34-20402
商品番号 34-20402

通販レコード→独チューリップ盤 MADE IN GERMANY
蓄音機時代の演奏家は初めて演奏する曲をどう料理するかは自分の中から見つけるしかなかった。LPレコードの時代は名声は届いていても姿を見ることは幸運に恵まれる必要があった。 ― リヒテルのピアノソロは隔絶した高みにいるので、その内面からくる音楽解釈の深さと卓越した技巧により常に私たちを魅了し続けており、現在でも多くの音楽ファンは楽曲の本質的な演奏をリヒテルに求めています。リヒテルのシューマン演奏は西側にデビューして間もない時期の録音なので、技術的にも全盛期ながら、むらっけのあるピアニストの姿が良く反映していてシューマネスクな香りの漂うピアニズムが魅力。シューマンの音楽が全体に一段も二段も止揚した高みに聴こえて来るから不思議。リヒテルはシューマンの演奏が一番良いと思える。リヒテルが初めて西側のステージに上がる前、まだ名前のみ知られる存在だった1956年、ドイツ・グラモフォンはプラハに赴き、リヒテルによるシューマンのソロ作品(シューマンの「森の情景」ほか)を録音しました。この録音が大成功だったため、さらにリヒテルのレコードを作りたいと考えましたが、当時リヒテルは西側への演奏旅行をまだ許されておらず、1958から59年、録音チームをワルシャワに送り、ここに収められたシューマンの(ピアノ協奏曲イ短調 op.54、序奏とアレグロ・アパッショナート ト長調 op.92、ノヴェレッテ ヘ長調 op.21-1、トッカータ ハ長調 op.7 )録音が完成した他、協奏曲も含むステレオLP3枚分の録音を行ないました。まさに白熱の演奏で、リヒテルのピアノがオーラを発しているようだ。そのオーラを披露されているからファンには堪ったもんではない。リヒテルはシューマンのピアノ協奏曲を気に入っており、その理由については『正確に何が、ということははっきり言えないのだが、でも何か本質的な部分、詩的な部分が欠落しているのだ…』と自伝に吐露している。その部分的欠落感がシューマンの音楽であり、リヒテルは模索しながら、その欠落感を補おうとしている。そんなところが伝わってきて聴いていて熱くなってくる。傑出した演奏は時代を超えて輝き続けています。
スヴャトスラフ・リヒテルはバックハウスやアラウの系統に属するピアニストだと思う。この3人に共通するのはピアニズムの冴えというか、タッチや音色のクールで胸のすくような美しさを聴かせるよりは、音楽そのものの厚味を最も大切にしていることであろう。従って彼等はモーツァルトやショパンやラヴェル、ドビュッシーなどはあまり得意にしていない。スケールの大きい、交響的な作品にこそ真価を発揮するのである。リヒテルの演奏で特筆すべきは壮大さを生かすべき弱音の繊細さが際立っている点で、精神の深味や詩情、ひっそりとした寂しさの表出が独壇場だ。さて、ここまでのリヒテルの略歴を書いておこう。スヴァトスラフ・リヒテルは1915年3月20日、ウクライナのジトミールに生まれた。父はポーランド生まれのドイツ人でウィーン音楽院に学んだが法に触れる決闘をしたため、ウクライナに逃れてオルガンとピアノを教えた。母は父の教え子である。しかしリヒテルは殆ど独学で音楽を勉強し、オデッサ歌劇場の伴奏ピアニスト、練習指揮者に採用された。1934年、19歳の時オール・ショパン・プログラムで初の公開演奏を行ったが、これが大成功で本格的なピアニストになることを決意、1937年モスクワ音楽院に入学、ゲンリフ・ネイガウス教授に師事した。ネイガウスはリヒテルの才能に驚きプロコフィエフを紹介、その結果1940年リヒテルはプロコフィエフの「ピアノ・ソナタ第6番」を初演することになったが、これが彼のモスクワ・デビューとなり大センセーションを巻き起こした。そして1945年には全ソヴィエト音楽コンクールで優勝、47年に音楽院を卒業したが、この時リヒテルはすでに32歳になっていた。