34-17551

商品番号 34-17551

通販レコード→独ラージ・ドッグ・セミサークル黒文字盤[Very Rare]

自在な境地で、なおノーブルな気質が光ります。 ― ポール・トルトゥリエの演奏は音楽に没頭するのではなく、その力みのないさりげない演奏は作曲者の意図を冷静に客観的に楽しみたい時に、まさにピッタリ。トルトゥリエの演奏は、男性的な太い音と、率直で飾らぬ真摯な表現の中に、深い精神性が湛えられたものと絶賛され、現在も多くのファンを虜にしています。彼の音楽に対する姿勢は、一音一音の、音の長さ、強弱、運指、弓の動き、それらを微細に探求されていながら、そして最終的に大きな目で見てみると驚く程全てが美しく構成されているということがよく分かります。その演奏には、弛まぬ努力のほか、作曲、指揮、そして教育にまで及んだ幅広い音楽との関わりも大きく影響していたと思われ、また、パブロ・カザルスに私淑し、プラド音楽祭にも参加、さらにカザルスらと共に、音楽に精神を呼び戻すという運動を推進していたことからも、音楽表現における精神の在り方について、トルトゥリエが常に真剣に取り組んでいたことは明らかです。実際、内なる声を大切にした彼の演奏は、バッハの無伴奏チェロ組曲から素晴らしく深い音楽を引き出していますし、コンチェルトや室内楽でも、自らの道を迷わず歩む求道者のような剛毅な音楽を奏でていたのが印象的でした。トルトゥリエは、1914年3月21日にパリに誕生。6歳でチェロを習いはじめ、10歳のときにパリ音楽院に入学、16歳でチェロ科を一等賞で卒業し、パリでデビュー・リサイタルを開くほどの早熟の天才でしたが、トルトゥリエは再びパリ音楽院に通い、今度は対位法と作曲を学び、ハーモニーの部門で一等賞を得ます。パリ音楽院をあとにしたトルトゥリエは、まずモンテカルロ国立歌劇場管弦楽団の首席奏者に迎えられ、2年後にはボストン交響楽団の首席に転進、第二次世界大戦中はパリ・フィルハーモニー協会管弦楽団の首席をつとめ、終戦後2年間はパリ音楽院管弦楽団の首席奏者として活躍、1947年からはソリストとして演奏活動を行うこととなります。以後、40年以上に渡って世界的な名声を博したトルトゥリエは、演奏理論書のほか、チェロを水平に傾かせる、独特の形状のエンドピンまで考案する多才な人でもありました。1990年12月18日、トルトゥリエはパリ郊外の音楽学校でチェロを教えていましたが、その際、自室に楽器を取りに行ったときに心臓発作に襲われ、チェロに凭れ掛かったまま亡くなっているのが発見されたということです。いつもパワフルで気さくだったトルトゥリエを象徴するかのような最期でした。暖かく愉悦感に溢れた演奏には御大の人柄が滲み出ている。本盤は有名協奏曲から、自作曲が3曲、小品はサン=サーンスやフォーレなど、トルトゥリエの優しさの中に凛とした美質が沢山詰まったセットです。
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サー・エードリアン・ボールト指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団との、エルガーの《チェロ協奏曲ホ短調 Op.85》。収録はロンドンにて1972年10月29,30日に行われた。チェロをアップで録るのではなく、自然な音場感を提示した中にチェロをそれらしいサイズに定位させる好録音。ポール・トルトゥリエの演奏は音楽に没頭するのではなく、その力みのないさりげない演奏は作曲者の意図を冷静に客観的に楽しみたい時に、まさにピッタリだし、よりエルガーらしいともいえる。彼はあのジャクリーヌ・デュ=プレの師としても知られている。両者を結びつけるところも感じられ高名な弟子のデュ=プレ盤と比較試聴するのも一興かと思います。1919年、「ブリンクウェルズ」で完成された《チェロ協奏曲》は、とても美しい曲だが、悲劇の匂いが感じられて、それが離れることがない。この曲が作曲された翌年エルガーの愛妻アリスが世を去ってしまう。つまりアリスが最後に聴いたエルガーの新作が、この曲であったのだ。第1楽章は、その哀しみを暗示しているかのように切ない。エルガー自身がこの曲の録音をする際に2度ともに起用した女流チェリストのビアトリス・ハリソンの演奏によって、この曲は広く親しまれるようになったが、その演奏スタイルは後のジャクリーヌ・デュ・プレの神々しいまでの演奏の出現を予感させる。1965年20歳のデュ=プレは、ジョン・バルビローリとロンドン交響楽団の伴奏で、この曲の録音を行い、今なお決定盤としての地位は不動である。「グラモフォン」誌が選定した20世紀の名録音という企画で、1位に輝いたショルティの《指輪》に続いて第2位に選ばれたのは決して過大評価ではない。このエルガーの《チェロ協奏曲》は、アリスの突然の死とデュ・プレの悲劇という2人の女性の運命を連想することなしに聴くことはできない。エルガー62歳の時、アリスは70歳になっていた。この頃になるとアリスの体調が思わしくなかったので、養生のためにまた夏の間に滞在するために、ウェスト・サセックス州のフィトルワース近くの山荘を見つけ名付けた家が「ブリンクウェルズ」。アリスの静養という面においても有効であったが、第一次世界大戦が起こり、戦争がエルガーの周りの何もかもを狂わせてしまった。彼の作品は「時代遅れ」の烙印を押され、世評の冷たい攻撃にさらされることもあった。またエルガーの作品を最初に評価してくれたドイツでも敵対国の作曲家ということで人気は凋落してしまっていた。心身共に疲れ果てたエルガーもまた体調を崩してしまい静養を求めていた。その中で内省的な室内楽を中心とした ― ヴァイオリン・ソナタ、弦楽四重奏曲、ピアノ五重奏曲、チェロ協奏曲 ― 美しい作品群が作曲された。地味ではあるが、エルガーが作曲家として達した最後の境地と言えるだろう。「木々が私の曲を歌っている。或いは私が彼らの曲を歌うのか」というエルガーの言葉は生き続けている。翌年春、アリスは71歳の生涯を閉じる。エルガーは書いている。「私が成し遂げたことは妻のお陰によるものが大きい」。どれもこれも郷愁と懐古に満ちた白鳥の歌を思わせる清らかさを持っている。特にアリスが気に入っていた作品ばかりである。2人とっては、この世で過ごした最後の楽しい夏であった。

