34-20273
商品番号 34-20273

通販レコード→独グレイ"MASTERWORKS"黒文字盤[オリジナル]
もはやグロテスクとしか形容しようもないその様相― 先鋭時代のブーレーズによる、他に類例の見当たらないラヴェル演奏。この録音当時のブーレーズは、既成のイメージに染まった作品からあらゆる嘘を剥ぎ取ってしまおう、とでもいうような急進的な姿勢が最大の特徴とされていますが、ここではそのアプローチが、ラヴェル作品の根底にあって普段は浮上してこない暗くシニカルな要素を赤裸々にあばき立ててしまったかのようです。「私が客演指揮したなかで3度のリハーサルのあと言うべきことがなくなった唯一のオーケストラ」カラヤンは1967年のザルツブルク音楽祭の折りクリーヴランド管弦楽団でプロコフィエフの交響曲第5番を振っている。そして、クリーヴランド管弦楽団のシェフに就任したクリストフ・フォン・ドホナーニに送った祝電の中で称賛している一文だ。ジョージ・セルは凄いオーケストラを作り上げたものだ、とにかく耳を澄ませば、どの声部も聞こえてくるのだ。セルはまたオーケストラのある特定のセクションが目立つことを嫌い、アンサンブル全体がスムーズかつ同質に統合されることを徹底したとも云う。セルがクリーヴランド管弦楽団に就任してきた1946年当時、オーケストラのメンバーは88人だった。それを長い年月をかけて"うまく扱う個人的プレーヤーではどうにもならない"の信念を基本にしてメンバーを自分の好みに従うように入れ替えていき、器用とか上手いというだけの理由では一人たりとも団員を採用せず、オーケストラの一員として如何にその機能を果たすかに基本を置いて人集めをしていった。こうしたセルの演奏からまず伝わってくるのは、あたりを払うような威厳であり作品の本質を奥底まで見つめようとする鋭い視線が窺える。絶頂期のクリーヴランド管弦楽団の音色の美しさも特筆すべきもので、オーケストラ全体がまるでひとつの楽器のように聴こえます。"名人肌のオーケストラと違い、誠実なセルの性格を反映してか楽団員一人一人が原曲の意図に忠実に従い、音楽の純妙な燃焼に全力を尽くしたクリーヴランド管弦楽団の音に指揮者とメンバーの結びつきが、こんなに大切な要素を持っていると、このレコードからも感じられる。前衛作曲家で室内アンサンブルの指揮者でもあった若き日のブーレーズが、本格的にオーケストラの指揮を行うようになるのは1958年のことでした。ブーレーズのヨーロッパでの活動を知ったジョージ・セルは、1965年に自身のオーケストラであるクリーヴランド管弦楽団に招聘、翌々年の1967年にはブーレーズは同楽団の首席客演指揮者となりミュージック・アドヴァイザーも兼ねて晩年のジョ-ジ・セルをサポート、セルの没後も1972年まで職責を果たしオーケストラと強い絆で結ばれることとなります。
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現代フランスの偉大な作曲家、指揮者のブーレーズがフランスの黄金時代を築いたふたりの作曲家、ラヴェルとドビュッシーの作品集を録音。本盤はセルの没後にスタートしたラヴェルの管弦楽録音。「スペイン狂詩曲」「道化師の朝の歌」「亡き王女のためのパヴァーヌ」の3曲が、クリーヴランド管弦楽団での録音。「ダフニスとクロエ組曲第2番」がメインのアルバムでした。以降はニューヨーク・フィルとの録音。「作曲家はスコアを書くことに細心の注意を払っている。したがって、スコアにある何かを耳にしなかったりすることは大変悲しい」と語るブーレーズの言葉のように、この演奏からは各楽器グループの配置や細かなセンテンスが透きとおるように聞こえてきます。それは「ラ・ヴァルス」一曲をとってみても既に明瞭で、もはやグロテスクとしか形容しようもないその様相には驚きを禁じえないところ。ニューヨーク・フィルの「ダーク・クリスタル」なサウンドも手伝って切れ味の鋭さ、鋭角的なエッジの凄みがたまりません。既成概念の再考を激しく迫る、この時代のブーレーズならではの演奏と言えるでしょう。ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez)は1925年3月26日、フランスのモンブリゾンに誕生。リオンで数学などを学んだ後、パリ音楽院に進んでオネゲル夫人に対位法をメシアンに和声を師事し、そのごレイボヴィッツに12音技法を学びます。1945年ブーレーズは『ノタシオン」を作曲、翌1946年には『ピアノ・ソナタ第1番』、『ソナチネ』、『婚礼の顔』も書き上げています。この年ブーレーズは、プロとしての最初の本格的な仕事となるジャン=ルイ・バロー&マドレーヌ・ルノー劇団の音楽監督に就任します。