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カラヤン節の極み。 ― 長岡鉄男外盤ジャーナル及びレコード漫談推奨ディスク。メンデルスゾーン、ブルッフのヴァイオリン協奏曲のカップリング。哀愁を帯びた甘美な旋律のメンデルスゾーンと、創意の溢れるブルッフの2曲を収録、迸る情熱で奏でられるソロと壮麗で重厚なオーケストラの響きが織りなす演奏です。ヘルベルト・フォン・カラヤンの録音で一番充実しているのは1970年代後半から80年代前半の録音。再録音の多いチャイコフスキー、ドヴォルザーク、ベートーヴェンと1970年代の演奏は緊張感が違うと思う。円熟してカラヤン節の極みとでも言える。レコード録音の壺を先天的に把握していたカラヤンのオーケストラの鳴らしっぷりは、ダイナミック・レンジが非常に大きい。ノイズに埋もれないレコード録音の理想を手に入れて、弱音部では繊細きわまりない音楽を作り出し、強奏部分では怒濤の迫力で押してくる。その較差、落差と云ってもいいのかな、他の指揮者ではなかなか見られないカラヤン流の演出。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の迫力も頂点に達している。個々の楽器が当然のように巧いし、全体がよく揃っている。アンネ=ゾフィー・ムターもカラヤンの意図を良く理解している。カラヤンの教えに忠実に弾いているのか、2人共に同じ目標を目指していたからか、現在のムターのスタイルも延長線上にあるのでカラヤンの美点を吸収したのかもしれない。本盤は『カラヤンと華麗なるソリストたち』の一枚に数えられている当時17歳のムターが初めて挑戦したロマン派ヴァイオリン協奏曲の名作2曲のレコーディング。どちらもたった2回のセッションで録音されました。17歳のムターがカラヤン&ベルリン・フィルに臆せず立ち向かっていっている姿が彷彿とさせられる白熱したところを感じます。メンデルスゾーンではカラヤン&ベルリン・フィルの厚みのある響きがムターのソロを盛り立て、スケールの大きな演奏を繰り広げています。冒頭からムターが存分にその美音を発揮している。良く響き、よく歌うヴァイオリンはこの曲に対してまさにはまり役。艶のある低音域と凛と張詰めた高音、いずれも全く濁るということがないのは奇跡的である。純粋な美音というイメージであり、甘さはさほど強調されない。演奏スタイル自体が素直で嫌味な装飾がない。カラヤンは大きく包み込むようにサポートしているが、自己表現をかなり抑え、ムターが気持ちよく演奏できるように黒子に徹しているようだ。白眉はブルッフ。かつては三大ヴァイオリン協奏曲に位置づけられていた名曲だけに数々名演奏は聞きましたが、これほど迫力に満ちた演奏は初めて聞くような新鮮さを感じます。この曲は協奏曲としては変わった構成で、第1楽章には「前奏曲」というタイトルを付け、第2楽章がメイン、第3楽章が終曲となっています。聞き所は第2楽章の瑞々しいロマンティシズムで、ムターの魅力が最大限に発揮されています。クライマックスは、これがとても協奏曲の伴奏とは思えぬ素晴らしさで、ムターの力強いヴァイオリンとともに曲の美しさを満喫できます。もちろんカラヤンは威圧的にねじ伏せるようなところはなく、ムターのヴァイオリンを受けて立っているものの、だからと言って手加減はしていない、そんな感じを受けます。個人的には大評判のメンデルスゾーンよりブルッフの演奏の方が好みである。録音もブルッフの方が優秀。音場はワンポイント録音のような広がりがあり、ドイツ・グラモフォンらしい切れもある。初期のデジタル録音の良さが出た優秀録音盤と言っていい。
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それまではMeldelと名乗っていた、祖父モーゼスは「ドイツのソクラテス」と言われた哲学者で、「Mendelssohn(メンデルの息子)」という姓は彼自身が名付けたものです。父アブラハムは銀行家、母レーアも銀行家の出身で、ヨーロッパでも有名な家族の一つだった。ユダヤ人だったことを除けば、メンデルスゾーン(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn-Bartholdy)ほど裕福な出身の音楽家はいません。