34-19598
商品番号 34-19598
通販レコード→独ターコイズ&ホワイト・Vラベル黒文字盤
序奏からズドンとヘビィ級の音塊をぶつけてきます。 ― しかし野暮ったくはない。序奏が終わっても、一切慌てず騒がず。この辺、フランツ・コンヴィチュニーならではの堂々とした音楽作りが堪能できます。言うまでもないことですがベートーヴェンが250年前に作ったスコアを録音が発明された20世紀から以降の、120年間ほどの演奏を私たちは聞き返している。名指揮者パウル・ファン・ケンペンが死去した後、志鳥栄八郎が「あれほど騒がれていた彼が、いまそうでなくなった。演奏家というのは死んだらおしまいだ」と言っていた。とはいえ名演奏家が死後、レコードで聴き継がれるケースも有る。どんなに録音技術が進んでも、それは生の姿を十全には伝え得ないが、演奏家の音をいたずらに増幅・美化させることも出来てしまうのが録音技術でもある。ドイツの伝統を継承する巨匠コンヴィチュニーのベートーヴェンは、彼の至芸を愛でる者にとっては格別のレコードです。聞き手の耳をさっと捕まえてしまうような魅力には乏しいかもしれません。聞き手の耳をすぐに虜にするような愛想の良さや声高な主張もありません。まず、すぐに気がつくのは、今ではなかなか聞くことのできなくなったふくよかで暖かみのあるオーケストラの響きの素晴らしさです。きらきらした華やかさとは正反対の厚みのある響きです。弦もいいですが、特に木管群の響きが魅力的です。確かに、昨今のオーケストラと比べれば機能的とは言えないのでしょうが内部の見通しも良く透明感も失っていません。とは言え、コンヴィチュニーの基本は「淡麗辛口」です。ドンと構えていて、ここぞというところではぐっと力こぶが入る「野蛮さ」みたいなモノが残っている演奏。隅々まで指揮者の指示が行き届いていて、まさにコンヴィチュニーという指揮者が信じるベートーヴェン像が確固として提示されている。この時代にまで連綿と引き継がれてきた伝統的なベートーベン像を見事なまでに具体化してくれているということです。ドイツの伝統に立脚した堅固な造形と重心の低い〝いぶし銀〟とも例えられた響き、安定したテンポによる誇張を排した表現は彼ならではの存在感がある。推進力は強めで、それは良いのだが、重厚な演奏が多いコンヴィチュニーにしては軽快さが印象的で、あまり刻むことなくスムーズに先に進んでいく。第2楽章はゆったり目のテンポで切々と悲哀な感じに歌い上げてじっくり盛り上げてくれます。この辺りから、聴きなれた〝ウィーン・フィルを指揮したカラヤンの第7番〟と重なって聴こえてくる。第3楽章スケルツォの、なかなかの爽快感。そして第4楽章は、木管楽器がよく聞こえてくるようなバランスを保つので野卑になりません。重心の低い、渋い演奏のベートーヴェンです。カラヤンもドイツ音楽に真髄を聴かせていたといえることで、1960年初頭にはクリュイタンス、クレンペラー、ワルター、クリップスのベートーヴェンが目白押し。こういった方向性は、その道の大家であるカラヤンに任せておけば良いのであって、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏には、とても芯が太く重厚で細部に至るまで全く手抜きの無い、しっかりした構成で旧東ドイツ時代のベートーヴェン演奏の見本を感じさせる。それにとどまったのは残念なところで、それは〝ベートーヴェンの交響曲第7番〟の演奏の難しいところなのだろう。
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ナチス・ドイツと東ドイツの全体主義体制の両方で活動し、いかにもドイツ的な指揮者ということであるが、政治的な危険な目に遭うことを避けることに成功した。フランツ・コンヴィチュニー(Franz Konwitschny, 1901〜1962)は1901年8月14日、オーストリア=ハンガリー帝国支配下時代のチェコ、モラヴィア北部のフルネクでドイツ系植民の音楽家の一家に生まれた。ブルノ・ドイツ音楽協会付属音楽学校、ライプツィヒ音楽院で学ぶ。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー時代のゲヴァントハウス管弦楽団でヴァイオリン、ヴィオラ奏者として活動をスタート。1925年、ウィーンへ出てフィッツナー四重奏団員。フォルクス音楽院でヴァイオリンと音楽理論を教える。フルトヴェングラーの他にもブルーノ・ワルターやオットー・クレンペラーなどがゲヴァントハウス管弦楽団の客演指揮者を行っていたためか、1927年、指揮者に転向。シュトゥットガルト歌劇場に加わり、コレペティトール(練習指揮者)を始める。そして3年後には1930年、シュトゥットガルト・ヴュルテンベルク州立劇場第一指揮者に就く。その後は1933年、フライブルク市立歌劇場音楽総監督。1938年、フランクフルト市立歌劇場および同博物館管弦楽団の音楽総監督を歴任する。冷戦開始後は東ドイツを中心に東側諸国で活動する。1945年終戦後、ハノーヴァー歌劇場音楽総監督。1949年、ゲヴァントハウス管弦楽団楽長(カペルマイスター)に就任。1962年の死までその地位にあって、長期にわたり楽団とともに活動を行った。戦争によって深い傷を負った同オーケストラの復興に、コンヴィチュニーは相当な努力を行った。10年以上にもわたって楽団と苦楽を共にしたためか、その演奏は明晰さを湛えた緻密なものであった。またこれと並行してオペラ分野では、ハンブルク国立歌劇場指揮者(1949〜62)を経て、ドレスデン国立歌劇場首席指揮者(1953〜55)も兼務。ついで、エーリヒ・クライバーの後任としてベルリン国立歌劇場(1955〜62)の首席指揮者も務め、1952年、東ドイツ国家賞を受け、名実ともに東ドイツの最高の指揮者となった。1961年4月にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が初来日し、大阪公演及び東京公演で日本初のベートーヴェン・チクルス(交響曲全曲演奏)が実現された時の指揮者でもある。1962年7月28日に演奏旅行先であるユーゴスラヴィアのベオグラードでベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』のリハーサル中に心臓発作により死去した。なお、東ドイツ政府は飛行機で帰国した偉大なマエストロの亡骸を国葬でもって弔った。
1959年6月ライプツィヒ、ベタニア教会でのセッション・ステレオ録音。
DE ETERNA 8 20 416 フランツ・コンヴィチュニー べ…
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