34-20514

商品番号 34-20514

通販レコード→独 TULIP ALLE HERSTELLER 盤[オリジナル]

カンフー映画のヒーロー、ブルース・リーを愛した ― スヴァトスラフ・リヒテルは、1915年、現在のウクライナ生まれ。父はドイツ人でピアニストだった。リヒテルが幼い頃、一家はオデッサに移住。リヒテルは父から音楽の手ほどきを受けたが、やがて父が家族と別行動を取り、ピアノは最初、独学で学び、19歳でリサイタルを開いている。1937年、モスクワ音楽院に入学した時は既に22歳だった。教授だったスタニスラフ・ゲンリホヴィチ・ネイガウスはエミール・ギレリスやアナトリー・ヴェデルニコフ、ラドゥ・ルプーらを指導した事でも知られているが、その才能はずば抜けていたもので、リヒテルには既に教える事はなかったという。ネイガウスが天才と称えるほどであろうが、リヒテル自身はネイガウスから多くを学んだと述懐している。そのネイガウスの紹介でプロコフィエフと知り合い、この大作曲家から絶大な信頼を寄せられる様に成り、1943年にはピアノ・ソナタ7番を初演。一方で、ソ連国内で演奏活動を活発に展開し、1945年に30歳で全ソヴィエト音楽コンクールのピアノ部門1位を受賞。と、順調にキャリアを歩み始めたようだったが、しかし、当時のソ連は、スターリンの独裁政治の時代。家族と別行動を取っていた父親が問題となる。ドイツ人だった父テオフィルは1941年の独ソ開戦直後に、スパイ容疑で逮捕され銃殺刑で亡くなったのだ。そのことは、リヒテル自身にも国家から厳しい監視の目が注がれることになる。1950年代に入ると、東欧でも演奏活動を行う様に成り、名声を高めて行くが、西側諸国での活動許可が下りなかった事もあり、「幻のピアニスト」とも称される様に成った。1956年にドイツ・グラモフォンはプラハに赴き、リヒテルによるシューマンの作品を録音しました。この録音が大成功だったため、さらにリヒテルのレコードを作りたいと考え、1959年、録音チームをワルシャワに送り、ここにシューマンの「ピアノ協奏曲」をはじめとするLP3枚の録音を行い、リヒテルの演奏が漸く西側にも浸透し始める。リヒテルはシューマンの「ピアノ協奏曲」を気に入っており、その理由については『正確に何が、ということははっきり言えないのだが、でも何か本質的な部分、詩的な部分が欠落しているのだ…』と自伝に吐露している。その部分的欠落感がシューマンの音楽であり、リヒテルは模索しながら、その欠落感を補おうとしている。そんなところが伝わってきて聴いていて熱くなってくる。ピアノ一音一音の粒立ちがハッキリしています。リヒテルのピアノソロは隔絶した高みにいるので、全体に一段も二段も止揚した高みに聴こえて来るから不思議。発見させられることばかりで、疑問を持つどころではない。アメリカ・デビューは1960年。本盤は各地でセンセーションを巻き起こした、1961年7月ロンドン録音のリサイタル。「ALLE HERSTELLER」ではじまる初期チューリップ盤。
スビャトスラフ・リヒテルはピアノについて、こんな言葉を残している。「私はピアノを選ばない。スタッフや調律師を信頼しているから。」リヒテルには、心から信頼する日本人調律師がいた。最初の出会いは南フランスのマントン音楽祭だった。村上輝久が初めて調律をした時、リヒテルの感想は、「調律は良かったが、私には少し弾きやすすぎた。」というものだった。そこで村上は、翌日のコンサートに向けて、タッチを少し重くするために、鍵盤の下に挟みこまれた紙を1枚抜いて調律した。薄さわずか0.2㍉だ。結果、リヒテルは大満足。村上とリヒテルは深い友情で結ばれる。リヒテルのレパートリーは広かったが、演奏する曲は限られている。これはグレン・グールドが完璧な曲を自分が演奏するものではないと録音しなかったことに近い動機ではないだろうか。リヒテルのピアノ演奏は、その内面からくる音楽解釈の深さと卓越した技巧により常に私たちを魅了し続けており、現在でも多くの音楽ファンは楽曲の本質的な演奏をリヒテルに求めています。初来日は1970年の大阪万博の年。西側では、〝鉄のカーテンの向こうの幻のピアニスト〟と呼ばれていた、リヒテルだったが、一旦来日をはたすと以後8回も来日した親日家でもあった。27年間通訳を務めた河島みどりによると、旅が大好きだったという。全国62都市を訪ね、のべ162回の演奏会を開いたリヒテル。神社仏閣を巡るだけで なく、茶の湯などの伝統文化にも深い興味を示し、茶室でのコンサートを開いたこともあった。また、ソ連ではあまり見ることのできない外国の映画を観るのも好きで、中でもブルース・リーの肉体が素晴らしいと絶賛していたという。