ところが、ユダヤ人だった差別から公立の学校へ通うことができず、しかし、公立学校に通えなかったことがむしろ幸運だったと言えるかも知れません。教育熱心だった父は、超一流の家庭教師を招いて、4人の子供たちに一日びっしりと組まれたさまざまな勉学をさせました。ドイツ語にドイツ文学、ラテン語にギリシャ語、フランス語に英語、算数と数学、図画、舞踏、体操、水泳、乗馬、そして人間形成のためと考えられていた音楽と。メンデルスゾーンは幼少のころから、モーツァルト同様にヨーロッパ各地へ頻繁に旅行していましたが、ロマン主義文学の先駆けであるゲーテとの出会いなど、旅は様々な様式、人間性、民族性に触れる絶好の機会となったようです。これもまた父が計画したことでした。やがて1827年にはベルリン大学に籍を置き、ヒューマニズム教育を完成し、目もくらむほどの知性を身につけていました。このような様々な教育が土壌となって、メンデルスゾーンは9歳でピアニスト・デビューするなど、音楽面で早くからすぐれた才能を発揮していきました。が、ベルリンで、メンデルスゾーンはユダヤ人というだけの理由で本来就任するはずの職から排除されてしまったことがありました。ただ、メンデルスゾーン本人は自分がユダヤ人であるとかそのようなことは全く気に留めておらず、信仰心の篤いキリスト教徒であり、ドイツの民族主義的な音楽家だったと言われています。彼の暗い予感どおり、ドイツでは社会不安を背景にアーリア主義が拡大し、ユダヤ人排斥が強化され、ミュンヘンにファシズム政党ナチスが生まれ、その党首ヒトラーが政権をとると、ユダヤ人への迫害は公然のものとなり、メンデルスゾーン銀行は解体されてしまう。音楽も例外ではなかった。メンデルスゾーンの名前は教科書から消され、ゲヴァントハウスの前に建っていた彼の銅像は破壊され、彼の名がついていた通りの名称は変更され、彼の作品の出版は禁止された。《ヴァイオリン協奏曲ホ短調》だけは、人気がありすぎて演奏され続けたが、メンデルスゾーンの名前は伏せられたままだった。世界三大ヴァイオリン協奏曲にメンデルスゾーン、ベートーヴェンは不動だが、SPレコード時代はブルッフ、LPレコード時代になってチャイコフスキーが3つめを争うが、ブラームス、シベリウスなどと有名コンチェルト七大としたい。メンデルスゾーンへの評価は、死後、時代の波にもまれて下降していった。1945年、戦争は終結し、ナチスは崩壊したが、いったん傷つけられたメンデルスゾーンの名誉回復は大変だった。メンデルスゾーン作品の大きな特徴である貴族的優雅さ、明朗で知的な美しさ、類稀なメロディの豊かさといったものが、あたかも短所であるかのように論じられさえした。長い間、「軽い曲を作った幸せな音楽家」「サロン的音楽家」といった侮蔑的扱いを受けてきた影響はあなどれない。今でこそ芸術性・創造性の高さを認めない者は少なくなったものの、この曲は曲への深い共感と、自然な息づかいで精神的な余裕が感じられる演奏である必要がある。そこが課題だが、平然と演奏できるようになるには、作曲の背景にある《とある人類が引き起こした悲しい歴史》の生々しい記憶が遠いものと成ってからのことかもしれないが。戦時下、作曲家の名を伏せて数々の演奏家が奏でた協奏曲は、平和に憧れて、みんなで新しく作った曲と言って良いのではないか。
音楽は世界共通の言語です。国も、性別も職業も、宗教も歌ったり、楽しんだりすることに関わらない。様々な国の音楽を聴いて、その国に想いを馳せ、その曲自体を楽しむことは、まことに正しいし、音楽の持つ偉大な力のひとつだと思います。音楽を聴いて幸せな気持ちになったり、癒されたりする。何より、生きる喜びを人とシェアできるのが音楽の素晴らしさです。しかし、言葉には様々な種類の言語があり、知らない言語との会話は理解できない。同じ九州内に生活していても、まともな会話にならないことも有るでしょう。それなのに、一方で音楽が「世界共通語」であるという誤った認識が従来よりある。音楽を楽しむだけなら、それで充分なのですが音楽をプレイする立場がそれでは困る。『ルーツは誰ですか』と、2016年9月、長崎・佐世保で活動しているフルート奏者に問うた。ところが彼女の取り巻きが憤りを込めて「彼女の音楽は何かに似ているというものではない」と得意気に答えた。