商品名DE DGG 2532 025 ヘルベルト・フォン・カラヤン J.シュトラウスII・管弦曲集

カラヤンが自伝の中で「血の中を流れている」と語る楽曲たち ― カルロス・クライバーの下品な演奏以来、激しいパッセージでベンチマークを競うようになってしまった『雷鳴と電光』もカラヤンらしい緩やかなテンポ解釈には完成された優雅さと、ゆとりの時代を感じられる。》ヨハン・シュトラウスは喜歌劇「こうもり」で一躍時代の寵児になりますが、歌劇を作曲してこそ宮廷音楽家に認められなかった。ウィンナ・ワルツは幾つものメロディーをつなげたポプリ形式のおおらかな作りですが、「皇帝円舞曲」の場合、もう少し細かいユニットに別れていて、「威厳をたたえた部分」と「おしゃれでチャーミングなメロディユニット」の対比が第1主題、第2主題として聴くことで交響曲の一つの楽章に思えてきます。ヨハン・シュトラウス2世はブラームスとの親交が深く、ブラームスの得意とする音楽ジャンルは犯すまいと心に決めていました。晩年、歌劇「騎士パズマン」を作曲しウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)で初演。名実ともに音楽史に残る作曲家と認められます。喜歌劇「こうもり」序曲は全曲盤を含めて9回録音をしている。スタジオ・セッション録音で公式リリースされたレコードで、これほど同曲を繰り返してレコーディングしているのはカラヤンより他にはいない。フィルハーモニア管弦楽団時代から、ウィーン・フィルともカラヤンはヨハン・シュトラウス2世のワルツ集を録音しているが、ベルリン・フィルとの2度目のレコーディングはデジタルで行った。アナログ録音だった1969年の時は2枚のアルバムとしての発売でしたが、デジタル録音ではそれが3枚のアルバムとなった。カラヤンの思い入れが強いほど感じられる。しかしCD時代に入って混乱が起こっている。ベルリン・フィルの演奏で、どちらもギュンター・ヘルマンスがエンジニアだったことで、デジタルで録音しなおした音源とアナログ時代の音源が錯綜。加えて、《愛の使者》、《天体の音楽》、《浮気心》の3曲はアナログ盤では当時発売されず、1997年の CD 化にあたって初めて追加して発売された。慮るにカラヤンの心中如何ばかりか。英EMIの偉大なレコード・プロデューサー、ウォルター・レッグは未来の演奏会やアーティストを評価するときに基準となるようなレコードを作ること、彼の時代の最上の演奏を数多く後世に残すことであったという。レッグは戦後ナチ党員であったとして演奏を禁じられていたカラヤンの為に、レッグ自ら1945年に創立したフィルハーモニア管弦楽団を提供しレコード録音で大きな成功を収めたが、このフィルハーモニア管弦楽団創立には、1947年1月ウィーンでレッグとカラヤンが偶然出会い意気投合したことに始まる。カラヤンのEMIへのレコード録音は、フィルハーモニア管弦楽団で始まる前にウィーン・フィルとの録音があり、本盤はカラヤンにとっては初めてのオペラ全曲レコーディングとなった記念すべき一組です。意気投合したが、実現には道のりがあった。ドイツでは1946年、連合軍による『非ナチ化』政策が始まった。ナチだったと疑われている人々は無罪が証明されるまで公的な活動が出来なくなった。カラヤンもフルトヴェングラーも、そしてベームをはじめとする音楽家たちも、その対象となった。ドイツ音楽界は1930年代にユダヤ系の人々が亡命や追放、粛清でいなくなったうえ、戦争が始まると戦場や空襲で多くの者が命を失い人材不足に陥っていたところに、残っていた大音楽家たちまでもが活動が出来なくなってしまったのだ。前年にイタリアでドイツ敗戦を迎えたカラヤンは、何回かイタリアでコンサートを指揮した後、故郷ザルツブルクに戻り、この地で一旦はナチ容疑が晴れた。ユダヤ系の女性を妻としたこと、ヒトラーに嫌われ干されていたことなど、戦争中はマイナスだったことがプラスに転じたのである。カラヤンは46年になると本格的な活動を再開すべくウィーンに向かったが、ソ連軍の命令で公演を続けられなくなる。さらにはザルツブルク音楽祭にも連合軍の命令で出演できなくなった。カラヤンはレコードに活路を見出すことにし、EMIと契約し、早速9月よりウィーン・フィルとレコーディングを開始。オーケストラはウィーン・フィルだった。平和が戻ったはずの世界は、冷戦へ突入していく。ベルリン・フィルの演奏会はチェリビダッケが指揮し、客席にフルトヴェングラーは居た。1947年、チェリビダッケの協力もあり、非ナチ化審理が無罪で終わったフルトヴェングラーは5月、ベルリン・フィルの指揮台に復帰した。1947年のザルツブルク音楽祭もカラヤンは出演できなかったが、フルトヴェングラーは出演しコンサートを指揮した。ユダヤ系のヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインが共演したことが話題になった。その裏側にはカラヤンが、フルトヴェングラーと手を結ぼうと接触したことがあるが、それはまた別の話だ。カラヤンがコンサートに復帰するのは10月で、ウィーン・フィルを指揮した。それと平行して、EMIへのレコーディングも続いていた。