンカは、1717年から楽長を務めていたヨハン・ダーヴィド・ハイニヒェンが病気で仕事が遂行できなくなると、ゼレンカが彼の仕事を代行していたうえ、ハイニヒェンが没した1729年後も楽長職は空席のままで、ゼレンカがその任務にあたっていたため、のちにザクセン選帝侯の「教会音楽家」の地位に付き、多数の宗教曲を残しています。あるいは、ザクセン選帝侯国内のライプツィヒで聖トーマス教会カントルを務めるヨハン・ゼバスティアン・バッハも「ドレスデン宮廷楽団での肩書」を求めて、後に『ロ短調ミサ』として完成される〈キリエ〉と〈グローリア〉を献呈している。当時バッハは雇い主であるライプツィヒ市参事会と軋轢を繰り返していたため、ザクセン選帝侯から肩書を賜ることで、自らの立場の改善、さらには「宮廷音楽家」という社会的ステータスの向上を求めての箔付けといえるものだった。とりわけ興味深いのが、ゼレンカやバッハがザクセン選帝侯宛てに作品を献呈したほぼ同じ頃、ヴィヴァルディの自筆譜や自筆部分を多分に含む声楽曲の手稿譜がドレスデン宮廷にもたらされたことである。ここに所蔵されたヴィヴァルディ作品の大部分は器楽曲だが、約60点の声楽曲も含まれる。この楽曲数は、トリノ国立図書館に現存するヴィヴァルディの一大コレクションに次ぐ規模を誇る。この時期にヴィヴァルディの声楽作品がドレスデンに大量に入ってきた理由については、残念ながら未だ立証されていない。しかしヴィヴァルディを取り巻く1730年代初めの状況に鑑みたとき、ゼレンカやバッハの場合と同様、ヴィヴァルディがザクセン選帝侯に何らかの働きかけをするためにドレスデン宮廷にもたらしたのではないか。ヴィヴァルディとゼレンカ。歳も1歳違いである2人には接点があり、ローマで活躍したヴィヴァルディの音楽がドレスデン宮廷で鳴り響いた可能性は大いにあったのか。しかしヴィヴァルディの作品がドレスデン宮廷で使用された形跡はないという。これはミステリーだ。
アントニオ・ヴィヴァルディとドレスデン宮廷と関わりの中で、とりわけ大きな役割を果たすのがヨハン・ゲオルク・ピゼンデルであった。ピゼンデルはのちのザクセン新選帝侯の3度目のヴェネツィア滞在に同行し、そのときヴィヴァルディと親交を深め、彼の器楽曲を筆写するなど、多くの作品を収集し、ドレスデンに持ち帰った。ヴィヴァルディもピゼンデルのため、あるいはドレスデン宮廷のために器楽曲 ― 「ピゼンデル氏のために作曲」と記載した作品(コンチェルト6曲:RV.172, 205, 237, 242, 314, 340、ソナタ5曲:RV.2, 6, 19, 25, 29)、「ドレスデンのオーケストラのため」と記載された協奏曲(RV.576, 577)を提供したことはよく知られている。ヴィヴァルディの器楽曲の大半はピゼンデルとの交流に負っていると言える。しかし、1730年代初めにヴィヴァルディの声楽曲がまとまった形でドレスデン宮廷にもたらされた背景に、ピゼンデルは果たして関わっていたのだろうか。ヴィヴァルディの器楽曲には、スコアのみならず、パート譜で所収された作品が複数ある。しかも同一作品に複数のパート譜が現存していることは、これらが実際演奏されたことを証左するものであろう。またピゼンデルをはじめ、ドレスデン宮廷でコピストが作成した手稿譜には管楽器パートが追加されてあり、多数の管楽器奏者を抱えるドレスデンの宮廷楽団での演奏を前提になされたのであった。彼の器楽曲と違って、ドレスデン宮廷にもたらした大部分がヴィヴァルディの自筆譜や彼のコピストが作成した37曲の聖俗の声楽作品 ― 様々なジャンル(オペラのアリア、室内カンタータ、モテット、詩編)に、パート譜が残されているものは1点も見いだせないし、何らかの書き込みなども一切見られない。