広瀬すず、中条あやみ、天海祐希らで感動実話を映画化した『チア ダン』で、「これがジャズ、これがヒップホップ」と表現してみせるワンシーンがあるが、〝マズルカ〟のリズムを覚えて、〝ポロネーズ〟はどういう踊りかを知ることがショパンの正しい演奏の理解になると勧められるのは今では良く有ること。チャイコフスキーのロシアの風土は〝トレパーク〟が大事だ。ベートーヴェンの旋律はウィーンの民謡を借りている。モーツァルトの〝きらきら星変奏曲〟はフランスの遊び歌だし、初めてモーツァルトを聴いたトルコ人は、こんな子供だましが音楽なのか、といって笑ったそうだ。同じ西洋の音楽であっても、ベートーヴェンばかり聴いていて初めてバッハを聴いたときは全く違う音楽のような印象を受ける。同じ作曲家であっても初めて聴く曲には、なんだかよく分からないという印象を持つ。何度も聴いている内に、その曲の良さや悪さが理解できるようになる。
音楽を演奏するのに大切な〝メロディー〟〝ハーモニー〟〝リズム〟を本当に会得しようと思うには民族や文化、宗教の理解が必要です。それぞれの国の音楽を演奏して、その国の音楽を知った気になってしまうのは、まことにおこがましく、恥ずかしく、恐ろしいことです。ヨーロッパ音楽の伝統の何たるかをしっかり把握していないものは、聴いていて虚しいばかりです。それはジャズでも同様です。ジャズには技法と作法があると黒田卓也さんが説いている。ジャズの歴史はクラシック音楽ほどではありませんが、歴史を知っているか知っていないかがミュージシャンには大切だ。インタープレイの相手が、どこの時代が好きなのかという言葉(言語)がわからないと会話ができない。ジャズ・ミュージシャン同士で重要視されている『NOW'S THE TIME』に関心がないと、アドリブもまともに出来ないでしょう。それを置き去りにしてしまっている「楽器を弾ける」演奏家が郎党を組んでいるのは、どうしたもんじゃろの。One Step on a Mine, It's All Over ― 彼らは自分たちが育った街を自慢できるだろうか、胸はって自分の会社を誇れるだろうか。またそれとは別に「音楽的に弾く」と言う意味をとり違えている人を見ました。これは下手をすると一生引きずってしまうでしょうね。ちょっとかわいそう。日本人は器用な民族なので、真似をして良いのです。そして先達に敬意を忘れずに、ルーツを誇りましょう。ジャズのライヴでアドリブが、ただのメンバー紹介で、全くアドリブの様式に成っていない演奏は気持ち悪いが、最後で何十秒も長々と音を引っ張っているのも閉口してしまう。それは自分だけのエクスタシーに酔っているだけで、聴き手を疎かにしている演奏だ。音楽を聴いてもらうというのは、どちらが主体なのか、自分たちの満足を満たすのはリハーサルのうちに済ませて欲しいと思う。お金をもらって聴いてもらっていることを忘れてはいけない。特に、プロとして聴衆の方々に、瞬間芸術であるこの「音楽」を提供する場合には、もっと謙虚に、もっと慎重であるべきだと思います。必ずしも、その国、言葉のエキスパートであるべき、と考えるのは適切だとは思いません。ただ、日本人である以上、一流のプレーヤー足り得るためには、器用に逃げないで自分の血の中にない部分については学び取る必要があるのです。どんなに個性的な演奏も、結局は独善的なもので専門家的に聴けば説得力はありません。
デビュー当時のジャケットのヘルベルト・フォン・カラヤンとのツーショットを見ると、まさにふくよかな女子高生っていう感じで巨匠と笑顔を交わしている若いアンネ=ゾフィ・ムター(Anne-Sophie Mutter, 1963年6月29日、西ドイツ・バーデン生まれ)。高名なヴァイオリンの名前が踊ることなくムターのヴァイオリンは無名だ。レコードに針を降ろして、ワクワク動機が高ぶるリズムを刻む前奏と同期してソロの登場を待つ。そして聴いたムターのヴァイオリンの自身に満ちた魅力的な歌いまわし。華やかな話題のデビュー盤を聴いて、及第点止まりだった天才少女、いつの間にかフェードアウトしていた天才少年のレコードは、あまた聞いてきた。天才少女として、カラヤンのバックアップのもと華やかにデビューした彼女だけれど、その後の活躍を見ると、決して期待を裏切っていないことが判る。それは、カラヤンと録音したすべての協奏曲に言えるものだが、カラヤン、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共演であることが、このディスクの存在価値を高めている魅力である。