AU EMI EL27 0135 キリ・テ・カナワ ラヴェル・シェヘラザード/デュパルク・歌曲集

商品番号 34-14763

通販レコード→豪カラー・スタンプ・ドッグ盤 DIGITAL RECORDING DMM[オリジナル]

フランス音楽でも見事に開いた、キリ独自の大輪の華。 ― オペラ界で最も有名な歌手の一人、男性でいうナイトの女性版であるデイムを授けられたキリ・テ・カナワが歌手活動からの引退を表明したのは2017年の夏の終わりだった。最後の公演となったのは、2016年10月にオーストラリア、メルボルン近郊のバララットで開かれたコンサートだった。「舞台に出る前、自分にこう言ったんです。これでおしまい。そしてそれが最後になりました」。半世紀以上にわたって活躍してきたデイム・キリはその舞台以来、歌うのをやめていたが1年近く発表はしていなかったと話す。今や、世界各国の主要な歌劇場やコンサートホールすべてに出演しているデイム・キリは、ほぼ無名だった1971年にロンドンのコベント・ガーデンで上演されたモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」で伯爵夫人に抜擢され、一躍名前を知られるようになった。「本当に信じられないようなキャリアを得た」と話す。ニュージーランド出身のデイム・キリがクラシック音楽家として、ほかにあまり例がないほどの名声を得たのは紛れもない。1981年のチャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式でヘンデルのアリア「輝かしいセラフィムに」を歌った際には、世界で6億人が視聴した。しかし、過去にこだわるのは「身勝手」だと感じている。「望み通りの100%の完璧さに到達したことはない。舞台から降りて、『うまくいった』と思ったことがないんです。どこかミスがあったといつも思う。ずっと公演全体の自分の出来を分析していました」自分自身で「これが最後に歌う音」だと決めることに強いこだわりがあったという。ただし、「自分の中でさよならが言える」までに5年かかった。「時間をかけて決めたんです」とデイム・キリは語った。「自分の声を聴きたくない」ともデイム・キリは語った。「もう過去のことです。若い歌い手を教えていて、美しく、若く、新鮮な声を聴くと、それに自分の声を合わせてみたいとは思わない」。そして、自分のキャリアを実際振り返った時も完全に満足したことはないと強調する。しかし、苦笑いしなからこう付け加えた。「努力はし続けましたよ」。デイム・キリが今一番力を入れていると話すのが、自身の財団を通じて行う、オペラ界の将来のスターたちとデイム・キリが呼ぶ歌手たちの育成だ。ニュージーランド系マオリの血を引くエキゾテックな風貌のチャーミングな大ソプラノ、デイム・キリ。本盤は1983年録音でキリの声は誠に美しい。独特なクリーミィな音色と華麗な雰囲気につい忘れてしまいがちだが、その天然とも言える音楽性には生まれ育ちと関係あるのかどうか知れないが、名作オペラ・アリアから、メンデルスゾーンの「歌の翼に」をはじめレコード時代は数多くの歌手がレパートリーにした歌曲から、カントルーブの「オーヴェルニュの歌」に至るまで多くの歌が新しい生命を与えられた。非ヨーロッパ系のディーヴァたちは、その広範なバックグランウンドもあって、本格クラシックにこだわらないジャンルにも手を染め、ジャズやミュージカル、映画音楽、ポップスにと、オペラのほか、オーケストラとの共演、素適な歌唱を残している。2013年放送の『ダウントン・アビー』シーズン4に、オーストラリア出身の歌手ネリー・メルバ役で出演した。どの歌も美しいが、特にデュパルクは絶品。彼女のいわゆる〝クリーミーボイス〟は、オペラでは甘すぎて抵抗を感じてしまうケースがあるが、この「フランス歌曲集」ではそこが、まさにちょうどいい落としどころとなっていて極めて心地がいい。
