34-22636

商品番号 34-22636

通販レコード→ 瑞ブルー銀文字盤

最も華麗なレクイエム ― イタリアの小説家、アレッサンドロ・マンゾーニのために作曲した。はじめは古典的な詩を作ったがやがてロマン主義に転じ、高雅な言葉でキリスト教徒としての心情を歌った詩「聖なる讃歌 Inni sacri」「La resurrezione」「Pentecoste」などを書いた。悲劇「カルマニョーラ伯 Il Conte di Carmagnola」「アデルキ Adelchi」は部分的な美しさをもつが舞台向きではない。主著は歴史小説「いいなづけ I promessi sposi」3巻(1825〜26年)である 。1823年、「ロマン主義について」を書き、新しい流派の説を詳しく展開しているが、その要旨は神話と古典への盲従を排し、修辞法則を否定し、それに対して〝意図としては有益であること、主題としては真実であること、方法としてはおもしろさ〟を追求するべきである、というものだった。さらにイタリア語の統一という問題について多くの論文を書いて、イタリア語の中のトスカーナ性を擁護し、名作「いいなづけ」によってトスカーナ語を基本とする近代イタリア標準語をいちおう完成させたといえる。1848年ミラノに起こった対オーストリア蜂起市街戦には息子をバリケードにおくって励まし、イタリア各君主に対してミラノ救援を呼びかけている。1873年1月6日にサン・フェデーレ教会を出る際に転倒して頭を強打、5ヶ月後に脳髄膜炎を併発し死亡した。ジュゼッペ・ヴェルディは青年時代より大好きだったマンゾーニの死にヴェルディは深く悲しみ、《レクイエム》は彼の追悼のために完成された。ヴェルディはあえて葬列には参加せず、のちに一人で墓参りをしたという。そしてその後、ヴェルディはミラノ市長にレクイエムの提案をおこないます。市長は受諾し、初演の費用は楽譜印刷以外は市が負担しました。一周忌の1874年5月の初演は、ヴェルディの希望でサン・マルコ教会で行われた。指揮はヴェルディ自身、スカラ座のオーケストラ(100名)と合唱(120名)とソリストによる大編成。ソリストの4人のうち、3人は1872年の歌劇「アイーダ」の初演でも起用された、ヴェルディのお気に入りの演奏家によるものでした。3日後にスカラ座で再演されるが、そこではよもや死者を追悼する曲から劇場のそれに変貌し、賞賛と非難が複雑に飛び交った。「モーツァルトのレクイエム以来の傑作」との評価もありましたが、「聖職者の衣服をまとった、ヴェルディの最新のオペラ」「絶叫するばかりのコーラス」「怒号の連続」と評する非難もありました。それでもヴェルディの栄華は最高潮にあった。ヴェルディに、何度もアンコールが叫ばれた。アメリカやフランスでも1874年に初演され、さらに1875年にはウィーンやロンドンでも演奏されます。これは宗教曲としては異例の人気の高さでした。アマチュア合唱団を指揮したことに始まる音楽家の道、2年前にリヒャルト・ワーグナーのオペラに接して受けた衝撃。それまでの、作品の著作権料収入は莫大なものとなっていた。モーツァルト、フォーレとともに「三大レクイエム」の一つに数えられる、ヴェルディの作曲した《レクイエム》は、また「最も華麗なレクイエム」と言われることもあり、〝死者のための鎮魂曲〟以上の意味があるようです。→コンディション、詳細を確認する
関連記事とスポンサーリンク
ジュゼッペ・ヴェルディ(Giuseppe Verdi)は、19世紀を代表するイタリア歌劇界最大の作曲家である。1813年10月10日、レ・ロンコーレという寒村に生まれた。ここはパルマ公国を併合したフランス第一帝政のタロ地区に組み込まれていた。父カルロ・ジュゼッペは3マイル離れたブッセートの町で新生児の名前をジョセフ・フォルテュナン・フランソワ (Joseph Fortunin François) と申請し、こうしてヴェルディは、偶然にもフランス市民として誕生することになった。カルロは農業以外にも小売や宿、郵便取り扱いなどを行い、珍しく読み書きもできる人物だった。ヴェルディも父の仕事を手伝う利発な少年だった。1823年、10歳のヴェルディは下宿をしながら上級学校で読み書きやラテン語を教わり、そして音楽学校でフェルディナンド・プロヴェージから音楽の基礎を学んだ。15歳で作曲をはじめ、18歳の時すすめられてミラノ音楽学校の給費生を受験したが年齢が多すぎたため落第し、仕方なくナポリ出身でスカラ座のマエストロ・アル・チェンバロを務めたヴィンチェンツォ・ラヴィーニャから、作曲とピアノそれにソルフェージュを学んだ。ラヴィーニャはヴェルディの才能を認め、あらゆる種類の作曲を指導し、数々の演劇を鑑賞させ、さらにスカラ座のリハーサルまで見学させた。折しも、知り合った指揮者のピエトロ・マッシーニを通じて見学したリハーサルでたまたま副指揮者が遅れ、ヴェルディがピアノ演奏に駆り出されると、熱中するあまり片手で指揮を執り始めた。