1979年の演奏で古いが、この演奏への自身が感じられる。若き日のムターの演奏を楽しむことができます。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は屈指の名曲だけにすぐれたディスクが多数存在するので、その中に割って入るのは難しいとは思うが悪い演奏ではない。ぜひとも聞きたい演奏のひとつだと思います。本盤におさめられたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、カラヤンの秘蔵っ子であったムターとともにスタジオ録音を行った演奏だ。ムターはカール・フレッシュ門下のエルナ・ホーニヒベルガー、アイダ・シュトゥッキに師事。11歳でドイツ青少年音楽コンクールに優勝。1976年のルツェルン音楽祭のデビュー演奏会を聴いたカラヤンに認められ、翌年ベルリン・フィルと共演して一躍世界の注目を浴びた。カラヤンはムターの演奏をオーディションで聴き「奇跡のようなヴァイオリニストを発見した」と絶賛し、その場でカラヤンが主宰するザルツブルクの聖霊降臨祭音楽祭への出演が決まった。当時のカラヤンは優秀なヴァイオリニストを探していた。帝王の情報網に「13歳のすごい少女がいる」との噂が引っかかったのだ。1977年5月、初共演したモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番は大成功した。これが大きな反響を呼び、翌1978年には初録音をカラヤン指揮ベルリン・フィルの伴奏で行った。この時、ムターは僅かに14歳だったが、デビュー・アルバムとなった「モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番、5番」で、すでに彼女は揺るぎのない安定した技術と大家のような風格を持っていた。以後、帝王はこの少女しかソリストに起用しなくなるのだ。そして、ムターは20歳になるまでカラヤンとベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームス、ブルッフ、チャイコフスキーといった超有名協奏曲を録音していった。当時、いまだハイティーンであったムターに対して、カラヤンは同曲を弾きこなせるようになったら録音しようと宿題を出したとのことである。しかしながら、懸命の練習の結果、同曲を弾きこなせるようになったムターであったが、その演奏をカラヤンに認めてもらえずに、もう一度宿題を課せられたとのことである。それだけに、本演奏には、ムターが若いながらも一生懸命に練習を積み重ね、カラヤンとしても漸くその演奏を認めるまでに至った成果が刻み込まれていると言えるだろう。
ヘルベルト・フォン・カラヤンは、協奏曲録音においては、とかくクリスチャン・フェラスやアレクシス・ワイセンベルクなどとの演奏のように、ソリストがカラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による演奏の一部に溶け込んでしまう傾向も散見されるところだ。しかしながら、アンネ=ゾフィー・ムターとの演奏では、もちろん基本的にはカラヤンのペースに則った演奏ではあるが、ムターの才能と将来性を最大限に引き立てようとの配慮さえ見られると言える。カラヤンの録音で一番充実しているのは1970年代後半から1980年代前半の録音。「ベルリン・フィルを使って残しておきたい」と念願込めて再録音の多いチャイコフスキー、ドヴォルザーク、ベートーヴェンと1970年代の演奏は緊張感が違うと思う。円熟してカラヤン節の極みとでも言える。レコード録音の壺を先天的に把握していたカラヤンのオーケストラの鳴らしっぷりは、ダイナミック・レンジが非常に大きい。ノイズに埋もれないレコード録音の理想を手に入れて、弱音部では繊細きわまりない音楽を作り出し、強奏部分では怒濤の迫力で押してくる。その較差、落差と云ってもいいのかな、他の指揮者ではなかなか見られないカラヤン流の演出。ベルリン・フィルの迫力も頂点に達している。個々の楽器が当然のように巧いし、全体がよく揃っている。カラヤンの伝記を著したリチャード・オズボーン氏がモーツァルトの協奏曲の演奏の項で、高速のスポーツカーに乗った可愛い娘を追いかけて、曲がりくねった慣れない田舎道を飛ばす。