THE ART OF PAUL TORTELIER

Side-A
  • エルガー:チェロ協奏曲ホ短調 Op.85
Side-B
  • ブラームス:二重協奏曲(ヴァイオリンとチェロのための)イ短調 Op.102
Side-C
  • ドヴォルザーク:チェロ協奏曲ロ短調 Op.104
Side-D
  • チャイコフスキー:ロココの主題による変奏曲 Op.33
Side-E
  • トルトゥリエ:組曲ニ短調(ソロ・チェロのための)
  • J.S.バッハ:チェロ組曲第3番ハ長調 BWV1009
Side-F
  • パガニーニ:ロッシーニの『モーセ』の『汝の星をちりばめた玉座』の主題による序奏と変奏曲 Op.24(編:トルトゥリエ)
  • サン=サーンス:アレグロ・アパッショナート(チェロと管弦楽のための) Op.43
  • サン=サーンス:白鳥(~『動物の謝肉祭』)
  • リムスキー=コルサコフ(編:ローズ):くまんばちの飛行(~『サルタン皇帝の物語』)
  • トルトゥリエ:3つのミニアチュール(2つのチェロのための)
  • トルトゥリエ:ヴァルス第1番『モード風に』
  • フォーレ:シシリエンヌ Op.78
サー・エイドリアン・ボールト(Adrian Boult, 1889~1983)は、20世紀の英国の生んだ最もノーブルな指揮者として知られています。オックスフォード大学を経て、ライプツィヒ音楽院に留学、マックス・レーガーに作曲を学ぶかたわら、ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者だったアルトゥール・ニキシュに私淑し、大きな影響を受けています。イギリスに帰国後、直接親交のあったエドワード・エルガー、グスターヴ・ホルスト、レイフ・ヴォーン=ウィリアムズらイギリスの作曲家の作品を取り上げて高く評価され、1930年には新しく創設されたBBC交響楽団の初代首席指揮者に就任、幅広いレパートリーをイギリスに紹介しています。中でもボールトの代名詞ともいうべき作品がホルストの組曲「惑星」です。1945年のBBC響とのSP録音(EMI)を皮切りに、ボールトは生涯に「惑星」を5回録音も録音しています。1918年9月ロンドンのクイーズ・ホールにおける作品の非公開の全曲演奏(私的初演)が行われた際にホルストからの依頼で指揮をとったのがボールトであり、その成功によって《惑星》に初めて輝きをもたらし、作曲者の感謝を受けたエイドリアン・ボールトにという献辞の書き込まれた印刷譜を作曲者から送られています。戦後はロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、バーミンガム市交響楽団の首席指揮者を歴任しつつ、イギリス音楽界の大御所として1981年、92歳という高齢で引退するまで矍鑠とした指揮活動を続けました。ボールトはJ.S.バッハからハヴァーガール・ブライアンまで、幅広いレパートリーで卓越した演奏を聴かせる指揮者でしたが、最も得意とするのはイギリス音楽と、ニキシュの影響を強く受けたドイツ・オーストリア音楽でした。前者では、エルガーの交響曲第2番の復活初演やヴォーン=ウィリアムズの「ロンドン交響曲」改訂版の初演など、作曲者から盤石の信頼を置かれていたボールトならではの業績は数多く残されています。
サー・エイドリアン・ボールトというと、長命だったこともあってか晩年の老成した演奏のイメージが強いのですが、1950年代までの彼は、ときにかなりアグレッシヴな演奏も行うという、爆演も辞さぬ積極的な芸風の持ち主であったことはマニアにはよく知られています。エドワード・エルガーやグスターヴ・ホルスト等も得意としたイギリス音楽のスペシャリストとされるボールトによるレイフ・ヴォーン=ウィリアムズは、サー・ジョン・バルビローリ指揮のものと並んで決定版と言えるものです。ボールトは「私は常に指揮をとるということは、船の船長になるようなものだと思ってきた。私には石油のドラムカンといっしょにころげまわる理由はまったくない」と言った。ボールトはウェストミンスター・スクール在籍中のディナー・パーティでエルガーと出会い、自作の総譜を見せられつつ解説を受けた。