34-20146

商品番号 34-20146

通販レコード→独ライト・ブルー盤 Noblesse

老巨匠となっていたライナーの《レクイエム》は、その厳格さのなかに、豊かなふくらみを湛えている。 ― この〝大家のゆとり〟に敏感に感応している名門オーケストラの献身。イタリアのカンタービレとは趣が違うが、指揮者特有の美学に貫かれた、このヴェルディの《レクイエム》は、忘れ難い感銘を与えてくれる名盤ではある。ただ、後述したように万全ではない。それを承知してレコードに向き合っていただければ、名指揮者フリッツ・ライナーが晩年に、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してスター歌手陣と作り上げた名盤。格別レオンティン・プライスとユッシ・ビョルリンクの素晴らしさ、ウィーン・フィル特有の音色がライナーの演出するダイナミズムに華を添えています。録音場所はウィーンのゾフィエンザール。1950、60年代はオーケストラ・歌手とレコード会社の専属関係は厳しかった。録音時、ライナーは米RCAの専属であり、ウィーン・フィルは英デッカと専属契約を結んでいた。英デッカ社が録音に協力した故 ― RCAレコードは1986年に売却され、BMGを経て、ソニーに吸収され、「蓄音機に耳を傾ける犬ニッパー」の商標を2003年にトムソンが買収。現在では英デッカ・レーベルで聴くことが出来るが、初出時はRCAから、木製の丸背付きの布張りによる特別製カートンボックスに収められたソリア・シリーズの一つとして発売された。もちろん本盤は欧州セッションですから、蜜月関係にあった英デッカチームのエンジニアが担当した録音だ。と言いたいが、何らかの交換条件でオーケストラ、歌手、ゾフィエンザールを預かったものだったのだろう。しかもソリストを確保できるギリギリ4週間をかけたセッションだったが、これはライナーのあまり成功していない録音のひとつであり、録音の仕上がりはRCAチームの本領には達していない。ただし、ハンガリー出身で、シカゴ交響楽団に黄金時代をもたらしたライナーの厳格な造型性は、恣意的な崩れを許さない。手兵シカゴ響同様ライナーの厳格な統制の下、隅々にまで行き届いた緊張感があり、指揮者特有の美学に貫かれた名演が展開されています。ウィーン・フィルとはこの時に、ブラームスのハンガリー舞曲集、ドヴォルザークのスラブ舞曲集も録音したが、帰国後。心臓病の発作をおこして入院、すべてのコンサートをキャンセルして療養を余儀なくされた。病状に自覚があったのかは知らないが、予感のようなものはあったのではないだろうか。老巨匠となっていたライナー持ち前の厳格さのなかに、豊かなふくらみを湛えている。第1曲〈レクイエム・エテルナム~キリエ〉や〈ラクリモサ〉で顕著に出ているが、決して感傷に陥らず、また情熱や勢いに任せることもなく、緩急やダイナミクスを周到な手綱さばきでコントロールしながら、全体的に遅いテンポを基調として音楽を繰り広げていく。しかもその中に豊かなカンタービレを生かした表情が溢れる。彼の手兵であったシカゴ響であれば、より〝リゴリスティック〟な音楽づくりを行なったろうが、ウィーン・フィルの自発性に溢れた音楽性をもつオーケストラは、ライナーのこの〝大家のゆとり〟を敏感に感じ取り、厳しさのなかの大きなカンタービレと祈りの音楽を描き上げている。イタリアの「イン・テンポ・カンタービレ」に比べて、いささか趣が異なる。ライナーを始めとするハンガリー系の「イン・テンポ・カンタービレ」は、より推進力が強い傾向にある、貴重なヴェルディ解釈であり、今後もその光を失わないに違いない。