仕事の内容は舞台演劇に音楽をつけるというものでブーレーズ自身、オンド・マルトノ演奏を行ったりギリシャ悲劇『オレスティア』のための音楽を作曲・演奏するなどして、1956年までの10年間に渡って活躍します。その間、『ピアノ・ソナタ第2番』、『水の太陽』、『弦楽四重奏のための書』などの他、代表作となる『ル・マルトー・サン・メートル(主のない槌)」を作曲。この頃のブーレーズは過激な言動でも知られていた時期で、「オペラ座を爆破せよ」、「シェーンベルクは死んだ」、「ジョリヴェは蕪」、「ベリオはチェルニー」といった数々の暴言が現在のブーレーズからは信じられない刺激的なイメージを伝えてくれます。そして1954年10月、過激な時期のブーレーズによって創設されたのが室内アンサンブル「マリニー小劇場音楽会」で、この団体は翌年には「ドメーヌ・ミュージカル」と名前を変え、以後大活躍をすることとなります。
「ドメーヌ・ミュージカル」は当時のブーレーズが音楽監督を務めていた劇団の舞台でもあるパリのマリニー劇場を本拠地とし、件のジャン=ルイ・バローと、その夫人のマドレーヌ・ルノーがパトロンになって発足したもので創立者にはブーレーズと、この両名が名を連ねています。彼らは最初から現代音楽に特化したアンサンブルだったわけではなく、1954年のシーズンにはマショーやデュファイ、バッハといった古楽プログラム、ドビュッシー、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、ストラヴィンスキー、バルトーク、ヴァレーズといった近代プログラム、シュトックハウゼン、ノーノ、マデルナなどの現代プログラムが3つの柱として存在しており、年を経るに従って現代プログラムの占有率が高くなっていきました。さらに、この団体の活動は演奏会の開催だけにとどまらず機関紙や研究書の発行にまで至り、ヨーロッパのみならず世界の現代音楽シーンに多大な影響を与えることとなります。作曲も順調で、『プリ・スロン・プリ』、『ストローフ』、『ピアノ・ソナタ第3番』、『エクラ』、『ストリクチュールⅡ』なども手がけています。その間、注目されることになったブーレーズは1960年から1963年にかけてバーゼル音楽アカデミーの教授を務めたりしましたが1967年には、フランス政府の音楽政策に抗議してフランス国内での演奏活動の中止を宣言、「ドメーヌ・ミュージカル」をジルベール・アミに託し(1973年に解散)、自らは指揮者としての活動に本腰を入れBBC交響楽団やニューヨーク・フィル、クリーヴランド管弦楽団を指揮して国際的に活動するようになります。ちなみに「ドメーヌ・ミュージカル」。ブーレーズ時代13年間の公演数は約80、登場する作曲家は約50名、作品数は約150曲といいますから、当時からブーレーズのレパートリーの広さにはかなりのものがあったことが窺われます。1967年以降のブーレーズは英米の他、バイロイトにも登場して指揮者としての名声を高めていますが、その間にも作曲は行っており、『ドメーヌ』や『即興曲 ― カルマス博士のための』、『カミングス、詩人』、『典礼 ― ブルーノ・マデルナの追憶』といった作品が書かれています。そうした声望を受け1976年にはフランスに設立されたIRCAMの所長に就任、同時に創設された現代音楽専門のアンサンブル「アンサンブル・アンテルコンタンポラン」の音楽監督も兼任し、1990年代まで現代音楽に集中的に取り組むようになり、『レポン』、『デリーヴ』、『ノタシオン管弦楽版』、『固定/爆発』といった自身の作品の発表を行います。1990年代初頭、国際的な指揮の舞台に復帰したブーレーズは1995年からはシカゴ交響楽団の首席客演指揮者となり、以後、欧米各国のオーケストラを指揮して数々のコンサートやレコーディングも実施。そのため作曲の方は少なくなりましたが、それでも『アンシーズ』、『シュル・アンシーズ』、『アンテーム1』、『アンテーム2』の他、80歳となった2005年には『天体暦の1ページ」を書くなど、継続的に作品発表を行っているのは流石です。
収録曲は1枚目、「スペイン狂詩曲」「道化師の朝の歌」「亡き王女のためのパヴァーヌ」「ファンファーレ(ジャンヌの扇)」「高雅で感傷的なワルツ」。2枚目、「古風なメヌエット」「クープランの墓」「マ・メール・ロワ」。3枚目、「夢幻劇の序曲シェヘラザード」「ラ・ヴァルス」「海原の小舟」「ボレロ」。4枚目、「ダフニスとクロエ」。1969~79年ステレオ録音、1972、73、75、79年に、それぞれリリース。セットで1979年発売。Engineer – Arthur Kendy, Bud Graham , Producer – Andrew Kazdin, Thomas Z. Shepard.