34-17288

商品番号 34-17288

通販レコード→独チューリップ Made in Germany 盤

スペインの哀愁、そして明るさに満ちた ― アランフェスは、首都マドリッドから南へ約47キロほどに位置するスペインが誇る古都です。概ね乾燥した中央スペイン高原地帯にあって、タホ河の恵みで樹木がよく成育し緑豊かな土地であったため、古くから王侯の憩いの場となり、素晴らしい離宮や庭園がありました。しかし、内戦中、フランコ側の軍隊がアランフェスに入城し、人民戦線側の市民を壁に立たせて銃殺するという出来事もありました。スペイン内戦が終結した後、ロドリーゴはビクトリア夫人と共にアランフェスを訪れます。目の不自由な夫に妻が語りかけます。カルロス1世からフェリペ2世の時代にかけてスペイン宮廷の離宮が置かれ、小ヴェルサイユといわれたほど壮麗な、宮殿の遺跡がいまなおのこされている、アランフェスが如何に美しい街であるか、そして、内戦で何が起こったのか。そして、ロドリーゴはそのインスピレーションを、ギター協奏曲という形式で書き上げます。ギターはオーケストラと対峙する時には、音量的に余りにも非力です。しかも、ロドリーゴ自身はピアニストでありヴァイオリンの演奏にも長けていましたが、ギターを弾けません。にもかかわらず、ギターにこだわりました。何故ならば、ギターこそスペインが生んだ民族楽器だから。アランフェスが体現しているスペインの栄光と歴史、そして哀愁と悲しみを音楽的に表現するには、ギターをおいて他のにない、という確信です。数々の作品を通じてクラシック・ギターの普及に功があったとされ、とりわけ『アランフェス協奏曲』はスペイン近代音楽ならびにギター協奏曲の嚆矢とみなされている。さて、現代における〈ギター協奏曲〉というジャンルに先鞭をつけたこの作品は、1930年代の国外遊学期に着想され、1939年、スペイン市民戦争の終わった年に完成した。ギターの技術的な面に関しては、スペイン屈指のギタリストで長らく王立音楽院教授をつとめたレヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサからの助言が大きかったという。ロドリーゴ自身の言葉によれば、この曲の中に描かれようとしたものは〝憂愁にとらわれたフランシスコ・デ・ゴヤの影、貴族的なものが民衆的なものと溶け合っていた18世紀スペイン宮廷の姿〟だという。〝形式においても情感においても、古典性と民衆性を統合したものであることを望んだ〟とも彼は語っている。本盤の《セレナータ協奏曲》の「セレナータ」は、夕方の屋外で、恋人や女性、親しい人を称える音楽を意味していました。光を浴びた色彩豊かな硝子細工のような音が、ファンタジックに、軽快に進んでゆきます。そして、間奏曲を経て、夜会へ向かいます。第1楽章「学生の楽隊」、第2楽章「間奏曲」、第3楽章「夜会」。ロドリーゴはこの作品を光り輝き、澄みわたり、喜びに満ちたものにしようとしていたそうです。彼は幼児期に失明しているのですが、そうは信じ難いような、鮮やかで珠玉の作品です。
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世界中の人々の魂を揺さぶったアダージョ ― ロドリーゴは、20世紀スペインの生んだ大作曲家です。そしてロドリーゴは目が見えないという宿命的な十字架を負っていました。《アランフェス協奏曲》は、たぶん20世紀のクラシック音楽の中で、最も一般に知られ愛されている楽曲です。しかも、その影響は、クラシック音楽を超えて、ジャズやポップスにまで及んでいます。音楽家にとって、聴覚を失うことは、死にたくなるほど辛いことだろう。それでも作曲を続け、聴覚を失ってから健常の時よりさらに奥深い音楽を書いたベートーヴェンを、〝創造の奇蹟〟と言っても、過言ではない。聴覚ほどではないにしても、視覚を失いながら、作曲家として大成するというのも容易いことではあるまい。1999年の7月6日が命日のホアキン・ロドリーゴは、3歳の頃、悪性のジフテリアに罹りました。その後遺症で4歳にして視力を完全に失明しながら、20世紀のスペインを代表する作曲家となった。そのきっかけになったのが、パリ音楽院に学んで帰国後の1939年に発表したギターと管弦楽のための《アランフェス協奏曲》である。1924年に管弦楽曲《子どものための5つの小品》によりスペイン国家賞を授与されると、ホアキンは満を持してパリに出て、25歳の時から、エコール・ノルマンに5年間にわたり留学します。当時のパリの楽壇の最高峰 ― 「魔法使いの弟子」が有名な、ポール・デュカスに師事し作曲を学びます。ホアキンをデュカスは「おそらく彼がパリにやって来たスペイン人作曲​​家の中で最も才能のある人物だ」と評価しています。同じクラスには、メキシコの作曲家、マヌエル・ポンセ、そして後にロドリーゴの作品の優れた協力者になったバスク出身の指揮者、ヘスース・アランバリもいました。その当時、ホアキンの人生に大きな意味を持つ出来事が起こりました。マヌエル・デ・ファリャとの出会いです。オペラ「はかなき人生」でフランス王立アカデミーの歌劇賞を受賞し作曲家として認められるデ・ファリャは、式典に続くコンサートでは彼自身の音楽だけでなく、エルネスト・アルフテル、ロドリーゴ、ホアキン・トゥリーナら同郷の若い作曲家の音楽もまた行うべきだと披露しました。耳の肥えた聴衆の前で自身の曲が演奏される機械を得たその出来事に、ロドリーゴはデ・ファリャに常に感謝していました。