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最も華麗なレクイエム ― イタリアの小説家、アレッサンドロ・マンゾーニのために作曲した。はじめは古典的な詩を作ったがやがてロマン主義に転じ、高雅な言葉でキリスト教徒としての心情を歌った詩「聖なる讃歌 Inni sacri」「La resurrezione」「Pentecoste」などを書いた。悲劇「カルマニョーラ伯 Il Conte di Carmagnola」「アデルキ Adelchi」は部分的な美しさをもつが舞台向きではない。主著は歴史小説「いいなづけ I promessi sposi」3巻(1825〜26年)である 。1823年、「ロマン主義について」を書き、新しい流派の説を詳しく展開しているが、その要旨は神話と古典への盲従を排し、修辞法則を否定し、それに対して〝意図としては有益であること、主題としては真実であること、方法としてはおもしろさ〟を追求するべきである、というものだった。さらにイタリア語の統一という問題について多くの論文を書いて、イタリア語の中のトスカーナ性を擁護し、名作「いいなづけ」によってトスカーナ語を基本とする近代イタリア標準語をいちおう完成させたといえる。1848年ミラノに起こった対オーストリア蜂起市街戦には息子をバリケードにおくって励まし、イタリア各君主に対してミラノ救援を呼びかけている。1873年1月6日にサン・フェデーレ教会を出る際に転倒して頭を強打、5ヶ月後に脳髄膜炎を併発し死亡した。ジュゼッペ・ヴェルディは青年時代より大好きだったマンゾーニの死にヴェルディは深く悲しみ、《レクイエム》は彼の追悼のために完成された。ヴェルディはあえて葬列には参加せず、のちに一人で墓参りをしたという。そしてその後、ヴェルディはミラノ市長にレクイエムの提案をおこないます。市長は受諾し、初演の費用は楽譜印刷以外は市が負担しました。一周忌の1874年5月の初演は、ヴェルディの希望でサン・マルコ教会で行われた。指揮はヴェルディ自身、スカラ座のオーケストラ(100名)と合唱(120名)とソリストによる大編成。ソリストの4人のうち、3人は1872年の歌劇「アイーダ」の初演でも起用された、ヴェルディのお気に入りの演奏家によるものでした。3日後にスカラ座で再演されるが、そこではよもや死者を追悼する曲から劇場のそれに変貌し、賞賛と非難が複雑に飛び交った。「モーツァルトのレクイエム以来の傑作」との評価もありましたが、「聖職者の衣服をまとった、ヴェルディの最新のオペラ」「絶叫するばかりのコーラス」「怒号の連続」と評する非難もありました。それでもヴェルディの栄華は最高潮にあった。ヴェルディに、何度もアンコールが叫ばれた。アメリカやフランスでも1874年に初演され、さらに1875年にはウィーンやロンドンでも演奏されます。これは宗教曲としては異例の人気の高さでした。アマチュア合唱団を指揮したことに始まる音楽家の道、2年前にリヒャルト・ワーグナーのオペラに接して受けた衝撃。それまでの、作品の著作権料収入は莫大なものとなっていた。モーツァルト、フォーレとともに「三大レクイエム」の一つに数えられる、ヴェルディの作曲した《レクイエム》は、また「最も華麗なレクイエム」と言われることもあり、〝死者のための鎮魂曲〟以上の意味があるようです。
ジュゼッペ・ヴェルディ(Giuseppe Verdi)は、19世紀を代表するイタリア歌劇界最大の作曲家である。1813年10月10日、レ・ロンコーレという寒村に生まれた。ここはパルマ公国を併合したフランス第一帝政のタロ地区に組み込まれていた。父カルロ・ジュゼッペは3マイル離れたブッセートの町で新生児の名前をジョセフ・フォルテュナン・フランソワ (Joseph Fortunin François) と申請し、こうしてヴェルディは、偶然にもフランス市民として誕生することになった。カルロは農業以外にも小売や宿、郵便取り扱いなどを行い、珍しく読み書きもできる人物だった。ヴェルディも父の仕事を手伝う利発な少年だった。1823年、10歳のヴェルディは下宿をしながら上級学校で読み書きやラテン語を教わり、そして音楽学校でフェルディナンド・プロヴェージから音楽の基礎を学んだ。15歳で作曲をはじめ、18歳の時すすめられてミラノ音楽学校の給費生を受験したが年齢が多すぎたため落第し、仕方なくナポリ出身でスカラ座のマエストロ・アル・チェンバロを務めたヴィンチェンツォ・ラヴィーニャから、作曲とピアノそれにソルフェージュを学んだ。