34-21095

商品番号 34-21095

通販レコード→独ORIGINAL RECORDING BY THE DECCA 復刻盤

オーディオ・システムを組み立てる時、コンセントに差し込む電源プラグのことを意識したことはおありか? ― 電源プラグをよく観察すると、金具が出ているプラスチック面は、規格がプリントされていることが分かる。許容電圧の数値などだ。その上下を元に、差し込むことが基本である。平たいプラグは、規格が書かれている面を上にして、ブランド名が書かれている面を下にするのがベスト。交流電源であってもそれが基本、どちらでも良いのではない。オーディオ同士の、ピンコードなどについても、差し込むとき方向性がある。ケーブルの表皮を、注意するとクレジットがプリントされている。それを、読み取る方向で電気が流れるように配線するのが基本となる。クレジットの始め側をプリアンプ、そして終わり側にパワーアンプが来るように繋ぐのが肝心だ。微細な電流が動作を決めるパソコン関係では、ケーブルの方向がはっきり明記されるし、USBの向きも間違って差させない工夫になっている。壁のコンセントは左右の大きさが異なる。ホット、コールドという呼び名があるように、ホット側から電流があり、コールド、すなわち、グランドアースがあるという通電の理屈にあるのだから、それに従うのは自然だというのが、よって立つ立場である。先般、テレビのクイズ番組で、平成生まれのタレントが回転しているレコードに、トーンアームをぱっと離したのでレコード盤面をこすって傷を残したり、昭和生まれのタレントでも、カートリッジを盤面に乗せてからターンテーブルを回転させて、心臓に悪い思いをしましたが、レコード・プレーヤーの左右チャンネルを確認して、プリアンプからパワーアンプ、スピーカーへの配線チェックも今や昔。テープレコーダーと言っても、今となっては知る人ぞ知る録音機になってしまいました。業務用テープレコーダーは、録音通りに再生できるように、録音用ヘッドと再生用ヘッドは常に磁気テープに接していて、再生させながら後追い録音できる。再生中に誤って重ね録りしてしまうのを回避するために、一般家庭に向けての普及機では回路を切り替えて録音ボタンを押させるワンアクションを加えて対策している。
イギリスの作曲家アルバート・ケテルビーの天才ぶりはご存知でない方も今では多いでしょうが、11歳のときには、習作のピアノ・ソナタをウォーチェスター音楽祭で演奏し、作曲家エドワード・エルガー(1857~1934)に賞賛され、13歳の時、ヴィクトリア女王作曲奨学金を受けて、ロンドンにあるトリニティ・カレッジの音楽コースでグスターヴ・ホルスト(1874~1934)に師事、才能を認められ、16歳でウィンブルドンのセント・ジョン教会のオルガン奏者に迎えられる。この16歳のときまでにいろんな楽器を習得し、どれもプロのオーケストラで活躍できる腕前だったとか。22歳で教会との契約期間が切れたのを機に、一転してヴォードヴィル劇場の音楽監督となり、軽音楽の編曲や指揮に才能を発揮しますが、本格的になるのは30歳を過ぎてから。時代の流れで必要になったからでした。ポピュラーな軽音楽作曲家として名を挙げ、それらの作品はサイレント映画での伴奏音楽やカフェあるいはボールルーム(ホテルなどの舞踏室やダンスホール)でのムード音楽などとしてもてはやされ、放送局やレコード会社など、当時の新しいメディアでの音楽ディレクターとしての活動が中心であった。1912年、37歳の時に軽く書いたつもりの「ファントム・メロディ」が大ヒットし、1915年の「修道院の庭で」で大成功を収め、管弦楽による描写的なライト・ミュージックに専念するようになり、「ペルシャの市場にて」(1920年)、「ウエッジウッドの青」(1920年)、「中国寺院の庭で」(1925年)などの人気作が相次いで誕生した。アラビアや東南アジアの民族音楽や日本の国歌「君が代」をモチーフとして用いるなど、オリエンタリズムに基づいた異国趣味的な作品を多く遺します。白黒の映像を観て憧れるくらいの異国。映画「タイタニック」に見るように、新天地を求める労働階級は異国情緒を優雅に楽しむことも出来ず、富民層の旅土産がケテルビーも楽しみだったでしょう。「ペルシャの市場にて」は、1920年、当時ケテルビーがディレクターを担当していたラジオ番組の穴埋めのために急遽作曲したといわれる。この曲は中東の大国ペルシャ(現在のイラン)が舞台。ラクダの商隊や旅支度の美しい姫君、奇術師や蛇使い…市場の喧騒が表現されている。それが見事に当たり世界的な大ヒットとなった。ホーム・ミュージックとして、ケテルビーが作曲・演奏したレコードは売れ、コンサートも大いに受けた。その人気により、アムステルダムのコンセルトヘボウの客演指揮者としても招かれたこともあるが、本格的なクラシック音楽の作曲家としては、1980年代に「The New Grove Dictionary of Music and Musicians」の改訂版に彼の名が載るまで認められなかった。
