商品名DE DGG SLPM138 119 ヘルベルト・フォン・カラヤン ブラームス・ハンガリー舞曲、ドヴォルザーク・スラブ舞曲

赤ステレオ、ALLE HERSTELLER で始まる初期チューリップ盤 ― カラヤンがドイツ・グラモフォンにステレオ録音を開始した最初期のこの録音はフルトヴェングラーを払拭しようとするカラヤンとオーケストラに乗り移ったフルトヴェングラーの亡霊との鬩ぎ合いで熱気溢れる演奏です。》ブラームスが4手のピアノ連弾用として作曲し、ドヴォルザークや自らのオーケストラ編曲版によってより広く親しまれるようになった「ハンガリー舞曲集」と、その作品に触発されてドヴォルザークが、やはり連弾用として作曲し、後に管弦楽用に編曲した「スラヴ舞曲集」をカップリング。カラヤンがドイツ・グラモフォンにステレオ録音を開始した最初期のこの録音は、ベルリン・フィルハーモニーを見事にドライヴした熱気溢れる演奏を繰り広げています。カラヤンは何とオーケストラ物それも独墺系以外の民族的な臭いのする曲もセンスアップして分り易く聴衆に伝える事の上手い指揮者で、ジプシーのメロディーに対して、オーケストラ・ピースとして済ませない真摯に、真面目に、しかも余裕を持って完璧に捉えている。そこには民族が隣り合っているヨーロッパだからこその、それぞれの文化を尊重している姿勢と精神が伝わってくる。通俗曲だろうとクラシック音楽の演奏家のそうした伝統はヨーロッパの誇りだ。全集としては、他にも優れた名演が目白押しであるが、選集ということになると、各曲の聴かせどころをつかんで、これ以上は求められないほどの演出巧者ぶりを発揮しているのはもちろん、ハンガリー舞曲集もスラブ舞曲集も、曲の順番ではなく、曲想を踏まえ再配置し、独自の曲順に並びかえられている点においても、カラヤンのこれらの曲への深いこだわりが感じられる本盤を随一の名演としているところで、発売当初からベストセラーを記録したのもよくわかる。ドイツでは1946年、連合軍による『非ナチ化』政策が始まった。ナチだったと疑われている人々は無罪が証明されるまで公的な活動が出来なくなった。カラヤンもフルトヴェングラーも、そしてベームをはじめとする音楽家たちも、その対象となった。前年にイタリアでドイツ敗戦を迎えたカラヤンは、何回かイタリアでコンサートを指揮した後、故郷ザルツブルクに戻り、この地で一旦はナチ容疑が晴れた。ユダヤ系の女性を妻としたこと、ヒトラーに嫌われ干されていたことなど、戦争中はマイナスだったことがプラスに転じたのである。カラヤンは46年になると本格的な活動を再開すべくウィーンに向かったが、ソ連軍の命令で公演を続けられなくなる。さらにはザルツブルク音楽祭にも連合軍の命令で出演できなくなった。1948年、夏、ザルツブルク音楽祭に出演出来たカラヤンが、オペラを指揮するのは初めてだった。だが、「カラヤンが今後も、この音楽祭に出るならば、わたしは出ない」とフルトヴェングラーはカラヤン追放を求めた。斯くて、その後、天敵フルトヴェングラーによりウィーン・フィルを締め出されたカラヤンはウィーン交響楽団に活動の場を移し、とりあえず、カラヤンの戦後はウィーンを活動の拠点として始まったのである。1954年にドイツ音楽界に君臨していたフルトヴェングラーの急逝にともない、翌55年にカラヤンは、ついにヨーロッパ楽壇の頂点ともいえるベルリン・フィルの首席指揮者の地位に登りつめた。1946年1月のウィーンでの出会い以来、盟友関係にあったレッグとカラヤンだったが、カラヤンがベルリン・フィルの首席指揮者の座を射止めた頃から、両者の関係に隙間風が吹くようになっていった。EMI、フィルハーモニア管弦楽団、そしてカラヤンを束ねるのがレッグの仕事だった。カラヤンはベルリン・フィル、ミラノ・スカラ座、ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団、そしてウィーン交響楽団を抱えているではないか。どこに、ウィーン国立歌劇場の仕事の入り込む日程的な余地があるというのだ。レッグのそういう言葉には忠告の裏にビジネス上の打算もあっただろう。カラヤンがベルリン・フィルを手に入れるところまでは、レッグの思惑とも一致した。個人的利益には直結しなくなるが、フィルハーモニア管弦楽団に代わってベルリン・フィルを使ってEMIにレコーディングすればいいのだ。だが、ウィーン国立歌劇場管弦楽団はレコーディングの時はウィーン・フィルという別団体になってしまう。そしてウィーン・フィルは、EMIのライバル会社である英DECCAと専属契約を結んでいたからだ。ここで英 EMI の親分レッグとカラヤンの関係は終止符を打つが、この約10年間に残したレッグ&カラヤン&フィルハーモニアのレコードの数々は、正に基準となるようなレコードであったと断言出来ると思います。こうして英国で基準となるようなレコード作りをレッグから嫌と言うほど学んだカラヤンは、1959年以降この手兵とともにドイツ DGG に膨大な数の基準レコード作りに邁進した。広く親しまれた名曲を最高の演奏でレコード化することに情熱を傾け続けた彼の姿勢は、このアルバムにも端的に示されています。60年代のカラヤンのものがダントツに面白い。とにかくダイナミックスの幅が広く鮮やかで迫力満点。牧歌的な部分から迫力ある部分まで表現の幅が広く、リズムも引き締まっています。演奏はオーケストラに合奏の完璧な正確さを要求し、音を徹底的に磨き上げることによって聴衆に陶酔感をもたらせ、さらにはダイナミズムと洗練さを同時に追求するスタイルで、完全主義者だったレッグのノウハウが 100% DGG に流出したと言っても良いのでは、と思える出来栄えも隙が無い。DGGの製作人の中で燦然と輝く指揮者としても活躍のオットー・ゲルデス&ギュンター・ヘルマンス製作盤。1960年代初頭の録音で、ベルリンのイエス・キリスト教会が録音ロケーションになっていました。当時は初期のステレオですが、なかなか臨場感があり、カラヤンも颯爽としたときのもので、 前任者フルトヴェングラーの時代の余韻の残るオーケストラと、推進力あふれるカラヤンの指揮が見事にマッチした演奏です。
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