オックスフォード大学で音楽の学位を得たのち、ライプツィヒ音楽院でマックス・レーガーに作曲をハンス・ジットに指揮を学びますが、この地でボールトが最も感銘を受けたのは、アルトゥール・ニキシュによるリハーサルやコンサートの数々だったといいます。ボールトは20歳代初めの若い頃、ライプツィヒで偉大な指揮者ニキシュに私淑したが、晩年に至るまで讃仰の気持ちは変わることがなかった。ニキシュは私などよりももっと簡素だった。今日、若い世代の指揮者たちには余りにも跳び回る傾向がある。もっとも、彼らはそうすることを期待されているのかもしれないがね。また最近の傾向としては、総体的な建築的構成を犠牲にしてディテール(細部)をほじくることが著しく目立っていると思う。とは、ボールトの現代批判であるが反面、聴き手はボールトに一種の安全弁のようなものを見出していたようである。少なくともイギリス人はそうであった。ボールトが英国音楽だけでなく独墺系音楽も得意としていたのは、そうした事情が背景にあるとも思われ、これまでにも両分野での人気には絶大なものがありました。日本で発売されたボールトのレコードは伴奏録音が多かったのと、紹介された録音がイギリス音楽中心だったために、我が国では「惑星」専門の指揮者のような扱いを受け不当に軽い評価しか受けませんでしたが、ベートーヴェン、ワーグナーやブラームスなどのドイツ系の作品にも説得力のある名演を残しています。
サー・エイドリアン・ボールトは、アルトゥール・ニキシュのみならず、ハンス・リヒターやフリッツ・シュタインバッハ、フェリックス・ワインガルトナーと接触があり、クロード・ドビュッシーの演奏も直接聞いている。シュタインバッハの薫陶を受けたボールトにとって、ブラームスは特別な作曲家でした。自分が確信を持って指揮することができるようになった35才まで、ただ1回の例外を除いてブラームスの交響曲を演奏することはなかったもので。ブラームスの交響曲全集で、ロンドン交響楽団がボールトと共演した際に、その音楽性の高さに感激したユーディ・メニューインが特別に楽団員としてヴァイオリンを弾いて録音に参加したというエピソードもある。ボールトは柔和な表情のうちに威厳を兼ね備えている。一見してイギリス人らしい風貌の持ち主である。イギリス人にいわせると軍服ならぬエンビの退役将軍、あるいはパブリック・スクールの老校長を想わせるというが、姿勢の正しさと無駄のないキビキビしたジェスチュアは、まさしく老将軍といった面影をそなえている。SPレコードが電気吹き込みになる以前の1920年代からイギリスの様々なレーベルに録音しているが、その中の大手である英EMIがボールトを発見したのは、1966年、ボールト77歳のときだった。80歳の誕生日祝いのコンサートを振った折り、ボールトはふと、こんなことをもらした。「レコード会社は、ほぼ10年ほど前に私がまだ生きていたってことに突然気づいた。こんなに忙しいのは嬉しいことだが、私がもっと元気だった、それより10年前(60歳代)に起こったらねえ」。一口にいってボールトは極めて地味な指揮者だったから、人気者で名物男だったサー・トーマス・ビーチャムが、1961年に82歳で没し、公衆のアイドルだったサー・マルコム・サージェントが1967年に72歳で没し、芸術の夕映えに輝いていたサー・ジョン・バルビローリが1970年に70歳で没したのち、後釜にボールトが浮上していたというわけである。晩年の10年間、ボールトの録音に協力したクリストファー・ビショップの談によると、80歳代の高齢にもかかわらずボールトの耳は以前としてシャープであり、老眠鏡もかけずに、こまごまとした手書きスコアを読むことができ、健康な食欲に恵まれ録音スタジオのキャンティーン(簡易食堂)で楽員たちと同じ食事をうまそうに平らげていたそうである。
Great Emi Recordings
Paul Tortelier
EMI Classics
2010-02-08

3枚組
DE EMI SLS2700013 ポール・トルトゥリエ チェロ曲集…
DE EMI SLS2700013 ポール・トルトゥリエ チェロ曲集…
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