34-17444

商品番号 34-17444

通販レコード→豪オレンジ銀文字(ORIGINAL RECORDING BY THE DECCA CO,.LTD LONDON)盤

元気よく暴走気味のシベリウスではあれ、世界最高峰のオーケストラ、ウィーン・フィルと録音していたという事実は、若きマゼールの実力を物語っています。 ― 若い頃からヨーロッパとアメリカで活躍していたロリン・マゼール。マゼールは英EMI社だけからではなく、駆け出しの頃は英デッカ社からも気に入られていた。シベリウスの交響曲全集を完成させたのは30歳代前半の1963年から66年。デッカ録音の面目躍如といったところでしょうか、録音が素晴らしいのです。当時のデッカ社も心得ていたようでシベリウスやチャイコフスキーは、録音が良いことと演奏家が一流であることは必須です。本盤は、クールかつクリアな雰囲気となっており、朗々と鳴り渡る金管や明晰なティンパニなどは立派に雰囲気を醸し出している。シベリウスらしいかどうか、それはシベリウスの音楽に求めているものが聞き手それぞれだからなのだけれども、多くの指揮者がシベリウスに求める「清冽な響き」や「精神性」とはかけ離れた、極めてユニークな音楽といえましょう。素朴な原産地直系の自然体演奏とは、一線を画す、というよりも対極にあるのが当盤のアプローチ。きつく堅く締め上げられたようなフォルムに、ウィーン・フィルの緊迫サウンドが刺激たっぷりの音彩を付加。少々やり過ぎなくらい強烈な印象を与える個性派名演です。でも、「ほほう」と思わせられる瞬間がある。1963年にはザルツブルク音楽祭にデビューし、1965年にはベルリン・ドイツ・オペラの音楽監督に就任するなど、破竹の勢いでヨーロッパの音楽界を席巻していた若きマゼール。このシベリウスには、そんな彼の野心に満ち溢れた濃厚なロマンティシズムと、オーケストラを完璧に掌握しようとする意気込みが込められています。作曲家でもあったマゼールが、自らの楽曲理解や感動をそのままぶつけているからでしょう。横っ面を張られるような新鮮さがありました。決して明るすぎることのないシャープさは、けっして曲想から逸脱してはいません。このころのウィーン・フィルハーモニー管弦楽団にはワルター・バリリ、ヴィリー・ボスコフスキー、ヴァルター・ヴェラー、ルドルフ・シュトレンクといった錚々たるヴァイオリンの名手らが在籍しており、オーケストラの黄金時代を迎えていました。未だヴィルヘルム・フルトヴェングラーが、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団の指揮者だった頃、ウィーン・フィル独特の弦の響きを実現しようとして、関係者に掛け合い、ついに、ウィーン・フィルが使用しているものと同じ弦楽器 ― ヴァイオリンからコントラバスまでの5部編成を手に入れて、彼の楽団に演奏させた。結果は悲惨なもので、極めて地味で、それどころか、くすんだ冴えない響きになったという。この挑戦は、ウィーン・フィルのあの独特の響きは、楽器を豊かに艶やかに鳴らせる団員の技術に拠る所が大きいということを示す逸話である。そして、表現を支えるホールが大切だ。
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日本の音楽大学生は、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の団員も持たないような高価な楽器を持っている、というのはもはや言い古された話です。1990年代半ばの「日本音楽コンクール」の優勝者は数十万円の楽器を使っていました。そして、「学生音楽コンクール」の予選に行けば毎年、何百万、あるいは何千万もする楽器の持ち主が、落選していく現実を目の当たりにします。楽器が良くなくて、地味な音しか出なくても、指導者が楽器をきちんと鳴らせる技術を教えているかどうかを審判されているとも言えるでしょう。さて、ウィーン・フィルの弦楽器セクションで使用している楽器は、コンサートマスター以外のメンバーは、Franz GeissenhofかJoachim Schadeか、その他だという。フランツ・ガイセンホーフ(1753〜1821)は、オーストリアのヴァイオリン製作家で、「ウィーンのストラディヴァリ」の異名を持っているが、オークションハウスのブロンプトンズのデータによれば、近年の落札見積価格は概ね100~200万円程度である。また、ヨアヒム・シャーデ(1934~)は、現代ドイツのヴァイオリン製作家で、ウィーン・フィルと共にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の奏者にも愛用され、カール・ズスケやゲルハルト・ボッセも弾いていたという。