以上のような経歴からも本盤録音時のリヒテルの特質を充分に伺うことができよう。リヒテルがソ連国外で演奏したのは1950年のことで、それ以後東側の共産圏には時折登場するようになりましたが、西側に一部の録音や評判が伝えられるのみでその実態がなかなか把握されず「幻のピアニスト」とされていました。1950年には国家賞第1等を受賞、1960年初めてアメリカを訪問して以来、世界各国にその姿を見せることになったのである。更に、これらの録音が西側で広く発売されるにつれて、リヒテルは「現代最高の巨匠ピアニスト」と位置づけられるようになって、その名声は頂点に達したのでした。その頃はリフテルと表記されていたリヒテルのピアノには外面的な華やかさも、これ見よがしのハッタリもないが雄大なダイナミックと体中の感情を込め切ったような盛り上がり、ほのかに漂う詩情は言葉に尽くせない。ここには情感に溢れていない部分は一箇所もない、と断言し得るのである。
「20世紀のピアノの巨人」と称されるロシアの名ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテル(1915.3.20~1987.8.1)。1950年に初めて東欧で公演も行うようになり、一部の録音や評価は西側諸国でも認識されていた。しかし、冷戦で対立していた西側諸国への演奏旅行はなかなか当局から許可が下りなかった。リヒテルは1941年に父親をソ連当局によって銃殺されており、母親は第二次世界大戦の末期にドイツに移住していた。このため、当局は西側への旅行を認めた場合に彼が亡命することを警戒していたともいわれる。そのため、西側諸国ではその評判が伝わるのみで実像を知ることができず、「幻のピアニスト」とも称されるようになった。ソ連の演奏家としては最も早い時期から国際的に活躍していた一人であるギレリスが、演奏後に最大の賛辞を贈ろうとしたユージン・オーマンディを「リヒテルを聴くまで待ってください」と制したことも、この幻のピアニストへの期待をかき立てた。リヒテルのレパートリーはバッハから20世紀の同時代の音楽まで多岐にわたる、それぞれに個性的かつ巨大な演奏解釈を披露した文字通り「ピアノの巨人」的存在でした。そうした膨大なレパートリーを誇る一方で、独自の見識に基づいて作品を厳選していたことも特徴的で演奏する曲は限られている。例えばベートーヴェンのピアノソナタで言えば第14番や第21番のような人気曲を意図して演奏しなかったし、5曲の協奏曲の中では第1番と第3番のみをレパートリーにしていた。ショパンの練習曲やドビュッシーの前奏曲、ラフマニノフの前奏曲などでも一部の曲を演奏していない。これはグールドが完璧な曲を自分が演奏するものではないと録音しなかったことに近い動機ではないだろうか。そして録音嫌いとして知られていたにもかかわらず、ライブ録音によるものも含めると結果的には発売された録音の点数は他のどのピアニストよりも多いのではないかと思われるほど、多数の録音が残されている点でも破格の存在といえるでしょう。リヒテルが残した録音の中でも、おそらくソフィア・ライヴの「展覧会の絵」(PHILIPS)やバッハの「平均律クラヴィア曲集」全曲(RCA)と並んで最も有名な演奏が、ドイツ・グラモフォンのチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番とラフマニノフのピアノ協奏曲第2番です。リヒテルのピアノ演奏は、西側にデビューして間もない時期の録音なので、技術的にも全盛期ながら、むらっけのあるピアニストの姿が良く反映していて迸る熱気が伝わってくる。ワルシャワでのドイツ・グラモフォンとの録音セッションでエンジニアを務めたハインツ・ヴィルトハーゲンは、この時使用したピアノについての証言を残している。スタッフが現地で調達したピアノはタッチにひどくむらのある粗悪な代物で、スタッフは当然リヒテルに拒否されるものと考えた。しかし彼は黙ってピアノの前に座るとキーの感触を一つ一つ確かめながら、むらなく聴こえるようになるまで練習し難のあるピアノを自在に操ったという。