プライヴェートでは ― と済ませられない最も重要な出来事が、生涯の伴侶ビクトリア・カムヒとの出会いです。将来を嘱望されたトルコ人の女流ピアニストでしたが、夫ホアキンのために自らの音楽活動は諦めます。さまざまなヨーロッパの文化についての幅広い知識とともに、いくつかのヨーロッパの言語に通じた彼女の能力は、ホアキンの理想的なパートナーでした。作曲のみならずピアノ演奏に優れ、教壇にも立てば講演旅行や著述まで行うという、盲人とは思えない活躍ぶりを示してきたが、これにはビクトリア夫人の内助の功を見落とすことが出来ない。ロドリーゴは、若くして作曲家として高い評価を得ます。1936年にはマドリッド音楽院の教授に就任します。そんなロドリーゴにとって一大転機となったのは、スペイン内戦です。同じスペイン人同士が、人民解放戦線とフランコ将軍率いるファッショ勢力に分かれて戦い、殺戮と破壊が祖国を覆う悲劇。アーネスト・ヘミングウェイは「誰がために鐘は鳴る」を書き、パブロ・ピカソは「ゲルニカ」を描きました。そして、ロドリーゴの《アランフェス協奏曲》です。その第2楽章は、スペインで生まれた美しいメロディの象徴と言っていい。コール・アングレのソロで始まるこのアダージョの調べは、ジャズやポップスなど、様々なアレンジが施されて、世界中の人々の魂を揺さぶった。この曲に憧れて、多くの名ギタリストが生まれた。
ニカノール・サバレタ・サラ(Nicanor Zabaleta Zala)は、1907年1月7日、スペインのサン・セバスティアン生まれのハープ奏者。民族的にはバスク人である。1914年に、素人音楽家だった父親に古物商に連れて行かれ、ハープに出会う。やがてマドリード音楽院教員のビンセンタ・トルモ・デ・カルボと、ルイーザ・マナルケスに師事する。1925年にパリに留学して、1925年からパリでマルセル・トゥルニエとジャクリーヌ・ボロに師事する。翌年にパリで公式に演奏会デビューを果たした。1930年代から欧米各地で活躍し、1934年には北米デビューを果たした。日本には1960、62年に大阪国際フェスティヴァルに来演した。彼は自分で考案した8つのペダルを持つオーベルマイヤー製のハープを使用しており、透明で輝かしい音色と完璧な技巧でラヴェルにも絶賛された。サバレタは様々な作曲家から曲を捧げられており、ハープという楽器のレパートリー増大にも多大な貢献をしています。近代ハープの立役者といえば、まずフランスで主に活躍をしたリリー・ラスキーヌの名が上げられますが、サバレタは故国のスペイン作品や古典の作品、近代作曲家の作品まで広く演奏した面から伺えるように、幅広いレパートリーを持ち、世界中で演奏を繰り広げました。サバレタの録音は、およそ300万枚の売り上げになると見積もられている。最後の演奏会は、1992年6月16日にマドリードで開かれたが、このとき既に健康は衰えていた。1993年4月1日、プエルトリコにて没。
ウィーン国立歌劇場カペルマイスターをつとめていたエルンスト・メルツェンドルファーは、ザルツブルク近郊オーバードルフ生まれ。モーツァルテウム音楽院でクレメンス・クラウスからいろいろと学んだのち、グラーツ市立劇場と契約して、1940年から指揮活動を開始。メルツェンドルファーもクラウスと同じく、歌劇場のオーケストラを用いたシンフォニー・コンサートを開催し、現代作品も取り混ぜた多彩なプログラム構成をおこない、1952年までグラーツの音楽シーンに貢献するなど、クラウスが歩んだ道を辿り、1953年からはザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団の首席指揮者に就任、翌年にはザルツブルク音楽祭にも出演。コンサート分野で活躍した後、1958年になるとベルリン市立歌劇場のカペルマイスターとして契約しますが、1960年に客演したウィーン国立歌劇場が気に入り、1961年にベルリン市立歌劇場を辞してウィーン国立歌劇場のカペルマイスターとして契約。当時の音楽監督はクラウスの弟子でもあったヘルベルト・フォン・カラヤンでした。リヒャルト・シュトラウスと交流があったメルツェンドルファーにとって、リヒャルト・シュトラウスのオペラとバレエは、全曲、得意なプログラムでもありました。ウィーン国立歌劇場でのオペラ指揮は285回、バレエの指揮は129回に及んでいました。生涯オペラ指揮者だったメルツェンドルファーは、師のクラウス譲りの指揮テクニックで複雑な作品も着実にこなし、バロック、古典派、ロマン派から近現代作品まで多彩なレパートリーを取り上げた。1964年1月に初来日。読売日本交響楽団に客演してベルクの『ルル』組曲の日本初演など指揮をした。モーツァルト、オペレッタを十八番とする叩き上げ職人で、ウィーン音楽界の一翼を担う伝統的カペルマイスターで、歌劇場、コンサートに安定した手腕を発揮、80歳を超えても指揮を続けており、2009年9月16日に脳腫瘍で亡くなっていますが、最後の指揮はその4か月前のモーツァルトのオペラ『魔笛』でした。作曲も多数残している。
  • Record Karte
  • ボワエルデュ:ハープ協奏曲ハ長調(1810)、ロドリーゴ:セレナード協奏曲ハ長調(1952)、ニカノール・サバレタ(ハープ)、エルンスト・メルツェンドルファー指揮ベルリン放送交響楽団、1959年10月26~29日ベルリン、イエス・キリスト教会での録音。
  • DE  DGG  SLPM138 118 ニカノール・サバレタ ボイ…
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