勿論ヴィヴァルディは声楽の作曲家、とくにオペラ作曲家としての自負もあったため、ヴィヴァルディ自身、自らが器楽の作曲家であるばかりではなく、声楽曲にも優れた腕前があることをアピールし、これらの声楽曲も実際に演奏される機会を得たならば、ドレスデン宮廷のために何らかの仕事が与えられる期待を抱いたのではないか、と推察できるのではあるが、長い歴史の結果としてザクセン選帝侯宮廷がかつて所有していたものとして、ザクセン州立図書館に保存されてきたが、おそらくヴィヴァルディの声楽作品は宮廷楽長代理を務めていたゼレンカの管理下に置かれていたものだ。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハやヤン・ディスマス・ゼレンカの場合と異なり、ヴィヴァルディの自筆を含む37曲の声楽曲は、ザクセンの新選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世宛の献呈文が添えられているわけではないし、まして完璧な清書譜でドレスデン宮廷にもたらされていないので、アントニオ・ヴィヴァルディがこれらを選帝侯に直接献呈したわけでないことは明らかである。ただし、ドレスデン宮廷のための声楽作品であった可能性を否定する根拠にはならない。1730年代初めのヴィヴァルディのオペラ活動の周囲に目を転ずれば。1720年代にヴェネツィアをはじめ、イタリア各地の劇場のために新作オペラを書いて精力的に活動していたレオナルド・ヴィンチ、ドメニコ・サッリ、ヨハン・アドルフ・ハッセといったいわゆるナポリ派の作曲家たちがメタスタージオの台本によるオペラでヴェネツィアに進出し、1720年代終盤から成功を重ねていくなかで、ヴィヴァルディが新作オペラを手掛ける機会は明らかに少なくなる。1730年頃、ヴィヴァルディは少なくとも2度、イタリアを離れ、国外でおそらくオペラの仕事をしているのも、焦りを感じての、新しい活動の場を求めたゆえのことだったのかもしれない。ただし、1730年代初めにドレスデン宮廷にもたらされたヴィヴァルディの声楽作品は、彼の自筆譜や自筆部分をかなり含み、コピストも彼との繋がりが見いだせるため、ヴィヴァルディ自身の直接関与のもとで作成されたものと結論付けられている。器楽曲の楽器編成以上に、ドレスデン宮廷を対象にしていたことが声楽曲に顕著にある。ザクセン州立図書館に所蔵されている「アントニオ・ヴィヴァルディ氏作」と記された〈楽器伴奏付きソロ声部のための主の僕たちよ〉(詩編RV.601)は、自筆部分を多分に含むほぼ同じ内容の作品がトリノ国立図書館に現存する。この詩編には他の曲にみられない高音の〝d’’’〟音が登場する。それは、超高音を駆使することができるドレスデン宮廷のソプラノ・カストラート、ジョヴァンニ・ビンディを念頭に置いて、当初からドレスデン用に書き下ろした作品なのではと推察している根拠である。ビンディは1730年からドレスデン宮廷に任用されるが、ヴィヴァルディはおそらくビンディのことを知っていた可能性を強める。そこから「24のアリア集」等もほぼ同じ頃、ドレスデンの演奏慣習に合わせて書かれ、ドレスデン宮廷にもたらされたものと考えることは妥当であろう。ヴィヴァルディの親友、ヨハン・ゲオルク・ピゼンデルは1728年にはフランス人ヴァイオリン奏者のヴォルミエの後を継いで、ザクセン選帝侯宮廷楽団のコンサートマスターに昇進していた。