ラヴィーニャはヴェルディの才能を認め、あらゆる種類の作曲を指導し、数々の演劇を鑑賞させ、さらにスカラ座のリハーサルまで見学させた。折しも、知り合った指揮者のピエトロ・マッシーニを通じて見学したリハーサルでたまたま副指揮者が遅れ、ヴェルディがピアノ演奏に駆り出されると、熱中するあまり片手で指揮を執り始めた。絶賛したマッシーニが本番の指揮を託すと、演奏会は成功を収め、ヴェルディにはわずかながら音楽の依頼が舞い込むようになった。26歳のときスカラ座で上演された最初の歌劇「オベルト」を皮切りに25曲の歌劇を書いた。最初はなかなか認められず、彼の名声が確立したのは、33歳に書いた「リゴレット」、40歳の「トロヴァトーレ」と「椿姫」などが相次いで発表されてからである。彼は大器晩成型で、それからさらに49歳で「運命の力」、54歳で「ドン・カルロ」、58歳で「アイーダ」、73歳で「オテロ」そしてなんと79歳で「ファルスタッフ」を完成している。実は、ヴェルディは、「アイーダ」でオペラの作曲を引退すると決めていました。「仮面舞踏会」の初演(1859年)から2年が経過し、ヴェルディは作曲をまるで忘れたかのようであった。新たに創設されたイタリア国会において彼はボルゴ・サン・ドンニーノ ― 今日のフィデンツァ ― 代表の議員であったし、またサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)の農園に各種の近代的設備を導入する仕事にも忙殺されていた。しかし、まさにその農園改造計画への資金の必要も一因となり、折しも、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場のために新作オペラを作曲してもらえないだろうか、という打診がもたらされた。そこで「運命の力」は着手され、ロシア・サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場にて1862年11月10日に初演された。その後、「ドン・カルロ」、「アイーダ」の成功で農園改造計画への資金の必要も目処が立ち、「アイーダ」の作曲と上演準備の一方で喜歌劇を作曲しようと台本探しに熱中していた。農場経営も順調そのもので、買い増した土地は当初の倍以上になり、雇う小作人は十数人までになった。1871年、リヒャルト・ワーグナー作品のイタリア初上演となる歌劇「ローエングリン」に、ボローニャの街はワーグナー一色となった。ヴェルディは密かにこの公演を観に行っている。そして、感じたことをこまかくメモしていったという。イタリアでは並ぶものなきもので、それを自覚していたヴェルディは、ワーグナーの楽劇直前のロマンティックなオペラにドイツに天才がいることを知ってショックを受け、ますます不機嫌で扱いにくい老人となります。ワーグナーに対するライバル心が見て取れる。しかし、それは自作とは異質なものであり、その攻勢に打ち勝つには、自らのスタイルをかえって固く守ることだと思い極めていたのである。
1873年にジュゼッペ・ヴェルディは、亡くなった尊敬する小説家であり詩人であったアレッサンドロ・マンゾーニを讃える《レクイエム》を作曲した。パリではレジオンドヌール勲章とコマンデール勲章を授かり、作品の著作権料収入は莫大なものとなっていた。そのため納税額の多さから上院議員に任命されるが議会には一度も出席せず、自らが設計し増築を繰り返して大きくなった邸宅で、自家製のワインを楽しみ、冬のジェノヴァ旅行も恒例となった。慈善活動には熱心で奨学金や橋の建設に寄付をしたり、病院の建設計画にも取り組んだ。その頃に彼は、ほとんど音楽に手を出さず、「ピアノの蓋を開けない」期間が5年間続いた。彼が音楽の世界に戻るのは1879年になる。11月、農場に届いたアッリーゴ・ボーイトの台本「オテロ」に、ヴェルディは興味をそそられるが作曲は難航。ボーイトと共作で、歌劇「シモン・ボッカネグラ」、歌劇「ドン・カルロ」の改訂に忙殺していた1883年2月にリヒャルト・ワーグナーの訃報が届く。