34-19183
商品番号 34-19183
通販レコード→独ターコイズ&ホワイト・ラベル黒文字盤
衒いの無い、造形のしっかりした、美しい良い演奏。そして録音秀逸、驚きます。 ― ドイツの伝統を継承する巨匠フランツ・コンヴィチュニーのベートーヴェンは、彼の至芸を愛でる者にとっては格別のレコードです。コンヴィチュニーの主要なレパートリーはモーツァルトとベートーヴェンからブラームスまでの交響曲とワーグナーのオペラだったが、他の作品にも親しみ、わずか十数年という録音期間にもかかわらずゲヴァントハウス管弦楽団を中心にかなりの数のレコードを残している。いかにもドイツ的な指揮者ということであるが、生まれはチェコ。ワーグナーやブルックナーはゲルマン魂の権化のようで、しかしマーラーはやらない。一聴すると全盛期の彼の芸風は、より感情の起伏を織り込んでいるようで、かなり感情的な演奏になっています。なかでも代表作であるベートーヴェン交響曲全集は、ドイツの伝統に立脚した堅固な造形と重心の低い〝いぶし銀〟とも例えられた響き、安定したテンポによる誇張を排した表現は彼ならではの存在感がある。聴きなれたウィーンの典雅で、きらびやかな演奏の対極と思えばわかりやすい。重心の低い、渋い演奏のベートーヴェンです。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏には、とても芯が太く重厚で細部に至るまで全く手抜きの無い、しっかりした構成で旧東ドイツ時代のベートーヴェン演奏の見本を感じさせる。そして、この高音質。シャルプラッテンのうわさは聞いていたが録音秀逸、驚きます。何とも重厚な、格調高い音がしている。音像の立体感、奥行き、音場の広がり、一音一音の粒立ち、どれをとっても申し分なく。オーケストラ全てのパートに見通しが行き渡っていて、聴いていて心地悪いはずがない。その部分にはほとんど拘泥していないようにみえながら、結果、大きく構成されていく音楽は、いつの間にか怒濤のような迫力で聴き手を包み込む。相反する表現のようだが、これは、演奏によるものか、録音によるものかはともかく「ああ、ベートーヴェンを聴いたな。」という満足感は久しぶりだった。主題や動機を積み重ね展開させて構築する音楽を、ゆるぎなく再構築する見事さは感動を呼ばずにはいない、ということか。名演奏・名録音と言われる条件は、何度繰り返し聴いても、その度に新たな発見、新たな感動が生まれることだと思いますが、この全集は、まさにその通りの不朽の値打ちものです。
ナチス・ドイツと東ドイツの全体主義体制の両方で活動し、いかにもドイツ的な指揮者ということであるが、政治的な危険な目に遭うことを避けることに成功した。フランツ・コンヴィチュニー(Franz Konwitschny, 1901〜1962)は1901年8月14日、オーストリア=ハンガリー帝国支配下時代のチェコ、モラヴィア北部のフルネクでドイツ系植民の音楽家の一家に生まれた。ブルノ・ドイツ音楽協会付属音楽学校、ライプツィヒ音楽院で学ぶ。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー時代のゲヴァントハウス管弦楽団でヴァイオリン、ヴィオラ奏者として活動をスタート。1925年、ウィーンへ出てフィッツナー四重奏団員。フォルクス音楽院でヴァイオリンと音楽理論を教える。フルトヴェングラーの他にもブルーノ・ワルターやオットー・クレンペラーなどがゲヴァントハウス管弦楽団の客演指揮者を行っていたためか、1927年、指揮者に転向。シュトゥットガルト歌劇場に加わり、コレペティトール(練習指揮者)を始める。そして3年後には1930年、シュトゥットガルト・ヴュルテンベルク州立劇場第一指揮者に就く。その後は1933年、フライブルク市立歌劇場音楽総監督。1938年、フランクフルト市立歌劇場および同博物館管弦楽団の音楽総監督を歴任する。冷戦開始後は東ドイツを中心に東側諸国で活動する。1945年終戦後、ハノーヴァー歌劇場音楽総監督。1949年、ゲヴァントハウス管弦楽団楽長(カペルマイスター)に就任。1962年の死までその地位にあって、長期にわたり楽団とともに活動を行った。戦争によって深い傷を負った同オーケストラの復興に、コンヴィチュニーは相当な努力を行った。10年以上にもわたって楽団と苦楽を共にしたためか、その演奏は明晰さを湛えた緻密なものであった。またこれと並行してオペラ分野では、ハンブルク国立歌劇場指揮者(1949〜62)を経て、ドレスデン国立歌劇場首席指揮者(1953〜55)も兼務。ついで、エーリヒ・クライバーの後任としてベルリン国立歌劇場(1955〜62)の首席指揮者も務め、1952年、東ドイツ国家賞を受け、名実ともに東ドイツの最高の指揮者となった。1961年4月にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が初来日し、大阪公演及び東京公演で日本初のベートーヴェン・チクルス(交響曲全曲演奏)が実現された時の指揮者でもある。1962年7月28日に演奏旅行先であるユーゴスラヴィアのベオグラードでベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』のリハーサル中に心臓発作により死去した。なお、東ドイツ政府は飛行機で帰国した偉大なマエストロの亡骸を国葬でもって弔った。
1960年3月ライプツィヒ、ベタニア教会でのセッション・ステレオ録音。
DE ETERNA 8 20 415 フランツ・コンヴィチュニー べ…
DE ETERNA 8 20 415 フランツ・コンヴィチュニー べ…