ドレスデンの宮廷楽団の歴史は、1548年に選帝侯モーリッツが16人ほどの声楽家からなる宮廷楽団を創始して始まります。1600年頃には40人規模になり、宮廷劇場でオペラが上演されるようになると、さらにその規模は大きくなりました。長年宮廷楽長を務めたハインリッヒ・シュッツは、1627年、ドイツ最初のオペラ作品「ダフネ」を作曲して初演しています。ゼンパー歌劇場の前身である最初の歌劇場がオープンしたのは、1667年1月27日。その後ポーランド王にしてザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世とその嫡男、フリードリヒ・アウグスト2世の治世(1694年~1763年)にドレスデンは大きな繁栄を遂げますが、宮廷楽団も手厚い庇護の元、その音楽的レベルを大幅に向上させました。そして1719年にはツヴィンガー宮殿内に本格的な歌劇場が完成し(1849年に焼失)、イタリア・オペラが盛んに上演されるようになりました。ヨーロッパ最大規模の宮廷楽団を擁していたドレスデン宮廷では、1719年9月に挙行された新選帝侯とマリア・ヨーゼファの結婚祝典のためにセネジーノやマルゲリータ・ドラスタンティらイタリア人歌手が雇われたが、早くも1720年2月に莫大な経費がかかるイタリア・オペラ団は解散され、イタリア人歌手すべてが解雇された。その一方で宮廷では、1724年にイタリア人歌手獲得に向けて新たな計画が始動した。すでに名声を築いた歌手を招聘するのではなく、キャリアのない若手を教育するために宮廷が費用を負担するという計画である。その教育の地はイタリア。アントニオ・ヴィヴァルディはドレスデン宮廷のために若手歌手が育成され、近い将来ドレスデンで活躍するようになることを知っていたに違いない。イタリアで教育を終えた後、1730年に6名の歌手をドレスデン宮廷は雇い入れている。マリア・ローザとアンナのネーグリ姉妹、マリア・サンティーナ・カッターネアとジョヴァンニ・ビンディがその中にいた。しかも、ネーグリ姉妹とカッターネアが教育を施された場が、ヴィヴァルディと縁が深い、捨て子養育院ピエタであった。しかも、アンナ・ネーグリは1727年秋から1728年カーニヴァルの間にサンタンジェロ劇場でヴィヴァルディのオペラ3作に出演しているので、超高音域の〝d’’’〟音を持つビンディを想定して〈楽器伴奏付きソロ声部のための主の僕たちよ〉(詩編RV.601)は、ドレスデン用に書かれていたのではなかろうか。
ヨハン・ディスマス・ゼレンカが番号付けしたアントニオ・ヴィヴァルディのカンタータやモテットがドレスデン宮廷にもたらされた時期は、楽長職は不在、宮廷副楽長ジョヴァンニ・アルベルト・リストーリもドレスデン不在であったため、宮廷楽長代理を務めていたゼレンカに声楽曲の管理は任されていた。そのような最中の、1733年2月1日、ポーランド王にしてザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世がワルシャワで逝去し、フリードリヒ・アウグスト2世が選帝侯位を継いだ。君主の交代はしばしば政策の変更、組織の交代等をもたらす。宮廷楽団の音楽家たちも新しい君主に新体制に対する希望、地位の確保などの要望書を提出した。さっそくゼレンカが、1733年11月に口火を切った。楽長職への昇進を嘆願し、これまで任されていた教会音楽ばかりではなく、イタリア・オペラを作曲する手腕を示すために、新選帝侯となった2世に8曲のイタリア語によるアリア(ZWV.176)を献呈している。彼はその後も請願を繰り返し、最終的には「教会音楽家」の地位を得ることとなった。ゼレンカばかりではなく、リストーリも高い地位への昇進を狙っていたし、先の選帝侯が熱を上げていた有名な歌手のファウスティーナ・ボルドーニを妻に持つ、ヨハン・アドルフ・ハッセが宮廷楽長として1734年にドレスデンに着任してからは、ハッセが聖俗いずれの声楽曲の分野においてもきわめて重要な役割を演じることになる。このハッセの妻ファウスティーナは、当時の声楽家にあふれていた時代において最も優れた歌手の一人であったといわれていた。ハッセが作曲した作品には、120作品に及ぶオペラのほか、オラトリオ、カンタータ、ミサ曲、その他ほとんど全ての器楽曲が含まれる。