彼が嫌うドイツの、その音楽を代表するワーグナーにヴェルディはライバル心をむき出しにすることもあったが、その才能は認めていた。そして、同年齢のワーグナーなど、彼と時代を共にした多くの人物が既に世を去ったことに落胆を隠せなかった。「悲しい、悲しい、悲しい…。その名は芸術の歴史に偉大なる足跡を残した」と書き残すほどヴェルディは沈んだ。それでも1884年の歌劇「ドン・カルロ」改訂版公演を好評の内に終えると作業にも拍車がかかり始めた。ワーグナーの遺灰を継ぐ如く、丸7年の期間をかけた歌劇「オテロ」は完成。喜劇に手を染めたことのなかったヴェルディに、「悲劇は苦しいが、喜劇は人を元気にする」「華やかにキャリアを締めくくるのです」「笑いで、すべてがひっくり返ります」と度々のボーイトの誘いにヴェルディは乗った。ヴェルディ集成の歌劇「オテロ」と喜歌劇「ファルスタッフ」は、ワーグナーが半音階の大悲恋楽劇「トリスタンとイゾルデ」と、ハ長の喜劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を対にしていることに重なる。歌劇「オテロ」は長く目指した音楽と演劇の融合の頂点にある作品で、同時にワーグナーから発達したドイツ音楽が提示するシンフォニズム理論に対するイタリア側からの回答となった。そしてヴェルディが目指した劇と曲の融合は喜劇においても健在で、作風はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンそしてロッシーニら先人たちの要素を注ぎこみ、喜歌劇「ファルスタッフ」は形式に拘らず自由で気ままな作品に仕上げた。ヴェルディのすべてを投入した感がある。アンサンブルは多種多様で、対位法も2幕のコンチェルタートで複雑なポリフォニーを実現した。最後には喜劇に似つかわしくないフーガをあえて用いながら、太鼓腹の主人公に「最後に笑えばいいのさ」と陽気に締めくくらせた。むしろ圧倒するよりも機微に富んだ雰囲気を帯びて繊細さが増した。そして、自由人ファルスタッフにヴェルディは自身を表現した。
20世紀オーケストラ演奏芸術の一つの極点を築き上げた巨匠フリッツ・ライナー(1888〜1963)は、エルネスト・アンセルメ(1883〜1969)、オットー・クレンペラー(1885〜1973)、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886〜1954)、エーリヒ・クライバー(1890〜1956)、シャルル・ミュンシュ(1891〜1968)らと同世代にあたる名指揮者のなかで、19世紀の名残りであるロマンティックな陶酔よりも、20世紀の主潮である音楽の客観的再現に奉仕した音楽家です。ブダペスト音楽院でバルトークらに作曲、ピアノ、打楽器を学び、1909年にブダペストで指揮デビュー。第一次世界大戦以前から、ブダペスト歌劇場(1911〜1914)、ザクセン宮廷歌劇場(ドレスデン国立オペラ)(1914〜1921)を経て、1922年に渡米しシンシナティ交響楽団(1922〜1931)、ピッツバーグ交響楽団(1938〜1948)の音楽監督を歴任。その後メトロポリタン歌劇場の指揮者(1949〜1953)を経て、1953年9月にシカゴ交響楽団の音楽監督に就任し、危機に瀕していたこのオーケストラを再建、黄金時代を築き上げました。その後、1962年まで音楽監督。1962/1963年のシーズンは「ミュージカル・アドヴァイザー」を務める。ライナー着任時のシカゴ響には、すでにアドルフ・ハーセス(トランペット)、アーノルド・ジェイコブス(チューバ)、フィリップ・ファーカス(ホルン)、バート・ガスキンス(ピッコロ)、クラーク・ブロディ(クラリネット)、レナード・シャロー(ファゴット)といった管楽器の名手が揃っており、ライナーはボルティモアからオーボエのレイ・スティルを引き抜いて管を固め、またメトロポリタン歌劇場時代から信頼を置いていたチェロのヤーノシュ・シュタルケル、コンサートマスターにはヴィクター・アイタイという同郷の名手を入団させて、「ライナー体制」を築き上げています。このライナーとシカゴ響は、ヘルベルト・フォン・カラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ジョージ・セル&クリーヴランド管弦楽団、ユージン・オーマンディ&フィラデルフィア管弦楽団などと並び、20世紀オーケストラ演奏芸術の極点を築きあげたのです。