大槻ケンヂ率いる、日本のパンク・ロック・バンド・特撮による「ケテルビー」という曲はご存知だろうか?イギリスの作曲家アルバート・ウィリアム・ケテルビー(Albert William Ketèlbey, 1875年8月9日〜1959年11月26日)代表的作曲である「ペルシャの市場にて」は、夏は猛暑、冬は極寒の、気候的にも寒暖激しい中東地域の〝市場の様子〟を描いた楽曲だが、大槻は「ケテルビー」で裏読みをした、問いを返してくる。その市場の背景となる〝ペルシャの街〟では、ラクダや馬を率いて貿易を行う商人や、巡礼者、旅行者、ヘビつかいの芸人、占い師、乞食物乞いなどが存在し、作曲家ケテルビーによるこの曲はそれをモチーフとして描かれ、管弦楽団による演奏とともに、さらにそこに原曲では、物乞いからの声役としてコーラスが加わります。作曲家ケテルビーの描きたかったことは、その市場にある、様々な人間模様、そこに垣間見る生と死の儚さだったのではないかというのです。ケテルビーがヴォードヴィル劇場の音楽監督となり、ラウル・クリフォードやアントン・ヴォドリンスキなどのペンネームを使って編曲・指揮に才能を発揮し、ミュージカルが大衆受けしていた19世紀末は、第一次世界大戦が悪化していた。19世紀後半になるとドイツの産業革命が急激に進展し、新しい植民地を欲し、イギリス、フランスに対して再分割を主張するようになった。イギリスはフランスと英仏協商を、ロシアと英露協商を結んで、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対抗しようと試みた結果、1914年にサラエヴォ事件を契機にして、ヨーロッパの大国同士が争う第一次世界大戦に突入した。イーペルではイギリスとドイツでイープルの取り合いを数度繰り返した挙句、双方で50万人以上の死傷者を出し、ガリポリの戦いでイギリス軍を主力とする連合軍は4万人以上の戦死者と倍近い負傷者を生み出したがトルコを陥落させることはできなかった。第一次大戦は人類史上初の世界的規模で展開した未曾有の総力戦となり、多大なる犠牲を出しながらも何も得ることが無かったイギリスでは政変さえ起こった。この戦争は、結果としてイギリスが勝利したものの長期間に及ぶ総力戦によって国力が疲弊し、特に新大陸の若年国アメリカの助けなしで戦争を終えることはできなかった。第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは、その戦後処理に対して不満を持つ国内勢力が少なくなく、ファシズムの台頭に反映された。ナチスを率いるアドルフ・ヒトラーは戦後協調体制であるヴェルサイユ体制に対してこれの破壊を目指し、首相のネヴィル・チェンバレンは、再軍備宣言を容認した。1939年9月1日にナチス・ドイツがポーランドへの侵攻を始めるとイギリスはフランスと共に対独宣戦布告を行った。これが第二次世界大戦の勃発である。そういう時節下ケテルビーは、評判良かったオリエンタリズムに基づいた異国趣味的な作品を発表しなくなる。
アルバート・ケテルビーがヴォードヴィル劇場の音楽監督となり、そこで女優で歌手のシャーロット〝ロッティ〟ジーゲンベルグとの関係を始め、1906年に結婚。翌年誕生した、クリフォード・マイケル・カーゾン(Clifford Michael Curzon, 1907年5月18日〜1982年9月1日)は、甥になる。カーゾンの本来の苗字はジーゲンベルグ(Siegenberg)。ユダヤ系だったかは調べていませんが、骨董品販売店を父親は営んでいたが、第一次世界大戦の勃発直後の1914年8月、苗字をカーゾンに変更した。その翌年にケテルビーは「修道院の庭で」で大成功を収め、そして世界中で知られるようになる。そうしたなかで度々カーゾン家に訪れて彼のピアノ演奏で、彼の音楽を聴きながら育ったクリフォードは、ピアノに惹かれていった。12歳のとき、ロンドン王立音楽院入学、わずか2年の短期間で、高等科に進学。彼の教師、ベルンハルト・スタヴェンハーゲンはフランツ・リストの生徒でした。1923年にプロムスで公開デビューを果たし、ヘンリー・ウッド卿の指揮でバッハの3台のピアノのための協奏曲を演奏した。卒業後ロンドン音楽院の副教授になったが、父親が重い病気になり、家業に影響を及ぼしたことで、望んでいない勤めだった。教鞭をとりながらも演奏活動を続けて、トーマス・ビーチャム卿の指揮で、モーツァルトの戴冠式協奏曲のソロを弾く機会を得る。と、同僚の母親の支援を受けて生活費の心配がなくなり、ベルリンに出てアルトゥール・シュナーベルのもとで研鑽を積み、その後、パリのワンダ・ランドフスカとナディア・ブーランジェに師事。