オーケストレーションの天才、管弦楽の魔術師と言われる卓越した管弦楽法とスイスの時計職人(ストラヴィンスキー談)と評価される精緻な書法がラヴェルの特徴。ドビュッシーと共に印象派 ― 印象主義の作曲家に分類されることが多い。しかし、ドビュッシーとは一線を画すと同時にラヴェル本人も印象派か否かという問題は気にしなかった。ただし自身への影響を否定はしながらも、ドビュッシーを尊敬・評価し、1902年には対面も果たしている。また、ドビュッシーもラヴェルの弦楽四重奏曲ヘ長調を高く評価するコメントを発表している。すなわちラヴェルの作品はより強く古典的な曲形式に立脚しており、ラヴェル自身もモーツァルト及びフランソワ・クープランからはるかに強く影響を受けていると主張した。またシャブリエ、サティの影響を自ら挙げており、「グリーグの影響を受けてない音符を書いたことがありません」とも述べている。更にスペイン音楽、ジャズに加え、アジアの音楽及びフォークソング(民謡)を含む世界各地の音楽に強い影響を受けていた。アジアの音楽については、パリ音楽院に入学した14歳の春に、パリ万国博覧会で出会ったカンボジアの寺院・タヒチ島の人々の踊り・インドネシアのガムランなどに大きな影響を受けている。ラヴェルのオーケストラ伴奏による歌曲集「シェエラザード(Shéhérazade)」は、パリ音楽院時代の習作の後に作曲。天才という、大輪の華が一気に開いたように登場する。そして、ラヴェルの代表的な声楽曲の一つとなった。これ以前にもピアノ曲や室内楽で傑作をものしているが、この壮麗なオーケストラの響きはどうだろう。ペルシャの情熱的な音を思わせる打楽器が響き、中国を描く場面では、後のプッチーニの歌劇「トゥーランドット」に似た異国めいた音楽が鳴る。原詩はワーグナー狂の詩人で画家でもあったトリスタン・クリングゾル(1874〜1966)による。あからさまな東洋趣味で、詩節ごとに絵画のような夢幻の風景が展開される。第1曲「アジア, Asie」、第2曲「魔法の笛, La Flûte enchantée」、第3曲「つれない人, L'Indifférent」から構成されている。最も長い第1曲が細部にわたって申し分のない筆致で進められており、ラヴェルの常として熟練した管弦楽法が発揮されている。初演は1904年5月17日に、サル・デュ・ヌーヴォー・テアトルで行われた国民音楽協会の演奏会において、アルフレッド・コルトーの指揮とパリ・オペラ座の歌手ジャーヌ・アトーによって行われた。当時のフランス音楽界における保守派の代表者ヴァンサン・ダンディは、これまでのラヴェルの作品の中で最良のものと評価した。オーケストラによる絵巻物という表現がぴったりだ。音楽好きの父の影響で、6歳でピアノを始め、12歳で作曲の基礎を学んだ。両親はラヴェルが音楽の道へ進むことを激励し、パリ音楽院へ送り出した。音楽院に在籍した14年の間、フォーレやペサールらの下で学んだラヴェルは、多くの若く革新的な芸術家と行動を共にし、影響と薫陶を受ける。『スペイン狂詩曲』やバレエ音楽『ダフニスとクロエ』、『ボレロ』の作曲、『展覧会の絵』のオーケストレーションで知られる。管弦楽伴奏歌曲集《シェヘラザード》は、東洋を描いた、ラヴェル自身の展覧会の絵だ。
Side-A
  1. デュパルク:フィデレ
  2. デュパルク:旅への誘い
  3. デュパルク:前世
  4. デュパルク:ロズモンドの館
  5. デュパルク:遺書
  6. デュパルク:戦っている国へ
Side-B
  1. デュパルク:悲しい歌
  2. ラヴェル:シェエラザード
数奇な人生の始まり ― キリの養父母であるトーマス&ネル・テ・カナワは、キリが養女として貰われる数年前から、ニュージーランドのギズボーンで暮らしていた。ネルの祖先は19世紀にニュージーランドへ渡ってきたイギリス人で、彼女の大伯父は喜歌劇作曲家として著名なサー・アーサー・サリヴァンだった。ネルは1938年に、マオリ族のトーマス・テ・カナワと結婚した。トーマスはマオリ族の名門の出であった。トーマスは道路工事の仕事をしていたが、後にトラック請負業を始めた。ネルは明るい性格で、家がだだっ広かったので学生に部屋を貸し、いつも家の中には若者たちの笑いが聴こえていた。夫妻は自分たちの子供を欲しがっていたが、40歳代のネルはもう子供を生める齢ではなかった。そこで地元紙に男の子の養子を求める広告を出した。1944年の4月、ソーシャル・ワーカーが生後5週間の女児を抱いて、テ・カナワ家を訪れた。夫妻は男の子でないという理由で断った。あとで夫のトーマスが「あの可哀想な女の児のことを思ってごらん。あの児は家がないんだよ。うちで育てようじゃないか」とネルにもちかけた。