フリッツ・ライナー(Fritz Reiner 1888.12.19〜1963.11.15)は、ブダペスト生まれ。生地のリスト音楽アカデミーで学び、卒業後ブダペスト・フォルクスオーパーの楽団員となった。ここで声楽コーチを兼任した彼は1909年にビゼー「カルメン」を指揮してデビュー。翌年ライバッハ(現リュブリャーナ)の歌劇場に移り、翌1911年ブダペストに戻りフォルクスオーパーの指揮者となり、1914年にはワーグナー「パルジファル」のハンガリー初演を行う。1914年からはドレスデン国立歌劇場の指揮者として活躍。ヨーロッパ各地に客演した。1922年米国に渡ってシンシナティ交響楽団の常任指揮者となり、この楽団の水準を高めたが、厳しいトレーニングと妥協を許さない方針への反発から1931年に辞任。同年カーティス音楽院の教授に就任。1936年にオットー・クレンペラーの後任としてピッツバーグ交響楽団の音楽監督となり、このオーケストラをアメリカ屈指の水準に高めた。1948年からはメトロポリタン歌劇場の指揮者を務め、1953年にラファエル・クーベリックの後任としてシカゴ交響楽団の音楽監督に迎えられた。ここでも彼の厳格なトレーニングと妥協しない頑固さは様々な対立を産み出したが、確かにこの時代にシカゴ響は世界最高水準の実力を持つ黄金時代を迎えたのである。同時にヨーロッパでも活躍。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とも密接な関係を保った。先ずバルトークが代表的な名演奏。弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽。管弦楽のための協奏曲はオーケストラの力量も相まって古典的な名盤(1955,1958年)。ドレスデン国立歌劇場時代以来最も得意としたリヒャルト・シュトラウスは「ツァラトゥストラはかく語りき」(1954,1962年)、「英雄の生涯」(1954年)、「ドン・ファン」(1954,1960年)などがある。ベートーヴェンの交響曲は第2番のみ録音しなかったが、厳格で直截な力のある表現が快い。他のムソルグスキー「展覧会の絵」(1957年)、ドヴォルザーク「新世界より」(1957年)、レスピーギ「ローマの松、ローマの噴水」(1959年)などがあった。オーケストラの小品にも引き締まった演奏が多い。オペラ録音はメトロポリタン歌劇場時代の「カルメン」のみなのが長く歌劇場で活躍したライナーだけに惜しい。同曲も独特の厳密な音楽作りがユニークである。晩年にウィーン・フィルと録音したアルバムはいずれも円熟した芸風。シカゴ響の緻密さとは違った柔軟さがあった。ブラームス「ハンガリー舞曲」&ドヴォルザーク「スラブ舞曲」(1960年)、ヴェルディ「レクイエム」(1960年)、リヒャルト・シュトラウス「死と変容」&「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」(1956年)などがある。
  • Record Karte
  • レオンティン・プライス(ソプラノ)、ロザリンド・エリアス(メッゾ・ソプラノ)、ユッシ・ビョルリンク(テノール)、ジョルジョ・トッツィ(バス)、イヴォンヌ・ミントン(メゾ・ソプラノ)、ウィーン楽友協会合唱団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、指揮:フリッツ・ライナー。1960年5月、6月ウィーン、ゾフィエンザール録音
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