100万円の楽器を鳴らせないで、ストラディバリウスやグアルネリを鳴らせない。ウィーン・フィルの弾いている楽器は「銘器」ではないが、彼らにはどんな楽器でも鳴らしてみせる腕があるから、よく鳴るんです。次に、ウィーン・フィルのあの極上のビロードサウンドは何によって生まれるのか。ストラディバリウスやベーゼンドルファーをひと弾きした時の鳴りの凄さを御存知だろうか。楽器全体のボディが一つの生命体のように猛烈に共鳴する。一方でホールは、きわめてライヴでしっかり作られた垂直・水平の平行面の構成によって強いリバべレーションが起こり、空間全体が共鳴する。そのような強い共鳴現象を起こすことによって〝楽器のように鳴る空間〟が出現する。下手くそがストラディバリウスを弾いてもダメなように、銘ホールを朗々と鳴らしきるのは難しいことのようだ。鳴りの悪い多目的ホールや容積ばかり大きくて演奏の手がかりをつかみにくいようなホールで、力づくの演奏ばかりを強いられているオーケストラが、急にウィーンやボストンに行ってもうまくならせるわけがない。いつも力んでいるから音が汚いし、音楽にとって大切なメゾフォルテからピアニッシモまでの表現が不得意になりがちではないだろうか。まして、ムジークフェラインザールは、500Hzでの空席時の残響が3秒に近い。ライプツィヒやミュンヘンのホールと比べて残響が長い。その響きに、ウィーン・フィルの楽団員が日常に馴染んでいる。また、演奏者ヘ音がよく返り、アンサンブルが十分に形成されて、トータルな音楽がステージ上で構成されることで、音楽全体を聴きながら演奏が行えるようになる。室内楽やオーケストラ曲においては、仲間たちのそれぞれの音の経過とそのアンサンブルの動きを聴きながら、そこに一瞬一瞬の自分の音を乗せていけるということがどれほど良い演奏に結びつくことか。〝ホールが表現を支えている〟というのは、演奏家が自分の発する音を聴きながら時間的経過としての一連の演奏の質を支えるのに重要な構成するものだということだ。
異才が過ぎて、「カラヤン」になり損なった男 ― ロリン・マゼールが成人する頃には世界規模の2つの大戦は終結していた。大人げなかったヴィルヘルム・フルトヴェングラーがヘルベルト・フォン・カラヤンに向けた ― レコード録音の壺を先天的に把握していたカラヤンのオーケストラの鳴らしっぷりへの― 羨望の裏返しが、相似た関係を迎えたとき、カラヤンとマゼール青年との間ではどうだったのか。ドイツ音楽界で権勢を振るったフルトヴェングラーが1954年11月30日、風邪から肺炎になり急死した。その直前、カラヤンとセルジウ・チェリビダッケが相次いでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した。オーケストラの楽団員はカラヤンの合理的で無駄のないリハーサルが気に入る一方、チェリビダッケとはリハーサルで罵り合いになった。ベルリン・フィルのフルトヴェングラー追悼演奏会で指揮したのは、ヴォルフガング・サヴァリッシュだった。フルトヴェングラーはアルトゥル・ニキシュ追悼演奏会を指揮する機会を偶然から得たことで後継者の座を手にしたがカラヤンは、そういう手はとらなかった。ベルリン・フィルの初のアメリカ・ツアーの指揮を引き受ける条件として、カラヤンは自分を終身の首席指揮者にするように求めた。戦後彗星のようにデビューし、400回以上もベルリン・フィルのコンサートを指揮したチェリビダッケではなく、戦前から数えても10回しか指揮していないカラヤンが4代目のベルリン・フィル首席指揮者となった顛末だ。カラヤンはベルリン・フィルとの関係が深まるがロンドンのフィルハーモニア管弦楽団やウィーン交響楽団、そしてスカラ座でも指揮し多忙な日程をこなしていた。1955年10月にはフィルハーモニア管を率いてアメリカを再訪し、ベートーヴェンの交響曲全曲録音を完成した。1956年1月27日に、エーリヒ・クライバーが亡くなった。1959年1月16日にアルトゥーロ・トスカニーニが90歳の誕生日を目前にして、ニューヨークで亡くなった。1946年以来、カラヤンと盟友関係にあった英EMIのウォルター・レッグは、カラヤンが去るのを引き止める力はなくなっていた。英国のデッカ・レコードがウィーン・フィルと専属契約を結んでいたこともあり、またベルリン・フィルと専属契約を結んだドイツ・グラモフォンが同じくカラヤンと契約を結んだ。寸間を抜くようにマゼールはまだ26歳だった1957年、ドイツ・グラモフォンでカラヤンより先にベルリン・フィルとのレコーディングを開始するという異例の扱いを受けた指揮者でした。