18世紀前半の他の作曲家たちと同じように、ハッセは主に弦楽器によって構成される小オーケストラを用いていた。彼のアンサンブルは興味を惹くような特色は持っていない。また劇的な情熱を作品にもたらしたいと彼自身は欲していたものの、優しく誠実なメロディの知識が豊富であり、そのことが彼の生涯における莫大な人気の源であるといえる。惜しいことに、選帝侯の出費によって完全版として出版される予定で集められた彼の写本のほとんどが1760年のプロイセン人によるドレスデン包囲の際に焼失した。これらを総合的に考えれば、もしヴィヴァルディが何らかの野心のもとで37曲の声楽曲の手稿譜をドレスデンにもたらしたのであれば、宮廷楽長職を狙っていたゼレンカにとってその行為は好ましからざるものであったはずであり、ヴィヴァルディの声楽曲がドレスデン宮廷の音楽活動に取り込まれる余地などなかったことは想像に難くない。しかしまた、これらのヴィヴァルディ作品がザクセン州立図書館に現存するのは、楽長代理として長年ドレスデン宮廷に仕えたゼレンカがこれらを散逸させることなく整理し、保管したからこそであったという事実もみ過ごすことはできない。
アントニオ・ヴィヴァルディの協奏曲 ト短調《ドレスデンのオーケストラのために》(Concerto in sol minore "Per l'orchestra di Dresda")RV.577は、特に第3楽章のはじめの主題では、ファゴットに難しい技術を要求している。この部分のファゴットの動きは《海の嵐》に似ている。にも関わらず、ファゴットの担当はヴァイオリン・ソロの伴奏にすぎない。つまり、ソロの主になるヴァイオリンにはさらに増しての技術が要求される。この協奏曲の献呈先である〝ドレスデンのオーケストラ〟、ドレスデン宮廷管弦楽団は当時、ヴィヴァルディの親友であるヨハン・ゲオルク・ピゼンデルが監督を務めていた。ピゼンデルは当時の最も進歩的なドイツ人ヴァイオリン奏者であり、トマゾ・ジョヴァンニ・アルビノーニやヴィヴァルディ、ゲオルク・フィリップ・テレマンからもヴァイオリン協奏曲を献呈されている。ヴァイマルでヨハン・ゼバスティアン・バッハと出会い、ライプツィヒではテレマンに紹介されると意気投合して、その創設による楽団「コレギウム・ムジクム」に加わり、楽団員として熱心な活動を続けた。その後当時ヨーロッパ随一のオーケストラであったザクセン宮廷楽団において長年にわたって、コンサートマスターを務めた。ヤン・ディスマス・ゼレンカとは親友同士で、ゼレンカの死後にその作品の出版に尽力した。ピゼンデルはドレスデンの宮廷楽団に職を得て、1715年から1717年にかけてはフランスとイタリアに旅行している。旅途中の1716年にヴェネツィアに滞在して以来、ヴィヴァルディと親交があった。当時名声を誇ったヴィヴァルディに師事してヴァイオリン奏法を練磨したばかりでなく、多くのヴィヴァルディの作品を筆写してドレスデンに持ち帰った。その中には、単に筆写したものばかりでなく、ヴィヴァルディからピゼンデル、およびザクセン選帝侯の宮廷楽団に献呈された作品も含まれていた。こうしてヴィヴァルディとドレスデンのオーケストラとの親接な関係が出来上がった。このオーケストラの大きな特徴は、管楽器群のレベルが高いことであった。そして曲はドレスデンの演奏慣習に合わせて書き下ろされた。第1楽章も、ヴァイオリンの活躍が大きいが、管楽器の活躍も決して小さくはなく、ヴァイオリンとオーボエとが組んでのソロは聴き応えがある。ドレスデン宮廷で通常オーボエをヴァイオリンに重ねるという慣習をヴィヴァルディが知っていたゆえだ。また第2楽章では、独奏楽器として用いられるのはヴァイオリン、オーボエのどちらかであるが、この楽章にそぐうのはオーボエの方であろう。
