34-21425

商品番号 34-21425

通販レコード→独ラージドッグ・セミサークル黒文字盤

ヴァイオリンという歌う楽器の特質を理解したヴァイオリンに最もふさわしい音楽 ― とアンネ=ゾフィ・ムターが語るように、歌うヴァイオリンの魅力を堪能できる1枚です。当時20歳のムターが巨匠アレクシス・ワイセンベルクと組んだ唯一の録音。ヴァイオリンとピアノのデュオなのに、ピアノの音の強さは感じられず、ヴァイオリンの音色を消さないで引き立てているのは、流石ワイセンベルクと言いたい。しかしながらムタ-の弓使いのテクニックは若いだけ有って非常に端切れが良い。健康的で明るく、女性的で優しい『ブラ-ムス』です。天才少女が大人になった豊潤な音色を聴かせてくれます。ワイセンベルクのメランコリックなピアノと相まってブラームスの世界観に浸れる名演、録音も優秀です。ワイセンベルクは、なかなかの男前で優しい雰囲気の人だった。1970年代初頭、ヘルベルト・フォン・カラヤンとの共演の録音、「チャイコフスキーのコンチェルト」の録音が発売され、それがベストセラーとなり、そして、日本でもワイセンベルク・ブームが起こった。1980年ころ日本へも何度か来てテレビにも登場した。演奏と同じような雰囲気を持っていた。そして、その人気に肖って、サントリーは彼をテレビ・コマーシャルに利用する。商品はサントリー・ウヰスキーの「リザーブ」である。巷では、「高価なスタインウェイを何台も所有し、そして、その中の愛器を飛行機で特別に運んで演奏する」などの情報が飛び交った。彼は日本では大人気で、普段クラシックは聴かないという層の、特に女性までに人気があった。パリ管弦楽団との共演のチャイコフスキーの協奏曲のLPは、カラヤン指揮ウィーン交響楽団、ソロがスヴァトスラフ・リヒテルのLPに惹かれていた聴き手を、見事に裏切った。ワイセンベルクのピアノは、ソリストというよりも、オーケストラの一員のような溶け込み。この時代からのカラヤンで試みようとしていた、オーケストラを映画音楽か、フレンチポップスのオーケストラのような、音響づくりの特徴が色濃くなっていた。それにしても、ワイセンベルグはどのようにも、ピアノが弾けた人だった。カラヤンとの共演によって有名になったワイセンベルクだが、それは彼の音楽の一面に過ぎない。ワイセンベルクの音楽には、過る陰りがある。孤独感漂うといっていいのか、〝硬質の美〟というものの極限を教えてくれた掛け替えのないピアニストである。
非情な状況の中、ショパンの音楽を守るように弾いた、映画「戦場のピアニスト」と重ねてしまいたくなるピアニストが、ここにも一人いる。彼もまた、ユダヤ系の家系に生まれピアニストとして生涯を送った。母がピアニストだったので、幼い頃から音楽に親しみ、3歳からピアノを習っていたアレクシス・ワイセンベルクは、8歳の年にはコンサートで演奏している。それは1937年、つまりはヒトラーのナチスが暴虐の限りを尽くしていた時代に少年期を過ごした。1941年、アレクシス少年が育ったブルガリアはナチス・ドイツと同盟を結んだ。彼の母は息子とともにトルコへ亡命しようとするが失敗し、強制収容所へ入れられる。収容所でアコーディオンを弾いていたら、音楽好きのドイツの将校に気に入られ、その将校は母子を駅に連れて行き放置した。つまり逃がしてくれたのだ。こうしてこの未来の大ピアニストはホロコーストの犠牲にならず、トルコを経て、イスラエルへ移住した。第二次世界大戦が終結すると、ワイセンベルクはニューヨークのジュリアード音楽院で学ぶことになり、渡米する。その時、イスラエルでのワイセンベルクの師だったレオ・ケステンベルクは、ニューヨークにいるウラディミール・ホロヴィッツとアルトゥル・シュナーベルへの紹介状を書いてくれた。ワイセンベルクは1947年にレーヴェントリット・コンクールで優勝、フィラデルフィア管弦楽団のコンクールでも1位を取るなど、華々しいスタートを切るが、これはホロヴィッツがウィリアム・スタインバーグ指揮ピッツバーグ交響楽団とのコンサートをキャンセルし、代役にワイセンベルクを推薦したので実現したものだった。次から次へとコンサートのスケジュールが組まれ、「自分がこなせる量より、演奏会の予定が20も多くなる」状況となった。1956年、彼は「自分自身を深く見つめ、ひたすら自分の勉強に打ち込みたかった」と、「隠遁」してしまう。ちょうどこの時期、ホロヴィッツもまた長い隠遁生活に入っていた。ワイセンベルクはアメリカを離れ、コンサートもしなければ、レコーディングもすることなく、パリで暮らすようになっていたワイセンベルクは、1965年に映画に出た。これがストラヴィンスキーの「ペトルーシュカによる三楽章」の映像化で、ワイセンベルクが自ら説明するには、「あらゆる角度から、弦を通して撮影し、下からも上からも撮影できるように、ピアノを部分的に取り外す」などの手法で撮った、1960年代の前衛的な映像の一つとなった。映画で演奏したのを引鉄に1966年1月、パリでリサイタルを開いて成功した。そして翌67年春には、ニューヨーク・フィルハーモニックのコンサートで、スタインバーグの指揮のもとラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」を弾いた。これはアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリがキャンセルしたため、スタインバーグの求めに応じた復帰という形になった。さて、映画「ペトルーシュカによる三楽章」のピアニストを協奏曲のソリストに起用してみようと注目していた、ヘルベルト・フォン・カラヤンは、ワイセンベルクとチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」の映画の撮影を行い、1967年9月、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のシーズン最初のコンサートにワイセンベルクは登場した。ついに、ワイセンベルクの長い隠遁生活に終止符が打たれ、カラヤンとの蜜月が始まり、ピアノ協奏曲の名曲の数々が録音された。
  • Record Karte
  • 1982年9月パリ、サル・ワグラムでのステレオ(アナログ/セッション)録音。
  • DE EMI 1C157 1434433 ムター&ワイセンベルク ブ…
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ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ
ムター(アンネ=ゾフィー)
ワーナーミュージック・ジャパン
2015-08-19