絶賛したマッシーニが本番の指揮を託すと、演奏会は成功を収め、ヴェルディにはわずかながら音楽の依頼が舞い込むようになった。26歳のときスカラ座で上演された最初の歌劇「オベルト」を皮切りに25曲の歌劇を書いた。最初はなかなか認められず、彼の名声が確立したのは、33歳に書いた「リゴレット」、40歳の「トロヴァトーレ」と「椿姫」などが相次いで発表されてからである。彼は大器晩成型で、それからさらに49歳で「運命の力」、54歳で「ドン・カルロ」、58歳で「アイーダ」、73歳で「オテロ」そしてなんと79歳で「ファルスタッフ」を完成している。実は、ヴェルディは、「アイーダ」でオペラの作曲を引退すると決めていました。「仮面舞踏会」の初演(1859年)から2年が経過し、ヴェルディは作曲をまるで忘れたかのようであった。新たに創設されたイタリア国会において彼はボルゴ・サン・ドンニーノ ― 今日のフィデンツァ ― 代表の議員であったし、またサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)の農園に各種の近代的設備を導入する仕事にも忙殺されていた。しかし、まさにその農園改造計画への資金の必要も一因となり、折しも、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場のために新作オペラを作曲してもらえないだろうか、という打診がもたらされた。そこで「運命の力」は着手され、ロシア・サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場にて1862年11月10日に初演された。その後、「ドン・カルロ」、「アイーダ」の成功で農園改造計画への資金の必要も目処が立ち、「アイーダ」の作曲と上演準備の一方で喜歌劇を作曲しようと台本探しに熱中していた。農場経営も順調そのもので、買い増した土地は当初の倍以上になり、雇う小作人は十数人までになった。1871年、リヒャルト・ワーグナー作品のイタリア初上演となる歌劇「ローエングリン」に、ボローニャの街はワーグナー一色となった。ヴェルディは密かにこの公演を観に行っている。そして、感じたことをこまかくメモしていったという。イタリアでは並ぶものなきもので、それを自覚していたヴェルディは、ワーグナーの楽劇直前のロマンティックなオペラにドイツに天才がいることを知ってショックを受け、ますます不機嫌で扱いにくい老人となります。ワーグナーに対するライバル心が見て取れる。しかし、それは自作とは異質なものであり、その攻勢に打ち勝つには、自らのスタイルをかえって固く守ることだと思い極めていたのである。
1873年にジュゼッペ・ヴェルディは、亡くなった尊敬する小説家であり詩人であったアレッサンドロ・マンゾーニを讃える《レクイエム》を作曲した。パリではレジオンドヌール勲章とコマンデール勲章を授かり、作品の著作権料収入は莫大なものとなっていた。そのため納税額の多さから上院議員に任命されるが議会には一度も出席せず、自らが設計し増築を繰り返して大きくなった邸宅で、自家製のワインを楽しみ、冬のジェノヴァ旅行も恒例となった。慈善活動には熱心で奨学金や橋の建設に寄付をしたり、病院の建設計画にも取り組んだ。その頃に彼は、ほとんど音楽に手を出さず、「ピアノの蓋を開けない」期間が5年間続いた。彼が音楽の世界に戻るのは1879年になる。11月、農場に届いたアッリーゴ・ボーイトの台本「オテロ」に、ヴェルディは興味をそそられるが作曲は難航。ボーイトと共作で、歌劇「シモン・ボッカネグラ」、歌劇「ドン・カルロ」の改訂に忙殺していた1883年2月にリヒャルト・ワーグナーの訃報が届く。彼が嫌うドイツの、その音楽を代表するワーグナーにヴェルディはライバル心をむき出しにすることもあったが、その才能は認めていた。そして、同年齢のワーグナーなど、彼と時代を共にした多くの人物が既に世を去ったことに落胆を隠せなかった。「悲しい、悲しい、悲しい…。その名は芸術の歴史に偉大なる足跡を残した」と書き残すほどヴェルディは沈んだ。それでも1884年の歌劇「ドン・カルロ」改訂版公演を好評の内に終えると作業にも拍車がかかり始めた。ワーグナーの遺灰を継ぐ如く、丸7年の期間をかけた歌劇「オテロ」は完成。喜劇に手を染めたことのなかったヴェルディに、「悲劇は苦しいが、喜劇は人を元気にする」「華やかにキャリアを締めくくるのです」「笑いで、すべてがひっくり返ります」と度々のボーイトの誘いにヴェルディは乗った。ヴェルディ集成の歌劇「オテロ」と喜歌劇「ファルスタッフ」は、ワーグナーが半音階の大悲恋楽劇「トリスタンとイゾルデ」と、ハ長の喜劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を対にしていることに重なる。歌劇「オテロ」は長く目指した音楽と演劇の融合の頂点にある作品で、同時にワーグナーから発達したドイツ音楽が提示するシンフォニズム理論に対するイタリア側からの回答となった。