指揮者・音楽学者としても知られるヴィットリオ・ネグリは、1923年ミラノ生まれ。シエナの音楽院で作曲と指揮を学んだ後、ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院に進みベルンハルト・パウムガルトナーの下でモーツァルテウム音楽院管弦楽団の副指揮者を務めた。バロック音楽を専門とし、楽譜の校訂者、研究者として知られる。特にイタリア・ナポリ楽派の作曲家ドメニコ・チマローザが38歳の時の作品「レクイエム」を復活蘇演し、録音(1968年、蘭フィリップス)した功績は高く評価された。校訂者ならではの深い理解に裏打ちされたこの演奏には非常な説得力が備わっている。イ・ムジチ合奏団の録音に際して予定されたプロデューサーが急病に倒れた際に代役を買って出て以来、フィリップス社のプロデューサーとしてイ・ムジチの「四季」やコリン・デイヴィスのストラヴィンスキー三大バレエなどのほか、小澤征爾、イタリア四重奏団などのフィリップスの看板アーティストのディスクを制作、自ら録音ディレクターを手掛けることでも有名。指揮者・音楽学者としてはヴィヴァルディの声楽曲の復活に尽力し、フィリップスにも録音を残しています。フェリックス・アーヨがヴァイオリンのソロを弾く「四季」の演奏。1959年ステレオ録音の2度めの「四季」は今でも決定的名盤として知られているが、彼がイ・ムジチを退団した後の1975年にイ・ムジチとも縁の深い、音楽学者のネグリがベルリン室内管弦楽団を指揮した録音にもソロを弾いている。その間、1969年にはアーヨの跡を継いだロベルト・ミケルッチが、イ・ムジチで「四季」を録音している。アーヨらしい伸び伸びとした南国的音色は健在であるものの、オーケストラがドイツの楽団であることが、この《ドレスデンのオーケストラのために》の協奏曲で、ドレスデンのオーケストラの中で、ピゼンデルがソロを披露している様子を彷彿する。これがヴィヴァルディの狙いだったのか。
  • Record Karte
  • Antonio Vivaldi ‎– Concerti Con Molti Istromenti:Concerto "Per L'orechestra di Dresda" P 383, Concerto C-Dur "Per La Solennita Di San Lorenzo" P 84, Concerto G-Moll P 359, Concerto C-Dur P 16. Bassoon – Wolfgang Liebscher, Cello – Clemens Dillner, Joachim Bischof, Chalumeau – Hans Tuppak, Manfred Weise, Flute – Arndt Schöne, Wilfried Gärtner, Harpsichord – Hans Otto, Mandolin – Elisabeth Fietz, Erhard Fietz, Oboe – Kurt Mahn, Organ – Christoph Albrecht, Theorbo – Franz Just, Roland Zimmer, Trumpet – Bernd Hengst, Rudolf Haase, Violin – Alfred Schindler, Artur Meyer, Friedrich Franke, Joachim Zindler, Peter Mirring, Reinhard Ulbricht.
  • DE  ETE  8 25 955 ウルブリヒト ヴィヴァルディ・ヴ…
  • DE  ETE  8 25 955 ウルブリヒト ヴィヴァルディ・ヴ…
Antonio Vivaldi: Concerti Con Molti Stromenti [LP]
Staatskapelle Dresden Vittorio Negri
Philips
2018-11-20