8歳で指揮者デビューしたマゼールは、10歳のときにはNBC交響楽団の夏期公演でも指揮、続いてニューヨーク・フィルハーモニックも指揮して大きな注目を集めるほどの天才でした。その後、1952年にイタリアに留学してバッハなどバロック音楽を勉強、帰国後はボストンのバークシャー音楽センターでさらに指揮を学び、翌1953年にはヨーロッパに戻ってイタリアで指揮者デビューして成功を収めることとなります。そのデビュー公演がきっかけとなって、マゼールはヨーロッパ各地のオーケストラに客演を重ねるようになり、次第に知名度を高めてドイツ・グラモフォンと契約を結ぶに至ります。マゼールのレコーディング・デビューは、1957年2月にベルリン、イエス・キリスト教会で行われたベルリオーズ、チャイコフスキー、プロコフィエフによる3つの『ロメオとジュリエット』を収めた2枚組アルバム(LPM18381/82)で、ベルリン・フィルとの録音でした。このデビュー盤はドイツ・グラモフォンがステレオ録音を本格導入する前に行われたためモノラルとなってしまいましたが、セッション録音なので音質は聴きやすい水準です。
対峙する敵を一刀両断、返す刃で背後の敵をも倒すが如き、凄まじいキレとテンションの高さ、恐ろしくクリアな楽曲に対する読みはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の楽団員に『譜面がまるごと頭のなかにあるようでした』と震え上がらせている。そして感情の起伏の大きさ。対極から対極への転換の早さ。テンプの振りの速さと運動の大きさの力強さが、ひとつの狂気すら呼び起こす。若い頃から大作を得意としていたロリン・マゼールは、ベルリオーズの劇的交響曲『ロメオとジュリエット』Op.17も各地で演奏、ライヴ録音も遺されていますが抜粋とはいえレコーディング・デビューまで『ロメオとジュリエット』だったというのは凄い話です。組み合わせのチャイコフスキー・幻想序曲『ロメオとジュリエット』とプロコフィエフのバレエ組曲『ロメオとジュリエット』よりの5曲も好んで指揮していた作品で、若い2人の主人公の劇的な恋愛と周囲の闘争を描き上げるという題材をマゼールが濃密に描きあげます。指揮台上の超絶技巧家(ヴィルトゥオーゾ)という言葉があるとすれば、マゼール以上に相応しいマエストロはいない。また、マゼールは英語のほかにドイツ語、フランス語、イタリア語に堪能で、そうした背景もあってかフランスのオーケストラを頻繁に指揮し、さらにフランス語のオペラの録音までおこなっていたといいますから、その活動範囲の広さは驚異的。どのようなオーケストラからも普段の何倍もの輝かしい音を、短時間で手際のいいリハーサルとともに引き出した。とりわけオペラの本番は様々な不確定要素が錯綜する演奏の現場となるので、ギョッとするほどの即興の面白さ、アクの強い表情の突出で、マゼールの器用さは尊ばれた。シャープな芸風だった若きマゼールは当時破竹の勢いだったカラヤンの対抗勢力として大いに注目を集め、ドイツ・グラモフォン、EMIに続いてデッカやフィリップス、コンサート・ホール・レーベルなどへも録音を開始、バロックから近代に至る幅広いレパートリーを取り上げ若手指揮者としては異例の活躍ぶりを見せていました。現在のマゼールに対する評価はいろいろとありますが、1970年代の前半におけるマゼールの評価は「風雲児」「天才」「鬼才」というものだった。カラヤンの録音で一番充実しているのは1970年代後半から80年代前半の録音。「ベルリン・フィルを使って残しておきたい」と念願込めて再録音の多いチャイコフスキー、ドヴォルザーク、ベートーヴェンと1970年代の演奏は緊張感が違うと思う。円熟してヘルベルト・フォン・カラヤン節の極みとでも言える。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の迫力も頂点に達している。ウィーン・フィルとベルリン・フィルだけを相手に、ベートーヴェンの交響曲全集ばかりを4回も録音していた。カラヤンとの因縁深いマゼール。作曲家でもある資質と卓越したヴァイオリンの腕前といった、カラヤンがコンプレックスを抱えていた才能のある ― アンネ=ゾフィー・ムターがウィーン・フィルとの録音でチェンバロを弾き、ヨーロッパ讃歌を作曲したのはカラヤンの抵抗だったとしたらマゼールはなかなかの存在だったと思える ― 指揮者。冴えた閃きでカラヤンの苦手としたレパートリーを攻めてくるのだからたまらない。しかもそれが、カラヤンに負けない変態ぶり。後世に残す手本と成る録音を残そうと頑張っていたカラヤンには、そうしたマゼールの気ままぶりも辛抱ならなかったかもしれない。