そしてヴェルディが目指した劇と曲の融合は喜劇においても健在で、作風はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンそしてロッシーニら先人たちの要素を注ぎこみ、喜歌劇「ファルスタッフ」は形式に拘らず自由で気ままな作品に仕上げた。ヴェルディのすべてを投入した感がある。アンサンブルは多種多様で、対位法も2幕のコンチェルタートで複雑なポリフォニーを実現した。最後には喜劇に似つかわしくないフーガをあえて用いながら、太鼓腹の主人公に「最後に笑えばいいのさ」と陽気に締めくくらせた。むしろ圧倒するよりも機微に富んだ雰囲気を帯びて繊細さが増した。そして、自由人ファルスタッフにヴェルディは自身を表現した。
ジャンフランコ・リヴォリ(Gianfranco Rivoli, 1921年6月2日〜2005年10月18日)は、イタリア生まれの指揮者および作曲家。1921年、ミラノの生まれ。彼はミラノ音楽院で、アッリーゴ・ペドロロ(1878〜1964)、ジョルジオ・フェデリコ・ゲディーニ(1892〜1965)、アントニーノ・ヴォット(1896〜1985)などの教授たちに指揮と作曲を師事。ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院を卒業後、大学オーケストラ(1938〜1940)の指揮者を経て、1946年にミラノ・スカラ座のバレエ指揮者としてデビュー。その後、コモのヴィラ・オルモ劇場の芸術監督の地位を確立し、ヨーロッパ最大のラジオ放送ネットワークと頻繁に協力しながら、イタリアおよび外国のオーケストラを指揮しました。やがて、リスボン・グルベンキアン財団の芸術監督をはじめ、リスボンの首都サンカルロス国立劇場のドイツのレパートリーを担当。デュッセルドルフ歌劇場でドイツ・オペラの音楽監督やトリノのレージョ劇場の芸術監督を歴任しました。チッタ・ディ・カステッロで没した。
デヴィッド・ジョゼフォヴィッツ(David Josefowitz, 1918年12月25日〜2015年1月10日)はイギリスの指揮者で、ロンドン・ソリスト室内管弦楽団の創立者。ベルリンのクリンドワース・シャーウェンカ音楽院でヴァイオリンも学んだ、熟練したヴァイオリニストでもあり、ホセ・ダビドの名義で演奏して録音していました。マサチューセッツ工科大学で化学を学んだプラスチックの専門家であり、ニューヨーク大学タンドンスクールの一部であるブルックリン工科大学で、1945年に化学の博士号を取得しました。1946年に、サミュエル・ジョゼフォヴィッツ(1921〜2015)とともに兄弟で、ニューヨーク市に本拠を置く〝Concert Hall レーベル〟を創設して、自身で多くの管弦楽曲のレコーディングを遺したほか、同レーベルのプロデューサーとして活躍しました。世界有数の音楽学校の1つで、1822年に創立された英国王立音楽院は、長い歴史と実績に裏付けられた伝統を重視。加えて、現代の音楽家に要求 される、新しい技術や知識を身につけるためのカリキュラムも組んでいます。卒業生には、ヘンリー・ウッドやエルトン・ジョンなど、著名な音楽家をはじめ、サイモン・ラトル(指揮)、マイケル・ナイマン(作曲)、リチャード・ロドニー・ベネット(作曲)、クリストファー・モルトマン(声楽)、ルステム・ハイルディノフ(ピアノ)、シモーネ・ラムスマ(ヴァイオリン)、日本人では、三浦友理枝(ピアノ)、熊本マリ(ピアノ)など、多くの優れたソリスト、オーケストラ や室内楽での演奏家、指揮者、作曲家を輩出しています。ロンドンの中心地リージェンツ・パークに隣接する便の良い場所にキャンパスでは、収容450席のデュカス・ホール、2001年に完成したデヴィッド・ジョセフォヴィッツ・リサイタル・ホールなど、素晴らしい演奏の場が待っています。
  • Record Karte
  • Soprano – Gloria Davy, Mezzo-soprano – Suze Léal, Tenor – Glade Peterson, Bass – Heinz Rehfuss, Chorus – Wiener Staatsopernchor, Orchestra – Orchester Der Wiener Staatsoper, Conductor – Gianfranco Rivoli
  • CH Concert Hall M-2336 リヴォリ ヴェルディ・…
  • CH Concert Hall M-2336 リヴォリ ヴェルディ・…
Verdi: Requiem, Te Deum [LP]
Chorus And Orchestra Of The Vienna State Orhestra Gianfranco Rivoli
Concert Hall
2019-08-19