偉大なピアニストは誰か、と質問されればスヴァトスラフ・リヒテル(Sviatoslav Richter)は必ず上位に名を連ねる演奏家です。ソ連の誇るピアニストであり「20世紀のピアノの巨人」と称されるリヒテルはスタジオ録音としては、ザルツブルク郊外の残響豊かなクレスハイム宮殿で、珍しくベーゼンドルファーを使って録音されたヨハン・ゼバスチャン・バッハの「平均律クラヴィア曲集」が筆頭に代表される。ソ連の演奏家としては最も早い時期から国際的に活躍していた一人であるエミール・ギレリスが、演奏後に最大の賛辞を贈ろうとしたユージン・オーマンディを「リヒテルを聴くまで待ってください」と制したことも、この幻のピアニストへの期待をかき立てた。リヒテルのレパートリーはバッハから20世紀の同時代の音楽まで多岐にわたる、それぞれに個性的かつ巨大な演奏解釈を披露した文字通り「ピアノの巨人」的存在でした。そうした膨大なレパートリーを誇る一方で、独自の見識に基づいて作品を厳選していたことも特徴的で演奏する曲は限られている。例えばベートーヴェンのピアノ・ソナタで言えば14番や21番のような人気曲を意図して演奏しなかったし、5曲の協奏曲の中では1番と3番のみをレパートリーにしていた。ショパンの練習曲やドビュッシーの前奏曲、ラフマニノフの前奏曲などでも一部の曲を演奏していない。これはグレン・グールドが完璧な曲を自分が演奏するものではないと録音しなかったことに近い動機ではないだろうか。そして録音嫌いとして知られていたにもかかわらず、ライブ録音によるものも含めると結果的には発売された録音の点数は他のどのピアニストよりも多いのではないかと思われるほど、多数の録音が残されている点でも破格の存在といえるでしょう。リヒテルが残した録音の中でも、おそらくソフィア・ライヴのムソルグスキー「展覧会の絵」(PHILIPS)や「平均律クラヴィア曲集」全曲(RCA)と並んで最も有名な演奏が、ドイツ・グラモフォンのチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番とラフマニノフのピアノ協奏曲第2番です。1950年代の中頃から、西欧に対するソ連の目覚ましい芸術攻勢が、とくにこの国を代表する名演奏家たちの国外への相次ぐ演奏旅行によって切って落とされた。ヴァイオリンのダヴィッドとイーゴリのオイストラフ親子、レオニード・コーガン、ピアノのレフ・オボーリン、ギレリス、ウラディーミル・アシュケナージ、チェロのムスティスラフ・ロストロポヴィッチ、さらにレニングラード・フィルハーモニックなどのオーケストラからボリショイ歌劇場の主要メンバーに至るまで、ソ連の楽団は質量ともに西欧諸国の驚異となった。これらの一流演奏家たちは、与えられた賛辞に対して、こう答えるものが多かった。〝その言葉はリフテルを聴くまでとっておきなさい〟。こうしたことが、リフテルの神秘性を一層濃くさせ、おそらく、彼こそソ連楽壇のとっておきの切り札と目されるようになったのである。リヒテルのピアノ演奏は、西側にデビューして間もない時期の録音なので、技術的にも全盛期ながら、むらっけのあるピアニストの姿が良く反映していて迸る熱気が伝わってくる。ワルシャワでのドイツ・グラモフォンとの録音セッションでエンジニアを務めたハインツ・ヴィルトハーゲンは、この時使用したピアノについての証言を残している。スタッフが現地で調達したピアノはタッチにひどくむらのある粗悪な代物で、スタッフは当然リヒテルに拒否されるものと考えた。しかし彼は黙ってピアノの前に座るとキーの感触を一つ一つ確かめながら、むらなく聴こえるようになるまで練習し、難のあるピアノを自在に操ったという。リヒテルの最大の武器は明確なタッチで、鍵盤の底まで押し込んでいるかのような、強い打鍵がフォルテを明確に響かせるが決して重苦しくならない。また弱音の美しい響きは繊細な感情を生かしている。強い意思にもとづく解釈と豊かな表現力が結びついた演奏である。