リヒテルの最大の武器は明確なタッチで、鍵盤の底まで押し込んでいるかのような、強い打鍵がフォルテを明確に響かせるが決して重苦しくならない。また弱音の美しい響きは繊細な感情を生かしている。強い意思にもとづく解釈と豊かな表現力が結びついた演奏である。ロベルト・シューマン(1810〜1856)の作品と、その作曲年代を概観してみると、まず最初に気づくことは各ジャンルの作品が、ある一定の年に集中していることである。例えば彼の多くの歌曲は1840年に作曲されており、その年は「歌曲の年」とも呼ばれている。また1841年には「春」の名前で親しまれている交響曲第1番をはじめとする彼の管弦楽作品の代表的なものが集まっている。さらに彼の代表的な室内楽の作品は1842年に集中しており、その年は「室内楽の年」とも呼ばれている。もちろん例外もいくつかあるのだけれど。シューマンのこうした集中攻撃的な才能の爆発の仕方は彼の音楽全体の在り方を考えるうえで、極めて興味深いことであるといえよう。そのようなことと比較すると、彼の音楽の代表的分野であるピアノ作品は、ある一定の年に集中するということが、どちらかといえば少ない。彼の生涯を通して、ピアノ作品は殆どいつでも作曲されていたという傾向が強い。最晩年になると作品も少なくなってくるが、それは彼の病と無関係ではないのだろう。こうした事実は、シューマンのピアノという楽器に対する特別な愛着を端的に物語っているということが出来るだろう。ピアニストを目指して、指を痛めてしまうまで猛練習を繰り返した若き日から、シューマンにとってピアノという楽器は他の何にもまして身近なものとして、彼に寄り添っていたのだった。作曲家としてのシューマンの内実をピアノ以上に雄弁に語った楽器はなかったといっても、決して誇大な表現となることはないのである。このレコードでは、そうしたシューマンのピアノ作品の中の4曲が、スヴャトスラフ・リヒテルによって演奏されている。シューマンにおけるリヒテルの素晴らしさを、いったい何に例えれば良いのだろう。このピアノ協奏曲は伝統的様式を持つ点で、一応古典的な協奏曲の原理の週末であるとみなされるのと同時に名人芸的な華やかさが抑えられ、作品全体の調和と統一力を保つことが第一義に考えられるといった独奏協奏曲の新しい理念、ひいては従来の協奏曲が色濃く持っていた「競争」の性格を全く失ってしまうこと無く、しかも独奏ピアノとオーケストラを色彩的に同化させる交響的な色合いを強く押し出すといった性格によって、演奏者にとっては極めて扱いにくい作品となっている。しかし、自分の体内に一見相矛盾するような2つの極みを持ち、しかもその両極は互いに反発しあうこと無く、むしろ補いあう存在になり得るリヒテルの恵まれた資質に、この協奏曲はなんとふさわしいことだろう。
均整感を保った清冽な叙情はクラシックであると同様にロマンティックであり、かつそれは徒らな厚化粧や濃厚な甘さといった「誤解されたロマンティシズム」とは全く無縁のものである。その鮮やかな飛翔感、モノトナスな表面の内側に多彩な広がりを感じさせる音色、さらにシューマン独特の流動感をリヒテルは古典的とも言える潔癖な様式の上に弾いていく。第2楽章というよりはシューマン自身が記した通りの「間奏曲」は、円満な家庭と充実した創作活動の時代を反映する柔和な音の詩である。落ち着いた安らぎに満ちており、そこでは若い日のシューマンがみせた屈折した情熱も影を潜めているのだが、そうした情感を見事に歌い上げている点でもリヒテルは万全である。ここには早くから文学への愛を目覚めさせたリヒテルのもっとも美しい一面が覗いているといえるだろう。終楽章のアレグロ・ヴィヴァーチェでもピアノの独奏者に対するヴィルトゥオジティは最高度に要求されるのだが、それでいてこの協奏曲はリストやチャイコフスキーを弾くような華麗さを許容しない。