カーゾンは、彼自身のピアニズムはシュナーベルとランドフスカに影響によるものが多いと信じていた。そしてカーゾンは、彼らはお互いを嫌い、彼らの音楽的美学において正反対であったが、シュナーベルから音楽の表現を、ランドフスカから技術の正確さについて学んだ、と言っている。カーゾンのピアノの響きには派手さは決してないが、その音楽は本質を突き、しっとりと聴かせる。第二次世界大戦が勃発した、1939年のアメリカ・デビューで大成功を収めて以来、欧米での評価がますます高まり生涯、神の様に尊敬されました。一方、ケテルビーは第二次世界大戦の間、旅行制限のため規模は小さくなったが国内各地をツアーして指揮を続け、またキングスウェイ・ホールでのコンサートを毎年開き、指揮だけでなく、戦意高揚のための行進曲を作曲したり、査察官としても行動している。
ウィーン八重奏団(The Vienna Octet)は、長い伝統に育まれた独特の優美な響きと、自発性に富む豊かな表現で、世界最高のオーケストラの一つとして、常に世界の聴衆から愛されてきたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の首席奏者たちを中心に結成されました。1947年、当時ウィーン・フィルのコンサートマスターだったヴィリー・ボスコフスキーと、彼の実弟で首席クラリネット奏者だったアルフレート・ボスコフスキーを中心にヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの弦5人と、クラリネット、ホルン、ファゴットの管3人で結成され、英デッカに数多くの名盤を残しました。ウィーン・フィルのアンサンブルといえばウェストミンスターでのウィーン・フィルハーモニー弦楽四重奏団のレコードがあまりにも有名だが、これはそれとそっくりの典雅で甘美な演奏。その後もその時々の首席奏者を中心とする8人のメンバーで受け継がれ、今日に至るまでウィーンの伝統的奏法を身につけた名手たちによって受け継がれ、ステレオ時代にはリーダーがアントン・フィーツに交代して活躍し続けました。録音にリアル感のあるしっかりとした陰影があり、ウィーンの名手達が弾力的なリズム感と固い構成感で全体を見失わせない実に上手い設計で聴かせてくれる演奏は、きわめて余裕のある進行で一分の隙も無い名演です。弦5人、管3人の編成のために書かれた最も美しい作品であるシューベルトの八重奏曲をはじめ、ベートーヴェンの七重奏曲、モーツァルトのクラリネット五重奏曲やディヴェルティメントなど、ウィーンゆかりの作曲家の名曲の魅力を独特の〝ウィーン訛り〟で堪能させてくれる。伝統的な良さを残しながらも切れ味の鋭い端正な演奏スタイルによる名演です。ウィーン・フィルの典雅な響きと自然で豊かな表現で、極上の室内楽を聴かせています。
シューベルトがピアノ五重奏曲《ます》の作曲依頼を受けたのは1819年7月、29歳年上の友人で歌手のヨハン・ミヒャエル・フォーグルに誘われて風光明媚な北オーストリアのシュタイアー地方の町を訪れたことが創作のきっかけとなっています。滞在中に知り合った、この町の鉱山長官の、ジルヴェスター・パウムガルトナーがシューベルトの歌曲「ます」を大いに気に入り、歌曲の主題を使ったピアノ五重奏曲を依頼したからです。さらに、パウムガルトナーは木管楽器とチェロの愛好家であったこともあり、当時話題になっていたフンメルの五重奏曲と同じ楽器編成の作品を依頼したために、通常とは変わった編成の作品が仕上がりました。言うまでもなくクインテットの一般的な編成はピアノ+弦楽四重奏ですが、ここではピアノ+ヴァイオリン+ヴィオラ+チェロ+コントラバスとなっています。コントラバスを加えて、第2ヴァイオリンを欠いています。知って聞き返して確認してしまうほどで、この楽器編成は一頃就職試験によく出たそうです。ひっかけ問題としては最適だったくらいに、第2ヴァイオリンの不在に不便がない。これは、チェロの愛好家だったパウムガルトナー自身が、その腕前を存分に発揮できるようにするためだったようです。最低音をコントラバスが受け持つために、チェロが活躍でき、リズムを支えるピアノの左手も縛りから開放されて、両手自由に動き回るようになっています。また、シュタイアでの幸福な日々を反映するかのように、翳りの少ない伸びやかな作品となっていることもこの作品の人気の一因となっているようです。この曲はシューベルトが22歳、まだ若々しく希望と幸福に溢れていた時期の名作として知られる。尚これ以降には、シューベルトはピアノ五重奏曲を作曲していない。自筆譜は不幸にも紛失しており、また、この作品も生前には出版することが出来なかった。