スヴャトスラフ・リヒテル(1915〜1997)はヴィルヘルム・バックハウス(1884〜1969)やクラウディオ・アラウ(1903〜1991)の系統に属するピアニストだと思う。この3人に共通するのはピアニズムの冴えというか、タッチや音色のクールで胸のすくような美しさを聴かせるよりは、音楽そのものの厚味を最も大切にしていることであろう。然るに、彼等はモーツァルトやショパンやラヴェル、ドビュッシーなどをレパートリーとしてはあまり得意にしていない。スケールの大きい、交響的な作品にこそ真価を発揮するピアノの天才たちである。そのうちリヒテルの演奏で特筆すべきは壮大さを生かすべき弱音の繊細さが際立っている点で、精神の深味や詩情、ひっそりとした寂しさの表出が独壇場だ。さて、ここまでのリヒテルの略歴を書いておこう。リヒテルは1915年3月20日、ウクライナのジトミールに生まれた。父はポーランド生まれのドイツ人でウィーン音楽院に学んだが法に触れる決闘をしたため、ウクライナに逃れてオルガンとピアノを教えた。母は父の教え子である。しかしリヒテルは殆ど独学で音楽を勉強し、オデッサ歌劇場の伴奏ピアニスト、練習指揮者に採用された。リヒテルの志望は指揮者になることだった。特に読譜力に優れ、交響曲や管弦楽曲の総譜を見ながらピアノで弾く能力に抜群なものを見せ、1933年から1937年までオデッサ歌劇場とバレエ劇場のリハーサル・ピアニストを務めていた。この時リヒテルが人差し指と小指の間で楽々とオクターヴの鍵盤を押さえている奏法を見てすっかり驚いた人たちが、むしろピアニストになるべきだとすすめた。1934年、19歳の時オール・ショパン・プログラムで初の公開演奏を行ったが、これが大成功で本格的なピアニストになることを決意、1937年モスクワ音楽院に入学、ゲンリフ・ネイガウス教授に師事した。ネイガウスはリヒテルの才能に驚きプロコフィエフを紹介、その結果1940年リヒテルはプロコフィエフの「ピアノ・ソナタ第6番」を初演することになったが、これが彼のモスクワ・デビューとなり大センセーションを巻き起こした。そして1945年には全ソヴィエト音楽コンクールで優勝、1947年に音楽院を卒業したが、この時リヒテルはすでに32歳になっていた。以上のような経歴からも本盤録音時のリヒテルの特質を充分に伺うことができよう。リヒテルがソ連国外で演奏したのは1950年のことで、それ以後東側の共産圏には時折登場するようになりましたが、西側に一部の録音や評判が伝えられるのみでその実態がなかなか把握されず「幻のピアニスト」とされていました。1950年にはスターリン賞 ― 現在の国家賞第1等を受賞、1960年初めてアメリカを訪問して以来、世界各国にその姿を見せることになったのである。更に、これらの録音が西側で広く発売されるにつれて、リヒテルは「現代最高の巨匠ピアニスト」と位置づけられるようになって、その名声は頂点に達したのでした。その頃はリフテルと表記されていたリヒテルのピアノには外面的な華やかさも、これ見よがしのハッタリもないが雄大なダイナミックと体中の感情を込め切ったような盛り上がり、ほのかに漂う詩情は言葉に尽くせない。ここには情感に溢れていない部分は一箇所もない、と断言し得るのである。20歳過ぎてから本格的なピアノの勉強をはじめて、これほど大成をした名手は稀といって良いであろう。そこに、リヒテルがはかり知れぬ天分と音楽性の持ち主であることを物語っているといえよう。
  • Record Karte
  • ハイドン:ピアノ・ソナタ第32番 ト短調 Hob.XVI:44、ショパン:バラード第3番 変イ長調 Op. 47、ドビュッシー:前奏曲集 第1集から第2曲 ヴェール(帆)、第3曲 野を渡る風、第5曲 アナカプリの丘、プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第8番 変ロ長調 Op. 84。Engineer – Heinz Wildhagen, Producer – Wolfgang Lohse. Recorded At – Wembley Town Hall, Recorded in London on July 28th 1961.表紙はフランス発売仕様。フランス・ドイツ・グラモフォン発売の「PRESTIGE」シリーズは、最初の頃は、レコード盤はドイツ・プレスの輸入盤を使っていました。
  • DE  DGG  LPM18 597 リヒテル シューマン・ピアノ協…
  • DE DGG 618 766 リヒテル ハイドン/ショパン/ドビュッ…
  • DE DGG 618 766 リヒテル ハイドン/ショパン/ドビュッ…
リヒテル名演集
リヒテル(スビャトスラフ)
ポリドール
1998-07-15