ピアニストにとって、これはまさしく苛酷な要求であり、ともすれば表面的に体裁を繕っている凡庸な演奏学の化けの皮をはがしてしまう恐ろしさを持っている。しかし、リヒテルがこのディスクで聴かせる演奏には、シューマンがこの作品に込めた一つの理想があるといって過言ではないだろう。この「理想」は、けれども、作品の完成当時、人々に理解されなかったものである。シューマンの愛妻クララでさえ、これを初演した時以来常に批評家から向けられる攻撃にたじろいで、この終楽章を当時の流行だった名人芸発揮の形に改めたいとヨアヒムに相談の手紙を出したほどだった。それは夫ローベルトが精神病院のベッドのうえで痛ましい最期を遂げた翌年、1857年のことである。しかし、その「冒涜」は敢行されなかった。シューマンは青年時代、ピアニストとしての自分にあまりにも無理で苛酷な練習を強いた挙句、指を痛めてコンサートピアニストとしての夢を断ち切らざるを得なかった。そうした彼にとってピアノ協奏曲の作曲は、その華やかな栄光に対する再び別の角度からの挑戦を意味したのだろう。彼はクララと結婚した翌1841年の夏、ピアノとオーケストラのための幻想曲として現在の第1楽章にあたる部分の原型を完成し、その4年後、それを三楽章形式のピアノ協奏曲に拡大した。そのとき第1楽章には比較的短くヴィルトゥオーゾの性格が極力控え目にされたカデンツァが置かれ、コーダも書き添えられて作品は一段と深い重厚さとロマンティックな詩情をたたえた独特な輝かしさをもって飾られることになったのである。
ロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann)は、 1810年6月8日にドイツのツヴィッカウに生まれました。5人兄弟の末っ子で出版業者で著作もあったという父親のもとで早くから音楽や文学に親しみ、作曲や詩作に豊かな才能を示したといいます。ロベルト16才の年にその父親が亡くなり安定した生活を願う母親の希望で法学を選択、1828年にライプツィヒ大学に入学しますが音楽家への夢を捨て切れず、1830年に高名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークに弟子入りします。作品番号1の『アベック変奏曲』が出版されたのは、同年のことです。翌31年からはハインリヒ・ドルンのもとで正式に作曲を学び始め、手を痛めて(指関節に生じた腫瘍が原因とされています)ピアニストへの夢を断念せざるを得なかったこともあり、作曲家、そして音楽評論家への道を選びます。シューマンは、まずピアノ曲の作曲家として世に知られました。作品番号1番から23番まではすべてピアノ曲で占められます。1834年の夏、エルネスティーネ・フォン・フリッケンとの恋愛から、『謝肉祭』と『交響的練習曲』が生まれました。その後、ピアノの師ヴィークの娘で名ピアニストだったクララ・ヴィーク(シューマン)と恋に落ち、婚約しますが、ヴィークはこれに激しく怒り、若い2人はつらい日々を送ったとされています。『幻想小曲集』、『幻想曲』、『クライスレリアーナ』、『子供の情景』などの傑作は、そのような困難の中で作曲されました。1839年、シューマンとクララはついに裁判に訴え、翌40年に結婚が認められました。この結婚をきっかけに、それまでピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンは歌曲の作曲に熱中、1840年からのわずか1年ほどの間に、『詩人の恋』、『リーダークライス』、『女の愛と生涯』など、幼少期からの文学的素養とピアノの天分とが結びついた傑作が次々と作曲され、この1年は特に「歌の年」と呼ばれています。1841年からは一転してシンフォニーの創作に集中、「交響曲の年」と呼ばれるこの年には、実際にはシューマン初めてのシンフォニーである第4交響曲の初稿、交響曲第1番『春』を作曲。