「あら、男の子がほしいっておっしゃったのは、あなたじゃありませんか。あなたがそうおっしゃるなら、私には異存がありませんわ」とネル。こうして、そのベイビイ・ガールはテ・カナワ家の養女となり、「キリ」と命名された。マオリ語で「鐘」の意味だそうである。キリは1944年3月6日、ギズボーンで生まれた。両親はテ・カナワ家と同じく異民族同士のカップルで、母はヨーロッパ系、父はマオリ族である。母は牧師の娘だったので、マオリ族の父と正式に結婚できなかったが、生涯夫に尽くした。非常に生活が貧しかったため、娘を養女に出したのだという。キリの実父は肺結核のため35歳で没し、実母はキリが注目される数年前オーストラリアで亡くなったが、キリは2人に会ったこともないし、その係累と接触したいとも思っていない。「ニュージーランドでは、マオリの子供が貰われた場合、誰も出生のことなどを口にしない風習がありますの。そのほうがむしろビューティフルじゃございません!?」とキリ(Dame Kiri Janette Te Kanawa, ONZ, AC, DBE、誕生名はクレア・メアリー・テリサ・ローストロン)は言っている。
ジョン・プリッチャード(Sir John Michael Pritchard CBE)は、1921年2月5日生まれのイギリスの指揮者。幼少時から、ロンドン交響楽団のヴァイオリニストだった父親から音楽の手ほどきを受け、イタリアに留学して指揮法、ヴィオラ、ピアノ等を習得した。1947年にフリッツ・ブッシュの後を継いでグラインドボーン歌劇場の常任指揮者となって、その後1949年にブッシュの代役としてモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』を指揮してデビューを飾り注目を浴び、以降コヴェント・ガーデン王立歌劇場にもしばしば登場していた。続いて1951年と1952年のシーズンにウィーン国立歌劇場で指揮をしたほか、1953年にはピッツバーグ交響楽団を指揮してアメリカ・デビューも果たしている。そして1957年から1963年までは、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を歴任。やがて1964年からグラインドボーン音楽祭の音楽顧問を務め、1969年から1978年まで音楽監督の任にあった。さらに1962年から1967年まではロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者も兼任し、このオーケストラをグラインドボーン音楽祭に度々出演させている。1970年万博の年には、来日直前急逝したサー・ジョン・バルビローリに代わって急遽来日、東京でニュー・フィルハーモニア管弦楽団を指揮した。グラインドボーンの音楽監督から1978年からはケルン歌劇場の首席指揮者に転身し、1981年からブリュッセルのベルギー王立歌劇場(モネ劇場)の音楽監督も務め、オペラ指揮者として国際的な名声を確立した。その後1981年からBBC交響楽団の音楽監督になり、プロムスのシェフも兼ねて夏の名物プロムスでも活躍した。1986年からはサンフランシスコ歌劇場の音楽監督も兼任したが、1989年にサンフランシスコで急逝した。ヴィットリオ・グイやベルナルト・ハイティンクというマエストロたちに並ぶと際立った個性はないが、常に安定感のある流麗な演奏を保持して信頼度は高く、後年待望のサーに叙され、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのモーツァルトの「イドメネオ」録音により真のマエストロへの道を踏み出した直後にガンのため亡くなった。1989年のプロムス・ラスト・ナイトに、既にガンのため勇退を表明していたサー・ジョンが特別出演し椅子に座ったまま1曲だけ振ったあとで聴衆に引退のメッセージを伝えると満員の聴衆から温かい万雷の拍手が贈られました。この数ヶ月後の12月5日、奇しくもモーツァルトの命日に亡くなっています。
フランス歌曲&オペラ・アリア集
カナワ(キリ・テ)
EMIミュージック・ジャパン
2006-12-20

ジョン・プリッチャード指揮、ブリュッセル王立モネ劇場管弦楽団。1983年6、7月録音。
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