レッグ&カラヤン連合軍の快進撃の第一幕が開いた。英米の本当の連合軍も、レッグのロビー活動により、カラヤンに公的な指揮活動が許されたのと前後している。この快進撃の第一幕が、《フィガロの結婚》でした。このウィーン・フィルとのレコーディングは、1946年から1949年まで集中的に行われている。しかし、この時期のカラヤンとウィーン・フィルの演奏が評価の高いシロモノであったことが、その後カラヤンにとっての天敵フルトヴェングラーが亡くなった後にベルリン・フィルとウィーン・フィルがカラヤンを迎え、帝王として君臨することになる礎となったことは事実である。まさに、カラヤン芸術の原点として評価すべき時代の録音と云えるだろう。 レッグ夫妻(後の)&カラヤン連合が創作した最高のフィガロであることには、誰も異論はないだろう。とりあえず、カラヤンの戦後はウィーンを活動の拠点として始まったのである。1948年、夏、ザルツブルク音楽祭に出演出来たカラヤンが、オペラを指揮するのは初めてだった。だが、「カラヤンが今後も、この音楽祭に出るならば、わたしは出ない」とフルトヴェングラーはカラヤン追放を求めた。斯くて、その後、天敵フルトヴェングラーによりウィーン・フィルを締め出されたカラヤンはウィーン交響楽団に活動の場を移し、またレコーディングはフィルハーモニア管弦楽団と行うようになるが、そのフィルハーモニア管弦楽団でも合奏の完璧な正確さを要求し、音を徹底的に磨き上げることによって聴衆に陶酔感をもたらせ、さらにはダイナミズムと洗練さを同時に追求するスタイルで第二期黄金事態を築いたことは周知の事実です。1954年にドイツ音楽界に君臨していたフルトヴェングラーの急逝にともない、翌55年にカラヤンは、ついにヨーロッパ楽壇の頂点ともいえるベルリン・フィルの首席指揮者の地位に登りつめた。『ヘルベルト、いかに君でも対処しきれないよ』カラヤン帝国建設に邁進している最中、『帝国の崩壊』を予言したのは、EMIのウォルター・レッグだった。1946年1月のウィーンでの出会い以来、盟友関係にあったレッグとカラヤンだったが、カラヤンがベルリン・フィルの首席指揮者の座を射止めた頃から、両者の関係に隙間風が吹くようになっていった。EMI、フィルハーモニア管弦楽団、そしてカラヤンを束ねるのがレッグの仕事だった。カラヤンはベルリン・フィル、ミラノ・スカラ座、ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団、そしてウィーン交響楽団を抱えているではないか。どこに、ウィーン国立歌劇場の仕事の入り込む日程的な余地があるというのだ。レッグのそういう言葉には忠告の裏にビジネス上の打算もあっただろう。カラヤンがベルリン・フィルを手に入れるところまでは、レッグの思惑とも一致した。個人的利益には直結しなくなるが、フィルハーモニア管弦楽団に代わってベルリン・フィルを使ってEMIにレコーディングすればいいのだ。だが、ウィーン国立歌劇場管弦楽団はレコーディングの時はウィーン・フィルという別団体になってしまう。そしてウィーン・フィルは、EMIのライバル会社である英DECCAと専属契約を結んでいたからだ。カラヤンは、さんざんフルトヴェングラーから邪魔をされてきた。ベルリン・フィルはもちろん、ザルツブルク音楽祭もウィーン国立歌劇場も、そのすべてが、フルトヴェングラーが居たがためにカラヤンにとって縁が薄かった。チャンスは二度とやってこない。特にポストというものは、穫れる時に手にしなければ二度と、その機会はない。レッグの忠告を聞いたカラヤンが冷たい目で見て、『邪魔をする奴は誰だろうと」と呟くのを、レッグの妻でソプラノ歌手のエリーザベト・シュヴァルツコップは聞いた。ここで英EMIの親分レッグとカラヤンの関係は終止符を打つが、この約10年間に残したレッグ&カラヤン&フィルハーモニア管弦楽団のレコードの数々は、正に基準となるようなレコードであったと断言出来ると思います。こうして英国で基準となるようなレコード作りをレッグから嫌と言うほど学んだカラヤンは、1959年以降この手兵とともにドイツ・グラモフォンに膨大な数の基準レコード作りに邁進した。広く親しまれた名曲を最高の演奏でレコード化することに情熱を傾け続けた彼の姿勢は、このアルバムにも端的に示されています。本盤はカラヤン&ベルリン・フィルによる1981年収録のシュトラウス・ファミリーの作品集です。収録曲は、ワルツ《美しく青きドナウ》作品314、ポルカ《ハンガリー万歳》作品332、加速度円舞曲 作品234、ペルシャ行進曲 作品289、喜歌劇《こうもり》序曲、ポルカ《浮気心》作品319、ワルツ《芸術家の生涯》作品318、ポルカ《雷鳴と電光》作品324。アルバムを締める《雷鳴と電光》の演奏はシュネル(急ぐこと)を優先していカルロス・クライバーとは正反対で、そのカラヤンらしい緩やかなテンポは、ポルカ・シュネルですら優雅さを重視していてカラヤンが自伝の中で「血の中を流れている」と語っているのに違わず、楽曲たちには重視したことを徹底した完成した優雅さがあります。
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