と記しているが、本盤の「ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲」の演奏も正にそのような趣きを感じさせる名演であると言える。カラヤン&ベルリン・フィルは本演奏の当時は正にこの黄金コンビが最後の輝きを見せた時期でもあったが、それだけに重厚にして華麗ないわゆる〝カラヤンサウンド〟を駆使した圧倒的な音のドラマは本演奏においても健在であり、ムターのヴァイオリンをしっかりと下支えしているのが素晴らしい。本盤の演奏におけるムターのヴァイオリンは、カラヤンが求めた音楽を意識し過ぎたか、いつものムターのように骨太の音楽づくりではなく、むしろ線の細さを感じさせるきらいもないわけではないが、それでも、トゥッティにおける力強さや強靭な気迫、そしてとりわけ緩徐楽章における伸びやかでスケールの大きい歌い回しなど随所にムターの美質を感じることが可能だ。択一を求められれば悩ましいところだが、ムターの個性が全開の演奏ということであれば、 クルト・マズア指揮ニューヨーク・フィルハーモニックとの演奏の方を採るべきであるが、オーケストラ演奏の重厚さや巧さなどと言った点を総合的に勘案すれば本演奏の方を、今のところは断然上位に掲げたい。
ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan オーストリア 1908〜1989)はその魅力的な容貌と優雅な身のこなしでたちまちにして聴衆の人気をとらえ、たんにこの点から言ってもその人気におよぶ人はいない。しかも彼の解釈は何人にも、そのよさが容易に理解できるものであった。芸術的に高度のものでありながら、一種の大衆性をそなえていたのである。元来レパートリーの広い人で、ドイツ系の指揮者といえば大指揮者といえども、ドイツ音楽に限られるが、カラヤンは何をやってもよく、その点驚嘆に値する。ドイツ、オーストリアの指揮者にとって、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスは当然レパートリーとして必要ですが、戦後はワーグナー、ブルックナーまでをカバーしていかなくてはならなくなったということです。カラヤンが是が非でも録音をしておきたいワーグナー。当初イースターの音楽祭はワーグナーを録音するために設置したのですが、ウィーン国立歌劇場との仲たがいから、オペラの録音に懸念が走ることになり、彼はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をオーケストラピットに入れることを考えました。カラヤンのオペラにおけるEMI録音でも当初はドイツもの(ワーグナー、ベートーヴェン)の予定でしたが、1973年からイタリアもののヴェルディが入りました。EMI がドイツものだけでなく広く録音することを提案したようです。この1970年代はカラヤン絶頂期です。そのため、コストのかかるオペラ作品を次々世に送り出すことになりました。オーケストラ作品はほとんど1960年代までの焼き直しです。「ベルリン・フィルを使って残しておきたい」というのが実際の状況だったようです。この時期、新しいレパートリーはありませんが、指揮者の要求にオーケストラが完全に対応していたのであろう。オーケストラも指揮者も優秀でなければ、こうはいかないと思う。歌唱、演奏の素晴らしさだけでなく、録音は極めて鮮明で分離も良く、次々と楽器が重なってくる場面では壮観な感じがする。非常に厚みがあり、「美」がどこまでも生きます。全く迫力十分の音だ。そして、1976年にはウィーン・フィルから歩み寄り、カラヤンとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は縒りを戻します。カラヤンは1977年から続々『歴史的名演』を出し続けました。この時期はレコード業界の黄金期、未だ褪せぬクラシック・カタログの最高峰ともいうべきオペラ・シリーズを形作っています。
  • Record Karte
  • レコード・アカデミー賞受賞盤。1980年9月ベルリン、フィルハーモニー。ギュンター・ヘルマンス録音、ギュンター・ブリーストのプロデュース。優秀録音、名盤。
  • DE DGG 2532 016 ムター&カラヤン メ…
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