淡々とした美しさを奥深い透明感で貫いて描ききる素晴らしい名演。ウィーンの名手達が弾力的なリズム感と固い構成感で全体を見失わせない実に上手い設計で聴かせてくれる。一貫して広がりを持った、豊かで伸びやかな感性に溢れている。こうした表現は、当時のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターだった、ヴィリー・ボスコフスキーを先頭にして、弦の首席奏者を務めていたギュンター・ブライテンバッハ(ヴィオラ)二コラウス・ヒューブナー(チェロ)ヨハン・クルンプ(コントラバス)という顔ぶれです。オーストリア出身のシューベルトも納得するだろう最もウィーン風の解釈。本盤でも、ウィーン八重奏団員の面々と優雅で風格ある演奏を聴かせてくれます。弦楽器の響きは最新のものと比べても遜色がないほどの素晴らしさです。とりわけ、コントラバスやチェロの低弦の響きが極めて魅力的です。ピアノは、ヴィエンナ・オクテットとの共演では必ずと言って登場するケテルビーを叔父に持つクリフォード・カーゾン。フリードリヒ・グルダ+パウル・バドゥラ=スコダ+イェルク・デムスのウィーン三羽烏にもう一羽加えて、ウィーン四羽烏と呼びたくなる位、ボスコフスキーらに打解けています。ピアニストとして唯一「サー」の称号を与えられたカーゾンは、師匠アルトゥール・シュナーベルゆずりのモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスなどドイツ・オーストリア系の作品を得意とし、その透明な音色と品格ある音楽性で圧倒的な支持を得ました。この録音は端正で立派なものですが、ほんの微かですが「異質感」が次第に感じられてきます。ウィーン八重奏団の演奏を注意して聴いていると、多少形は崩してでも「歌おう」という本能が至るところで顔を出します。いつもいっしょにアンサンブルをやっている弦のメンバーの中に、加わるピアノは来訪者です。親密な空間に乱入して、楽器の王様ピアノが弦楽器を圧倒してしまうことが音域の広さ、音量のダイナミズムでも可能です。この音量面でのバランスというのは日常的にアンサンブルをやっている弦のメンバーにとっては一番神経を使う部分だと思うのですが、もちろん、カーゾンが全体のバランスを崩すはずなどはありません。むしろ、控えめな音像を結ぶのですが、カーゾンのピアノは、アンサンブルが作る音楽世界にあわせて柔軟に歌おうとはしていません。彼のピアノは徹頭徹尾、端正で佇まいが崩れることはありません。ですから、弦楽器の方はふと我に返って襟を正すというような雰囲気があちこちで感じられます。陽気なウィーン子の中に謹厳実直なイギリスのジェントルマンを投じて、火花散る気配もありませんが、創造空間がある。その効果がジョン・カルショーは狙いだったのか、いっときの雰囲気ではなく普遍的記録に固定せしめている。シュタイアーの街で出会った音楽仲間と曲を作り上げていく過程の感興と、ウィーンに戻ってきて、友人たちと演奏する変化だろうか。結果、ここにコンツェルトハウス弦楽四重奏団&バドゥラ=スコダの〝ウィーン訛り〟とは違う独特のテイストのシューベルトが聴ける。
クリフォード・カーゾンは録音嫌いだったとはいえ、ディスコグラフィーを眺めると随分とレコード発売している。カーゾンは英デッカの専属演奏家だったが、もしも、カーゾンがデッカの名プロデューサーであったジョン・カルショーと友人でなければ、そして、カルショーが録音スタジオに強引にカーゾンを誘ったことに足る。カーゾンのピアニズムは、絶妙なタッチから紡ぎ出される音色の美しさでした。カルショーは、その美しいピアノの音色を録音ですくい取ることは、「空を飛ぶ小鳥を素手で捕まえようとするようなものだ」と語っていました。親しげに懐に飛び込んできてくれない、余所者がいるような違和感を纏っているような存在だったのか、カルショーはカーゾンのことを「大惨事を鞄に入れて持ち歩いているようなピアニスト」だともぼやいています。このイギリス人ピアニストはどこか浮世離れしたようなノーブルなジェントルマンであり、同時に「持っている」人でもあったようです。存在感がなかったのか、カーゾンが乗った客車だけが鉄道会社のミスで切り離されて行方不明になったこともあった。カーゾンがアルルベルク急行でウィーンに向かったとき。スタッフが駅に出迎えにいったが、列車が到着してもカーゾンの姿はない。カーゾンの妻に聞くとカーゾンが列車に乗るのをちゃんと見送ったといい、ウィーンで出迎えにきていた友人たちはカーゾンを見なかったという。彼は、どこに神隠しされた。カルショーたちがホテルやら練習場所やら方々探し回って、真夜中にまた駅へ行ってみたところ、アルルベルク急行の客車2両だけが、なぜか機関車に牽引されて遠くのホームへ移動しているところだった。この客車はどういうわけか、ザルツブルグの西で本線から切り離されて、待避線内に3時間も停車していたのだった。よもや、その切り離された客車にいたのがカーゾン。カーゾンはダミーの鍵盤で練習していたので、客車が切り離されたことに気づかず、彼が時刻と事態に気がついた頃には、どうしようもなかったのだった。アルルベルク急行の歴史に前例のないこんな愚かな事件の犠牲者になれるのは、カーゾンただ一人。