このうち『春』は、3月31日に親友フェリックス・メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって初演され、大成功をおさめたとされています。1842年には『ピアノ五重奏曲』など室内楽曲が集中、翌43年にはオラトリオ『楽園とペリ』が書かれています。1844年、ドレスデンに移住、傑作『ピアノ協奏曲』が作曲されますが、この頃から徐々に、青年期に罹患した梅毒に遠因があるとされる、精神的なバランスの不安定が顕れはじめ、その危機を逃れる目的もあってJ.S.バッハの研究に没頭、オルガン作品にその成果を残しています。
1845年から翌年にかけて、交響曲第2番を作曲。1848年、唯一のオペラ『ゲノフェーファ』を作曲。1850年、デュッセルドルフの音楽監督に招かれて移住、デュッセルドルフの明るい風光がシューマンの精神に好影響をあたえたといわれ、それを実証するように、交響曲第3番『ライン』や『チェロ協奏曲』、多数の室内楽曲を作曲、交響曲第4番の改訂がおこなわれ、大規模な声楽曲『ミサ曲ハ短調』や『レクイエム』が次々と生み出されます。しかし、1853年11月には楽員との不和から音楽監督を辞任、あまりにも内向的なシューマンの性格に原因があったとされています。『ヴァイオリン協奏曲』はこの頃の作品ですが、クララやヨーゼフ・ヨアヒムなど、周囲から演奏不可能であるとされて公開演奏も出版もおこなわれず、ゲオルク・クーレンカンプによって1937年に初演されるまで埋もれたままになっていました。若きヨハネス・ブラームスがシューマン夫妻を訪問したのは、1853年の9月30日のことでブラームスは自作のソナタ等を弾いて夫妻をいたく感動させます。シューマンは評論「新しい道」でこの青年の才能を強く賞賛します。このブラームスの出現は晩年のシューマンにとって音楽の未来を託すべき希望であったとされていますが、一方では妻クララとの不倫疑惑に悩まされるという相反する感情を生じてしまい、この希望と絶望が、シューマンの精神に決定的なダメージを与えたとされています。1854年に入ると病は著しく悪化、2月27日、ついにライン川に投身自殺を図ります。一命をとりとめたものの、その後はボン・エンデ二ッヒの精神病院に収容され回復しないまま、1856年7月29日にこの世を去りました。精神病院で常に口にし、また最後となった言葉は「私は知っている。(Ich weis)」であったと言われています。作曲家兼指揮者として活躍したシューマンですが、評論家としての功績も忘れるべきではないでしょう。1834年に創刊された『新音楽雑誌』の編集を担当、1836年には主筆となり、1844年に至るまで務めます。これに先立つ1831年、同い年のフレデリック・ショパンの才能をいち早く見出した「作品2」と題された評論の中の「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」という言葉はあまりにも有名。その他にも、メンデルスゾーンを擁護し、バッハ全集の出版を呼びかけ、若き日のブラームスを発掘したのも、エクトール・ベルリオーズをドイツに紹介したのもシューマンでした。特に、フランツ・シューベルトの埋もれていた「天国的に長い」ハ長調交響曲『グレート』を発見したことは、音楽史上の大成果と言えるでしょう。
ピアノ協奏曲イ短調 op.54(ヴィトルド・ロヴィツキ指揮)1958年10月録音、序奏とアレグロ・アパッショナート ト長調 op.92(スタニスラフ・ヴィスロツキ指揮)1959年4月録音、ノヴェレッテ ヘ長調 op.21-1、トッカータ ハ長調 op.7 1959年5月録音、ワルシャワ、フィルハーモニー・ホールでのステレオ・セッション。
DE DGG SLPM138 077 リヒテル&ヴィスウォツキ シュ…
DE DGG SLPM138 077 リヒテル&ヴィスウォツキ シュ…