ロリン・マゼール(Lorin Maazel)はクラシック界の巨匠と呼ばれる世界的指揮者。1930年3月6日、フランス・パリ近郊、ヌイイ=シュル=セーヌ(Neuilly-sur-Seine)生まれ。父はユダヤ系ロシア人、母はハンガリーとロシアのハーフ。生後まもなく一家でアメリカ移住。5歳頃からヴァイオリン、7歳頃から指揮の勉強を始める。8歳でニューヨーク・フィルを指揮。9歳でレオポルド・ストコフスキーの招きでフィラデルフィア管弦楽団を指揮。11歳でアルトゥーロ・トスカニーニに認められNBC交響楽団の夏季のコンサートを指揮。以後、10歳代半ばまでに全米のほとんどのメジャー・オーケストラの指揮台に上がっている。ピッツバーグ大学在学中はピッツバーグ交響楽団の一員として活躍。イタリアでバロック音楽を研究といった楽団員経験、まだまだ未開だったバロック音楽にも作曲、演奏の両面から造詣があった。その経験を経て、1953年に指揮者デビュー。1960年、フェルディナント・ライトナーと交代でワーグナーのオペラ「ローエングリン」を指揮してバイロイト音楽祭に史上最年少でデビュー。1963年、ザルツブルク音楽祭にデビューしたチェコ・フィルハーモニー管弦楽団とのコンサートでは、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番を弾き振り。ヴァイオリンの腕前も魅せる。指揮者としての信頼厚かったことも、1965年にフェレンツ・フリッチャイの後任として、ベルリン・ドイツ・オペラとベルリン放送交響楽団の音楽監督を皮切りに、1972年にジョージ・セル死去後空席だったクリーヴランド管弦楽団の音楽監督に。そして、1982年のウィーン国立歌劇場総監督就任。マゼールはウィーンに行くまでの約10年の間に厳しいトレーニングによりクリーヴランド管弦楽団を以ってセル時代の規律を取り戻し、見事なオーケストラに戻すことに成功した。またヴィリー・ボスコフスキーの後任としてニューイヤーコンサートの指揮者を1986年まで務めた経歴は良く知られる。1955年から25年にわたってニューイヤー・コンサートの指揮をしてきたボスコフスキーからヴァイオリンを弾きながら指揮をするスタイルも引き継ぎ、務めたこの7年という連続期間はボスコフスキー、クレメンス・クラウスに次ぐ長さであり、マゼール以降は1年毎の交代になりましたので、ニューイヤー・コンサートを語る上では外せない重要な指揮者です。当時のマゼールは1982年からウィーン国立歌劇場の総監督に就任することもあり、ウィーンでは絶大な人気を博していました。だが1984年にウィーンのポストを追われてからは、それまでとは一転して挫折の連続。ロサンゼルス・オリンピックが行われたこの年、4度目のベートーヴェンの交響曲全集を作り上げたが、うんざりしてきたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と軋轢を大きくし始めたヘルベルト・フォン・カラヤンがベルリン・フィルで予定していたヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲集「四季」にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を起用。最晩年になってカラヤンはウィーン・フィルとの関係を強めていった。カラヤンの晩年の輝きは魅力を増し、マゼールの影は薄れます。そしてついに、1989年10月。カラヤン亡き後のベルリン・フィルのシェフを選ぶ選挙でマゼールはクラウディオ・アバドに敗れ、新譜発売も途切れてしまいました。この居座古座にマゼールは巻き込まれた形だ。ジョージ・オーウェルの小説「1984年」に基づく自作のオペラ「1984年」には、このとばっちり経験への思いが皮肉られているのかもしれない。2002年からはニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督に就任。初来日の1963年以降30回近く来日し、NHK交響楽団をはじめ日本の主要オーケストラを指揮。2014年5月のボストン交響楽団との来日公演をキャンセルしていたが、同年7月13日に米ヴァージニア州の自宅で肺炎のため逝去。享年84歳。
  • Record Karte
  • 1968年3~4月ウィーン、ゾフィエンザールでのセッション、ステレオ録音。
  • AU DEC SXLA6364 ロリン・マゼール シベリウス・交響曲…
  • AU DEC SXLA6364 ロリン・マゼール シベリウス・交響曲…
Sibelius: the Seven Symphonies
J. Sibelius
Decca
2015-11-06