神隠しされるような、引き寄せる力でも持っていたのか。リストのソロ・ソナタのセッション、彼が密やかに、最高の美しさでピアニシモで演奏していると突然ホールの照明が落下してきた。会場のゾフィエンザールには、デッカのスタッフによって照明が追加されていたが、ヴェルディのオペラ「オテロ」でも、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」でも、ブルックナーの大交響曲のクライマックスでも、ヴェルディのレクイエムの怒りの日だろうと、オーケストラがどんなに大音響で鳴り響こうと、その照明はびくともしなかった。しかし、クリフォード・カーゾンがピアニッシモのパッセージを弾いていると、突如として全てのランプが大轟音とともに落下してきたのだった。こんなことは、仕組んでもやれることではないだろう。録音は録り直されたが、いつもなら完璧に弾けるところだが、何度も何度も弾き直したが、なぜかつっかえてしまうことがあった。1953年5月、エドゥアルト・ファン・ベイヌム指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団でブラームスのピアノ協奏曲第1番をアムステルダムで録音していた時のこと。終楽章の冒頭のピアノによるロンド主題の8小節。やっと完璧に弾けて、録音テープで確認しようとした。しかし、なぜかテープは沈黙するのみ。エンジニアが間違って、再生モードではなく録音モードにしてしまい、大事な演奏を消去してしまったのだ。するべきことはただ一つ。ふたたび録音のやり直し。カーゾンはこのショックからか、1回で正しく弾いたのだった。照明が落下して録音セッションが半年先に、仕切り直しとなったリストと同じく、この事件もまた、彼を待っていたのだ。『ファンファーレ』誌で「ブラームスの心の奥を明かしている」と評されたカーゾン&ファン・ベイヌムによる伝説のブラームスのピアノ協奏曲となった。そのような「待っている」存在があった人に、よくぞこれだけの録音が残ったものだ。部分録りした録音を継ぎ接ぎして妥協したり、セッション自体を諦めることなかった、ジョン・カルショーの熱意に感謝あるのみです。
第2次世界大戦の潜水艦技術が録音技術に貢献して、レコード好きを増やした。繰り返し再生をしてもノイズのないレコードはステレオへ。ステレオ録音黎明期1958年から、FFSS(Full Frequency Stereo Sound)と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた英国DECCAレーベル。レコードのステレオ録音は、英国DECCAが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。英DECCAは、1941年頃に開発した高音質録音ffrrの技術を用いて、1945年には高音質SPレコードを、1949年には高音質LPレコードを発表した。その高音質の素晴らしさはあっという間に、オーディオ・マニアや音楽愛好家を虜にしてしまった。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英DECCAはLP・EPにて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でもLP3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとしてffss(Full Frequency Stereophonic Sound)が使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売し、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。
  • Record Karte
  • 録音:October 1957, Sofiensaal, Vienna, Austria. Ensemble – Members Of The Vienna Octet : Cello – Nikolaus Hübner, Double Bass – Johann Krump, Viola – Gunther Breitenbach, Violin – Willi Boskovsky
  • DE DEC SXL2110 カーゾン&ウィーン八重奏団員 …
  • DE DEC SXL2110 カーゾン&ウィーン八重奏団員 …